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高等学校古文/歴史書/十八史略

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

高等学校古文 > 高等学校古文/歴史書 > 十八史略

ここでは『十八史略』の中でも高校漢文で出題されやすいものだけを扱う。なお、高校の教科書や参考書では本文の一部を省略することが多い。本稿で扱う漢文もそれらに準拠している。

鼓腹撃壌

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白文と書き下し文

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帝尭陶唐氏帝嚳子也。其仁如天其知如神。就之如日、望之如雲。都平陽。茆茨不剪、土階三等。治天下五十年、不知天下治()、不治()歟、億兆願戴己歟、不願戴歟。問左右不知。問外朝不知。問在野不知。乃微服遊於康衢、聞童謡曰、

立我烝民 莫匪爾極
不識不知 順帝之則

有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、

日出而作 日入而息
鑿井而飲 耕田食
帝力何有於我哉

尭立七十年、有九年之水。使鯀治之。九載不績。尭老倦于勤。四嶽挙舜、摂行天下事。尭子丹朱不肖。乃薦舜於天。尭崩、舜即位。

(げう)1陶唐氏は帝(こく)の子なり。その仁は天の如くその知は神の如し。これに就けば日の如く、これを望めば雲の如し。平陽に都す。茆茨(ぼうし)()らず。土階は三等のみ2。天下を治むること五十年、天下治まるか、治まらざるか、億兆3己を戴くことを願ふか願はざるかを知らず。左右に問ふに知らず。外朝に問ふに知らず。在野に問ふに知らず。(すなは)ち微服4して康衢に遊び、童謡を聞くに(いは)く、「我が(じよう)民を立つるは、(なんぢ)の極に(あら)ざるなし。()らず知らず帝の則に従ふ」と。老人有り。()を含み腹を鼓し、壌を撃ちて歌ひて曰く、「日出て作し、日入りて(いこ)ふ。井を(うが)ちて飲み、田を耕して食らふ。帝力何ぞ我に有らんや」と。

尭立ちて七十年、九年の水有り。(こん)をして之を治めしむ。九載5績あらず。尭老いて勤めに倦む。四嶽6(しゅん)7を挙げて、天下の事を摂行せしむ。尭の子丹朱不肖8なり。乃ち舜を天に薦む。尭崩じ9、舜位に即く。

  1. 尭 尭は伝説上の天子。特に儒教では理想の君主としてあがめられる。
  2. 土階三等 天子の宮殿にある階段は本来石造りで9段ある。だからこれは大変質素なものである。
  3. 億兆 人民のこと。
  4. 微服 直訳すれば「粗末な服」。意訳すると「おしのび」。
  5. 九載 九年間
  6. 四嶽 もともとは泰山(東岳)・華山(西岳)・衡山(南岳)・恒山(北岳)の四つの霊峰。これから転じて東西南北の諸侯の長官を意味する。
  7. 舜 尭と並ぶ伝説上の天子。儒教では先の尭とセットで尭舜と呼び、どちらも理想的な君主としてあがめられる。
  8. 不肖 親に似ないこと。さらに、愚か者の意味もある。
  9. 崩ず 天子の死。崩御。

現代語訳

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帝尭陶唐氏は帝嚳の子である。そのいつくしみの心は天のよう(にゆきわたるもの)で、その知恵は神のようだった。尭に近づくと太陽のようであり、遠くから眺めると(恵みの雨をもたらす)雲のようだった。平陽を都とした。宮殿のかやぶき屋根の端は切りそろえず、階段は三段のみだった。天下を治めること50年になったが、世の中が(平和に)治まっているのかいないのか、人民は自分を天子として戴くことを願っているのかいないのかを知らなかった。側近のものに聞いてもわからない。政治を行う者に聞いてもわからない。民間の者に聞いてもわからない。そこでおしのびで町の大通りへ出かけて行くと童謡が聞こえてきた。(それは)「民衆の暮らしを成り立たせているのは帝尭の偉大な恩恵にほかならない。(民は)知らず知らずのうちに帝のお手本に従っている」(というものだった)。老人がいた。口中に食べ物をほおばり、腹鼓を打ち、壌を撃って歌って言うことには、「日が出れば働き、日が沈めば帰って休む。井戸を掘って水を飲み、田んぼを耕して食べる。帝尭の力(おかげ)などどうして俺たちに関係あろうか(いや、ない)」と。

帝尭が即位して70年になった。9年も洪水が引かなかった。鯀に治水の仕事をさせた。(しかし)9年間も実績をあげられなかった。帝尭も年をとって政治に飽きてきた。四嶽の官が舜を推薦したので、彼に政治を代行させた。尭の子丹朱は親に似ない馬鹿息子だった。そこで舜を天に推薦した。帝尭が崩御すると、舜が即位した。

解説

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尭が大変理想的な天子であったことを示す文章である。まず「茆茨不剪、土階三等」は天子として大変質素であると述べたが、ここには単にぜいたくをしないというだけでなく、人々になるべく負担をかけないようにしたという意味も含まれる。

誤解されやすいのは老人の歌である。現代の価値観からすると尭をないがしろにしているように見えるが、ここでは尭の仁徳が人々に強く意識されることなく、ごくごく自然に溶け込んでいることを示しているのである(ついでにいうと、側近から民間の者まで尭に世の中が治まっているかどうか聞かれてもわからなかったとされているが、これも尭の仁徳があまりに自然であり、これが特別なことだと思わなかったからである)。こうした「偉大さを世間に知らしめる」というのではなく「自由で豊かな生活を送れる世の中を、ごく自然な形で作り上げる」というのは現代ではなかなか理解しにくいところであるため、テストの際、本文の意図に関する問題で引っかかりやすい。

また、尭が年老いて自分の息子ではなく、賢者とされた舜に天子の位を譲ったことも注目したい。ここで中国における理想的な王朝交代である禅譲が行われたのだ。この尭から舜への「政権移行」と比較して、次の「采薇之歌」を見てみよう。


采薇之歌

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白文と書き下し文

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西伯卒、子発立。是為武王。武王東観兵至於盟津。是時諸侯不期而会者八百。皆曰、「紂可伐矣。」王不可引帰。紂不悛。王乃伐紂、載西伯木主以行。伯夷・叔斉叩馬諫曰、「父死不葬、爰及干戈。可謂孝乎。以臣弑君、可謂仁乎。」左右欲兵之。太公曰、「義士也。」扶而去之。王既滅殷為天子、追尊古公為太王、公季為王季、西伯為文王。天下宗周。伯夷・叔斉恥之、不食周粟。隠於首陽山、作歌曰、

登彼西山兮1 采其薇矣
以暴易暴兮 不知其非矣
神農虞夏忽焉没兮 我安適帰矣
于嗟徂兮 命之衰矣

遂餓而死。

西伯(せいはく)2(しゆつ)3し、子の(はつ)立つ。是れを武王4と為す。武王東のかた兵を(しめ)して盟津(まうしん)5に至る。是の時諸侯期せずして会する者八百。皆曰く、「(ちう)6()()し」と。王()かずして引きて帰る。紂(あらた)めず。王乃ち紂を伐たんとし、西伯の木主(ぼくしゆ)7を載せて以て行く。伯夷(はくい)叔斉(しゆくせい)馬を(ひか)へて(いさ)めて曰く、「父死して葬らず、(ここ)干戈(かんくわ)に及ぶ。孝と呼ぶ可けんや。臣を以って君を(しい)す、仁と()ふ可けんや」と。左右之を兵せん8と欲す。太公9曰く、「義士なり」と。(たす)けて之を去らしむ。王既に殷を滅ぼして天子と為し、古公10を追尊11して太王(たいわう)と為し、公季12を王季と為し、西伯を文王と為す。天下周を(そう)13とす。伯夷・叔斉之を恥ぢ、周の(ぞく)14を食らはず。首陽山15に隠れ、歌を作りて曰く、

彼の西山に登り 其の()16()

暴を以って暴に()へ 其の非を知らず

神農(しんのう)17()18()19忽焉(こつえん)として没しぬ 我(いづ)くにか適帰(てきき)せん

于嗟(ああ)()かん (めい)の衰へたるかな、と。

遂に餓ゑて死せり。

  1. 兮 主に詩賦に用いる置き字。
  2. 西伯 直訳では「西の諸侯の長」の意味。ただし、ここでは周の文王(公)・姫昌をさす。
  3. 卒 死ぬこと。
  4. 武王 周の武王・姫発のこと。周の創始者。
  5. 盟津 黄河の渡し場。今の河南省孟県の南とされる。
  6. 紂 の最後の王、紂王のこと。暴君として知られる。
  7. 木主 位牌
  8. 兵す ここでは殺すという意味。
  9. 太公 太公望・呂尚のこと。周の文王・武王の参謀として仕えたとされる。
  10. 古公 武王の曽祖父。
  11. 追尊 死者をあがめて後から尊号を送ること。
  12. 公季 武王の祖父。
  13. 宗 もともとの意味は「本家・主人」。転じて、天子とすること。
  14. 粟 もみ殻のついた米。転じて、扶持米・俸禄(現代流に言えば給料)。
  15. 首陽山 西山と同じ。山西省にある山。
  16. 薇 わらび、ぜんまい。シダ植物で山菜の一種。わらびの根からはわずかにデンプンが取れる。
  17. 神農 三皇の一人。薬草を探して人民を病気から救ったといわれる。
  18. 虞 舜のこと。
  19. 夏 中国最古の王朝とされる(ただし科学的に証明されていない)夏王朝の創始者・禹(う)のこと。黄河の治水に成功したことをもって舜より天子を禅譲された。

現代語訳

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西伯が亡くなり、子の発が位についた。これが武王である。武王は(紂王を反省させるために)軍事力を示しながら、盟津までやってきた。このとき、諸侯は約束したわけでもないのに集まった者が800人にも達した。皆「紂王を討伐すべきです」と言った。(しかし)武王はそれを承知せずに自国に引き上げた。(ところがそれでも)紂王は反省して行いを改めなかった。(ついに)武王は紂王を討伐しようと決心して、西伯の位牌を(戦車に)載せて出発しようとした。伯夷と叔斉は馬の手綱を取って諌めて言った。「父君が亡くなられてまだ葬式も終わらないのに戦争をなさろうとしています。これを『孝』と言えるでしょうか。臣下の者が主君を殺そうとしています。これを『仁』と言えるのでしょうか。」(武王の)側近たちはこの二人を殺そうとした。太公は「正義の人である」と言った。(太公は)二人を助けてその場から立ち去らせた。(さて、)王はすでに殷を滅ぼして天子となり、古公には太王と、公季を王季と、西伯を文王とおくりなした。天下(の者)は周を天子とした。伯夷・叔斉はこれを恥として、周の俸禄を受けようとせず、首陽山に隠れ、歌を作った。

あの西山に登って、そこのぜんまいを採っている。
(武王は)乱暴な行為で(紂王の)暴虐な行為にとってかわった。(しかも武王は)その悪さを理解しない。
神農・虞・夏(のような理想的な時代は)たちまち過ぎ去ってしまい、われわれはどこでこの身を落ち着けたらよいのか。
ああ、もう死のう。わが運命は衰えてしまった。

とうとう(二人は)餓死した。

解説

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先ほどの「鼓腹撃壌」で行われた禅譲に対して、こちらでは武力によって暴君を倒す「放伐」が行われた。しかし、放伐を良しとしない伯夷・叔斉は命がけでこれを止めようとする。「臣下が君主を殺すことは不正であるし、暴力に暴力で対抗するのは過ちだ」というわけである。一度は太公望・呂尚によって助けられるが、結局は自分の信念を曲げずに(事実上)自殺してしまう。

さて、この伯夷・叔斉は兄弟であり(そもそも「伯」は兄、「叔」は弟の意味)、もともとは孤竹君という諸侯の子だった。父の死後、兄弟で位の譲り合いをして、とうとう二人とも地位を継承せずに国を去ったという経歴の持ち主である。この前日談と二人の最期はその後、いろいろな人物に影響を与え、その評価も賛否両論であった。特に司馬遷は『史記』の列伝(個々の人物伝や異民族の民俗集)のトップにこの二人を挙げて、正しい人が困難に遭遇することを「天道是か非か」と問いかけているのは特に有名である。また、日本でも徳川光圀が若い頃に影響を受けたことでも有名である。


鶏口牛後

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(けいとう ぎゅうご)

「合従連衡」(がっしょう れんこう)ともいう。

白文と書き下し文

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秦人恐喝諸侯求割地。有洛陽人蘇秦。遊説秦恵王、不用。乃往説燕文候、与趙従親。燕資之、以至趙。説粛候曰、「諸侯之卒、十倍於秦。并力西向、秦必破矣。為大王計、莫若六国従親以擯秦。」粛候乃資之、以約諸侯。蘇秦以鄙諺、説諸侯曰、「寧為鶏口、無為牛後。」於是六国従合。

蘇秦者、師鬼谷先生。初出遊、困而帰。妻不下機、嫂不為炊。至是、為従約長、并相六国。行過洛陽。車騎輜重、擬於王者。昆弟妻嫂、側目不敢視、俯伏侍取食。蘇秦笑曰、「何前倨而後恭也」。嫂曰、「見季子位高金多也」。秦喟然歎曰、「此一人之身。富貴則親戚畏懼之、貧賎則軽易之。況衆人乎。使我有洛陽負郭田二頃、豈能佩六国相印乎。」於是、散千金、以賜宗族朋友。既定従約帰趙。粛侯封為武安君。其後、秦使犀首欺趙、欲破従約。斉魏伐趙。蘇秦恐去趙、而解従約。

魏人有張儀者。与蘇秦同師。嘗遊楚、為楚相所辱。妻慍有語。儀曰、「視吾舌、尚在否。」蘇秦約従時、激儀使入秦。儀曰、「蘇君之時、儀何敢言。」蘇秦去趙而従解。儀専為横、連六国以事秦。

秦人(しんひと)諸侯を恐喝して地を割かんことを求む。洛陽の人蘇秦有り。秦の恵王に遊説して用ゐられず。乃ち往きて燕の文候に説き、趙と従親(しやうしん)1せしむ。燕之に資し、以て趙に至らしむ。粛候に説きて曰く、「諸侯の卒、秦に十倍す。力を(あは)せて西に向かはば、秦必ず破れん。大王の為に計るに、六国従親して以て秦を(しりぞ)くるに若くは莫し」と。粛候乃ち之に資し、以て諸侯に約せしむ。蘇秦鄙諺(ひげん)2を以て諸侯に説きて曰く、「寧ろ鶏口と為るとも、牛後と為ること無かれ」と。是に於いて六国従合す。 () 蘇秦は、鬼谷先生3を師とす。初め出遊し、困しみて帰る。妻は()を下らず、(あによめ)は為に(かし)がず。是に至り、従約の長となり、六国に并せ相4たり。行きて洛陽を過ぐ。車騎輜重(しやきしちやう)、王者に擬す。昆弟妻嫂、目を(そば)めて敢て視ず、俯伏(ふふく)して侍して食を取る。蘇秦笑ひて曰はく、「何ぞ前には(おご)りて後には恭しきや」と。嫂曰はく、「季子の位高く金多きを見ればなり」と。秦喟然(きぜん)5として歎じて曰はく、「此れ一人之身なり。富貴なれば則ち親戚も之を畏懼し、貧賎なれば則り之を軽易す。(いは)んや衆人をや。我をして洛陽負郭の田二頃6有らしめば、豈に能く六国の相印を()びんや」と。是に於いて、千金を散じ、以て宗族朋友に賜ふ。既に従約を定めて趙に帰る。粛侯封じて武安君と為す。其の後、秦犀首7をして趙を欺かしめ、従約を破らんと欲す。斉魏、趙を伐つ。蘇秦恐れて趙を去り、(しかう)して従約解けぬ。

魏人に張儀といふ者有り。蘇秦と師を同じくす。嘗て楚に遊び、楚相の辱しむる所と為る。妻(いか)りて語有り。儀曰はく、「吾が舌を視よ、尚ほ在りや否や」と。蘇秦従を約せし時、儀を激して8秦に入らしむ。儀曰はく、「蘇君の時、儀何ぞ敢へて言はん」と。蘇秦趙を去りて従解けぬ。儀専ら横9を為し、六国を連ねて以て秦に事へしむ。

  1. 従親 「従」は「縦」と同じで、ここでは南北の意味。よって「従親」は南北の同盟をさす。
  2. 鄙諺 世間のことわざ。
  3. 鬼谷先生 姓は王、名は詡(く)。現河南省登封県の鬼谷にいたために鬼谷先生と号した。蘇秦・張儀の師であるため、縦横家の祖とされる。著作として『鬼谷子』を著したとされるが疑わしい。
  4. 相 政治家のトップである宰相のこと。「相たり」で「宰相になる」と解する。
  5. 喟然 嘆く様子。がっかりして。
  6. 「洛陽負郭の田二頃」 「負」は背、「郭」は外城の意味。このことから「洛陽の外城を背にした」となる。さらに城に近い田は良い田だったとされる。「頃」は面積の単位で、1頃は約170a(一説には約280a)。
  7. 犀首 秦の役職。ここでは遊説家だった公孫衍のこと。
  8. 激す 刺激する。発奮させる。
  9. 横 「衡」と同じ意味で東西をさす。

現代語訳

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秦の国は(ますます強大化して)諸侯をおどして土地を割譲させようとした。洛陽の人に蘇秦(という人)がいた。彼は秦の恵王に遊説したが採用されなかった。そこで燕の文候に(自説を)説いて趙と南北同盟を結ばせようとした。燕は(その説に賛成して)資金を出して、趙へ行かせた。(趙の)粛候に「諸侯の兵力を合わせると秦の十倍になります。力を合わせて西に向かえば、秦は必ず敗北します。王様のために計画を立てますと、六国が南北同盟を結んで秦(の圧力)をはねのけるにこしたことはありません」と説いた。粛候は(その説に賛成して)蘇秦に資金を提供して諸侯に同盟を結ばせた。蘇秦は卑近なたとえを用いて諸侯に説いて言った。「鶏の口になったとしても、牛の尻になってはいけません」と。こうして六国は南北連合を結ばせた。

(さて、話を戻して、かつて)蘇秦は鬼谷先生に習っていた。初めに(秦に)遊説する為に故郷を出たが、困窮の果てに帰ってきた。(しかし)妻は、はたおり機を下りず、兄嫁は彼の為に食事を作らなかった。その後、連合の長となり、六国の宰相を兼ねることになった。(旅の途中で)洛陽を通り過ぎた(ときのこと)。彼の行列の車や馬は、王のようであった。 兄弟や妻、兄嫁などは(恐れ入って)彼から目をそらし、まともに見ることができなかった。ただ平身低頭で付き従い、食事の給仕をした。蘇秦は笑って言った。「どうして前は威張っていたのに、今度はうやうやしいのか」と。兄嫁は「あなたの身分が高く、金持ちになったのを見たからです」と言った。蘇秦はがっかりしてため息をついて言った。「私は同一人物であるのに、 裕福で身分が高ければ親戚も恐れてびくびくし、貧しく身分も低ければ軽んじあなどる。まして一般の民衆はなおさらだ。 もし、私に洛陽郊外の良田が二頃あれば(安穏としていられたのだから)、六国の宰相の印を腰につけることができただろうか」と。そこで、莫大な金をばらまいて、親族や友人に与えた。やがて蘇秦は同盟を結び終えて、趙に帰った。粛侯は彼に領土を与え、武安君とした。その後、秦は犀首に命じて、趙をあざむき同盟を破壊しようとした。(その計略によって)斉と魏は趙を攻撃した。蘇秦は(その様子を見て)恐れて趙を去ったため、南北の六国同盟は消滅してしまった。

(さて、今度は)魏の国の人に張儀という者がいた。蘇秦と同じ鬼谷先生に師事した。かつて、楚に遊説した際、楚の宰相に恥をかかされた。妻は怒って文句を言った。張儀は「私の舌を見ろ、まだちゃんとあるか(もしあるならばきっと名誉を挽回してやる)」と言った。蘇秦が南北六国の同盟を結んだとき、(蘇秦は)張儀を怒らせ(ると同時に発奮させ)て秦に行くよう仕向けた。張儀はこう言った、「蘇君が健在なうちは、どうして私は(彼の策に反するような)自説を説くだろうか(いや、そんなことはしない)」と。蘇秦が趙を去って、南北六国の同盟は崩れた。(そこで、ついに)張儀はもっぱら連衡を説いて、六国を横に連ねてそれぞれを秦に仕えさせた。

解説

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この話の中で少しわかりにくいのは張儀が「蘇君の時、儀何ぞ敢へて言はん(蘇君が健在なうちは、どうして私は彼の策に反するような自説を説くだろうか)」といったことだろう。

まず蘇秦の説いた「合従」について見てみよう。これは秦以外の全ての国々が協力して秦に対抗する作戦である。それに対して張儀が説いた「連衡」は秦が六国それぞれと同盟を結ぶことで、六国をばらばらにすると同時に事実上、秦に服属させる外交戦略である。蘇秦・張儀によって七国の同盟関係が変化した(「対秦包囲網」から「秦への従属政策」へ)ことから二人が行った外交戦略の名前をとって「合従連衡」という言葉が生まれた。現代では立場や目的が異なる団体や人物が一時の利害から協力すること(そして、それがすぐに破綻ないし変化しそうなこと)を指す。

このあたりは『史記』の「蘇秦列伝」「張儀列伝」に詳しいのだが、少し述べる。蘇秦は合従が秦によって破られるのをおそれ、同門の張儀を秦に派遣することで合従を有利に運ぼうとした。しかも、ただ派遣するだけでなく侮辱して怒らせ、発奮させると同時に活動資金に困っている張儀をひそかに支援して秦に行かせて、恵王に仕えられるようにした。張儀は後日、このことに気付き、蘇秦への恩義と深い洞察への感服から蘇秦が健在なうちは合従策に手を出さないことにしたといわれる。


先従隗始

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白文と書き下し文

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燕人立太子平為君。是為昭王。弔死問生、()卑辞厚幣、以招賢者。問()郭隗曰、「斉因孤之国乱、而襲破燕。孤極知燕小不足以報。誠得賢士与共国以雪先王之恥、孤之願也。先生視可者。得身事之。」 隗曰、「古之君有以千金使涓人求千里馬者。買死馬骨五百金而返。君怒。涓人曰、『死馬且買之。況生者乎馬今至矣。』不期年、千里馬至者三。今王必欲致士、先従隗始。況賢於隗者、豈遠千里哉。」

於是昭王為隗改築宮、師事之。於是士争趨燕。

燕人(えんひと)太子平を立てて君と為す。是れを昭王と為す。死を弔ひ生を問ひ、辞を(ひく)くし幣1を厚くして、以つて賢者を招く。郭隗(かくくわい)に問ひて曰はく、「斉は孤2の国の乱るるに因りて、襲ひて燕を破る。孤極めて燕の小にして以つて報ずるに足らざるを知る。誠に賢士を得て与に国を共にし、以つて先王の恥を(すす)がんことは、孤の願ひなり。先生可なる者を(しめ)せ。身之に(つか)ふることを得ん。」と。

隗曰はく、「(いにしへ)の君に千金を以つて涓人(けんじん)3をして千里の馬4を求めしむる者有り。死馬の骨を五百金に買ひて返る。君怒る。涓人曰はく、『死馬すら且つ之を買ふ。(いは)んや生ける者をや。馬今に至らん』と。期年5ならずして、千里の馬至る者三有り。今、王必ず士を致さんと欲せば、()づ隗より始めよ。況んや隗より賢なる者、豈に千里を遠しとせんや。」と。

是に於いて昭王隗の為に改めて宮を築き、之に師事す。是に於いて士6争ひて燕に(おもむ)く。

  1. 幣 礼物。
  2. 孤 王侯の謙遜した一人称。特に喪中(死者を弔う間)に使う。
  3. 涓人 「涓」は「潔」の意味。王の左右にいて清掃をつかさどる者。
  4. 千里の馬 古来より中国では、最高の名馬は一日に千里走るとされた。なお、当時の中国の1里は540m。
  5. 期年 一年。
  6. 士 賢士・賢者。

現代語訳

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燕の国は太子の平を立てて王とした。これが昭王である。戦死者を弔い、生存者を見舞い、へりくだった言葉遣いをし、多くの礼物を用意して、賢者を招聘しようとした。昭王は郭隗にたずねて、「斉はわが国の混乱につけこんで、燕を攻め破った。私は燕が小国で、報復できないことをよく承知している。(そこで)ぜひとも賢者を味方に得て、その人物と共に政治を行い、先代の王の恥をすすぐことが、私の願いである。先生、それにふさわしい人物を推薦していただきたい。私自身その人物を師としてお仕えしたい」と言った。

郭隗は、「昔の王で、涓人に千金を持たせて、一日に千里走る名馬を買いに行かせた者がおりました。(ところが、涓人は)死んだ馬の骨を五百金で買って帰って来ました。王は怒りました。涓人は言いました『(名馬であれば)死んだ馬の骨でさえ(大金を出して)買ったのです。まして生きている馬だったらなおさら(高く買うに違いないと世間の人は思うことでしょう)。千里の馬はすぐにやって来ます』と。一年もたたないうちに、千里の馬が三頭もやって来ました。今、王がぜひとも賢者を招き寄せたいとお考えならば、まずこの隗からお始めください。(そうしたら)私より賢い人は、どうして千里の道を遠いと思いましょうか。(いや、遠いと思わずにやって来るでしょう。)」と答えた。

そこで昭王は、郭隗のために新たに邸宅を造って郭隗に師事した。その結果、賢者たちは先を争って燕に駆けつけた。

解説

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「隗より始めよ」という故事成語の基になった話である。もともとこの話からわかるように「私からまず使ってください」という自薦の言葉だったのが、だんだん意味が変化して「言い出した人物から物事を始めるべき」という意味で使われることが多くなっている。

気をつけたいのは郭隗のたとえ話である。「死んだ馬」といってもなんでもよい訳ではない。名馬だからこそ死んでも価値がある、まして生きた名馬ならもっと価値があるということである。「どこぞの馬の骨」でも良いわけではない。ここに郭隗の(いくらか謙遜の混じった)自己推薦が見えてくるようである。

さて、ここでは省略したが、この郭隗の策は大当たりして、後に戦国時代の名将とされる楽毅が燕にやってくる。そして昭王の望んだとおり燕は斉に猛反撃を行い、楽毅の活躍によって斉の70あまりの城を奪ったという。


鶏鳴狗盗

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白文と書き下し文

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靖郭君田嬰者、斉宣王之庶弟也。封於薛。有子曰文。食客数千人。名声聞於諸侯。号為孟嘗君。秦昭王、聞其賢、乃先納質於斉、以求見。至則止、囚欲殺之。孟嘗君使人抵昭王幸姫求解。姫曰、「願得君狐白裘。」蓋孟嘗君、嘗以献昭王、無他裘矣。客有能為狗盗者。入秦蔵中、取裘以献姫。姫為言得釈。即馳去、変姓名、夜半至函谷関。関法、鶏鳴方出客。恐秦王後悔追之。客有能為鶏鳴者。鶏尽鳴。遂発伝。出食頃、追者果至、而不及。孟嘗君、帰怨秦、与韓魏伐之、入函谷関。秦割城以和。

靖郭(せいくわ)田嬰(でんえい)なる者は、斉の宣王の庶弟1なり。薛2に封ぜらる。子有り文と曰ふ。食客数千人。名声諸侯に聞こゆ。号して孟嘗君(まうしやう)と為す。秦の昭王、其の賢を聞き、(すなは)ち先づ質を斉に納れ、もって(まみえ)んことを求む。至れば則ち止め、(とら)へて之を殺さんと欲す。孟嘗君人をして昭王の幸姫3(いた)り解かんことを求めしむ。姫曰く、「願はくは君の狐白裘(こはくきう)4を得ん」と。(けだ)し孟嘗君、(かつ)てもって昭王に献じ、他の裘無し。客に()く狗盗を為す者有り。秦の蔵中に入り、裘を取りて姫に献ず。姫為に言ひて(ゆる)さるるを得たり。即ち馳せ去り、姓名を変じ夜半に函谷関5に至る。関の法、鶏鳴きて方に客を出だす。秦王の後に悔いて之を追はんことを恐る。客に能く鶏鳴を為す者有り。鶏(ことごと)く鳴く。遂に伝を発す。出でて食頃(しよくけい)にして、追う者果たして至るも及ばず。孟嘗君、帰りて秦を怨み、韓魏と之を伐ち函谷関に入る。秦城を割きて以て和す。

  1. 異母弟。
  2. 現在の山東省滕州。
  3. お気に入りの女官。寵姫。
  4. 狐のわきの白い毛だけを集めて作った衣。一着に狐が一万匹必要と言われるほど非常に希少なものであった。
  5. 現在の河南省にあった関所。秦の都・咸陽(後の長安。現在の西安市)の東に建てられた。

現代語訳

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靖郭君田嬰という人は斉の宣王の異母弟である。薛に領地をもらって領主となった。子どもがいて(その名を)文という。食客は数千人いた。その名声は諸侯に伝わっていた。孟嘗君と呼ばれた。秦の昭王がその賢明さを聞いて、人質を入れて会見を求めた。(昭王は孟嘗君が)到着するとその地にとどめて、捕らえて殺そうとした。孟嘗君は配下に命じて昭王の寵姫へ行かせて解放するように頼ませた。寵姫は「孟嘗君の狐白裘がほしい」と言った。実は孟嘗君は狐白裘を昭王に献上していて狐白裘はなかった。食客の中にこそ泥の上手い者がいた。秦の蔵の中に入って狐白裘を奪って寵姫に献上した。寵姫は(孟嘗君の)ために口ぞえをして釈放された。すぐに逃げ去って、氏名を変えて夜ふけに函谷関についた。関所の法では鶏が鳴いたら旅人を通すことになっていた。秦王が後で(孟嘗君を釈放したのを)後悔して追いかけてくることを恐れた。食客に鶏の鳴きまねの上手い者がいた。(彼が鶏の鳴きまねをすると)鶏はすべて鳴いた。とうとう旅客を出発させた。出てからまもなく、やはり追う者がやってきたが追いつくことはできなかった。孟嘗君は帰国すると秦をうらんで韓・魏とともに秦を攻めて函谷関の内側に入った。秦は町を割譲して和平を結んだ。

解説

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戦国四君と呼ばれた孟嘗君のエピソードである。このことから「鶏鳴狗盗」という四字熟語が生まれた。『史記』ではつまらないことしかできない者も使い道によっては役に立つという孟嘗君の先見の明をたたえる部分があるが、ここでは略されている。なお、今の「鶏鳴狗盗」の意味は「つまらないことしかできないこと、または人物」という悪いものと「そんな人物でも役に立つことがある、秀でたものが一つぐらいはある」という多少はよいものの二つがある。

またこの話を基にして作られたのが百人一首にも収められている、清少納言の「夜をこめて とりの空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 」という和歌である。

完璧而帰(「澠池之会」を含む)

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白文と書き下し文

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趙恵文王時、嘗得楚和氏璧。秦昭王、請以十五城易之。欲不与、畏秦強、欲与、恐見欺。藺相如願奉璧往。曰、「城不入、則臣請、完璧而帰。」既至。秦王無意償城。相如乃紿取璧、怒髪指冠、卻立柱下曰、「臣頭与璧倶砕。」遣従者懐璧、閒行先帰、身待命於秦。秦昭王賢而帰之。

秦王約趙王会澠池。相如従。及飲酒、秦王請趙王鼓瑟。趙王鼓之。相如復請秦王撃缶為秦声。秦王不肯。相如曰、「五歩之内、臣得以頸血濺大王。」左右欲刃之。相如叱之。皆靡。秦王為一撃缶。秦終不能有加於趙。趙亦盛為之備。秦不敢動。

趙の恵文王の時、(かつ)て楚の和氏(くわし)(へき)1を得たり。秦の昭王、十五城を以つて之に易へんことを請ふ。与へざらんと欲すれば、秦の強きを畏れ、与へんと欲すでば、欺かれんことを恐る。藺相如(りんしやうじよ)璧を奉じて往かんと願ふ。曰はく、「城入らずんば、則ち臣請ふ、壁を(まつた)うして帰らん」と。既にして至る。秦王城を償ふに意無し。相如(すなは)紿(あざむ)きて璧を取り、怒髪冠を指し2、柱下に卻立(きやくりつ)3して曰はく、「臣の頭璧と倶に砕けん」と。従者をして壁を(いだ)きて閒行(かんかう)4して先づ帰らしめ、身は命を秦に待つ。秦の昭王賢として之を帰す。

秦王趙王に約して澠池(めんち)5に会す。相如従ふ。酒を飲むに及び、秦王趙王に(しつ)6を鼓せんことを請ふ。趙王之を鼓す。相如復た秦王に()7を撃ちて秦声を為さんことを請ふ。秦王(がへ)んぜず。相如曰はく、「五歩の内、臣頸血を以つて大王に(そそ)ぐを得ん」と。左右之を(じん)せん8と欲す。相如之を叱す。皆(なび)く。秦王為に一たび缶を撃つ。秦(つひ)に趙に加ふる有る能はず。趙も亦盛んに之が備へを為す。秦()へて動かず。

  1. 和氏の璧 楚の卞和が見つけたとされる宝石(W:ヒスイ)。この逸話から「連城之璧」とも呼ばれるようになる。
  2. 怒髪冠を指し 髪が逆立ち冠をつくほどの怒りの様子。
  3. 卻立 しりぞいて立つ。
  4. 閒行 人目につかず、密かに行くこと。
  5. 澠池 現河南省澠池県。当時は韓の領土。
  6. 瑟 琴の一種。当時、趙の都である邯鄲の遊女たちが盛んに引いていた。
  7. 缶 素焼きの酒器。当時、秦ではこれを打って歌の調子をとった。なお、音読みでは「フ」だが訓読みでは「ほとぎ」。
  8. 刃 刀剣で切り殺すこと。 

現代語訳

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趙の恵文王は、かつて和氏の璧を手に入れた。秦の昭王は15の城と交換することをもちかけた。与えまいとすれば秦の強い力が恐ろしく、与えようとすればだまされることを恐れた。(そこで)藺相如は和氏の璧をささげて(秦に)行こうと申し出た。(さらに相如は)「もし城が手に入らなければ、私が璧を無事に持って帰りましょう」と言った。(相如は秦に)既に着いた。(やはり)秦王は城を提供する意思はなかった。そこで、相如はだまして1璧を取り、怒りで髪が逆立った様子で柱の下にしりぞいて立ち、「私の頭と共にこの璧を砕いてしまいましょう」と言った。(こうして時間稼ぎをした後で)お供の者に璧を持たせてこっそりと先に帰らせ、自分は秦王の命令を待った。秦の昭王は相如を賢者であるとして、帰した。

秦王は趙王と約束して澠池で会見することになった。相如も(趙王の)お供をした。酒を飲み進めていくうちに、秦王は趙王に瑟を弾いてほしいと言った。趙王はこれを弾いた。相如はまた、秦王に対して(ほとぎ)を打って秦の民謡を聞かせてほしいとお願いした。秦王はこれを承知しなかった。相如は「(私と王の距離は)五歩以内です。私の首の血を王に注ぎかけることもできるのですよ」と言った。(秦王の)左右にいたお付きの者は(相如を無礼であるとして)殺そうとした。相如は彼らを一喝した。お付きの者たちは皆恐れ入ってしまった。(そこで、しかたなく)秦王は一回缶を打った。秦は最後まで趙に圧力を加え(て、屈服させ)ることができなかった。また、趙も秦に対して軍備を行っていた。秦は動けなかった。

  1. 『史記』によれば「璧に傷があります。それを示しましょう」と言ったとされる。

解説

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この後の「刎頸之交」に続く物語である。いわば「藺相如と廉頗」物語の前半にあたる。「澠池之会」では、当時の常識や省略が多く、ただ現代語訳しただけではわかりにくいところが多い。ここで補足しよう。

まず秦王が趙王に瑟を弾かせる場面である。趙王が自分から場を盛り上げるために自主的に弾くのならばともかく、秦王が趙王に弾かせるというのは、前者が後者を格下とみなしているからである。これに対して藺相如が秦に缶を打って秦の民謡を歌うようにお願いしたのは「趙王がわざわざ秦王のために演奏したのだから、今度は秦王がお返しの演奏をする」ことを演出することで秦と趙は対等な関係であることをアピールするためである。また、秦は強大だが野蛮な国とみなされており、「瑟のような楽器もなく、本来楽器でもない缶を楽器にするような野蛮な国であり、それを王の宴席でも使うみっともない国」として逆に恥をかかせようとしたのである。それがわかっているから秦王はそれを拒否したのである。

そして、相如が「五歩の内、臣頸血を以つて大王に濺ぐを得ん」というが、これは要するに「応じなければ、自分の命と引き換えに秦王を殺すこともできる」という脅しなのである。だからこそ秦王の側近はいきりたち、秦王もいやいやながらも一回だけ缶を打つのである。

さて、この前半「完璧而帰」が完璧の語源である。璧も趙の面子も失わずに「完璧に」任務を遂行した。よくある誤字に「完壁」というのがあるが、これが間違いなのはこのエピソードからもわかるだろう。「璧を(まっと)うする」ならともかく「壁を完う」しても仕方あるまい。

刎頸之交

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白文と書き下し文

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趙王帰以相如為上卿。在廉頗右。頗曰、「我為趙将、有攻城野戦之功。相如素賤人。徒以口舌居我上。吾羞為之下。我見相如、必辱之。」相如聞之、毎朝常称病、不欲与争列。出望見、輒引車避匿。其舎人皆以為恥。相如曰、「夫以秦之威、相如廷叱之、辱其群臣。相如雖駑、独畏廉将軍哉。顧念強秦不敢加兵於趙者、徒以吾両人在也。今両虎共闘其勢不倶生。吾所以為此者、先国家之急、而後私讐也。」頗聞之、肉袒負荊詣門謝罪、遂為刎頸之交。

趙王帰り、相如を以つて上卿1と為す。廉頗(れんぱ)の右2に在り。頗曰はく、「我趙の将と為り、攻城野戦の功有り。相如は(もと)賤人(せんじん)3なり。()だ口舌を以つて我が上に居るのみ。(われ)之が下たるを()づ。我相如を見ば、必ず之を辱めん」と。相如之を聞き、朝する4毎に常に病と称して、(とも)に列を争ふを欲せず。出でて望見すれば、(すなは)ち車を引きて避け(かく)る。其の舎人5皆以つて恥と為す。相如曰はく、「()れ秦の威を以つてすら、相如之を廷叱し、其の群臣を辱む。相如()なりと(いへど)も、独り廉将軍を(おそ)れんや。顧念(おも)ふに強秦の()へて兵を趙に加へざるは、徒だ吾が両人の在るを以つてなり。今両虎共に闘はば、其の勢ひ(とも)には生きざらん。吾此れを為す所以(ゆゑん)は、国家の急を先にして、私讐(ししう)を後にすればなり」と。頗之を聞き、肉袒(にくたん)6して(けい)7を負ひ、門に(いた)りて罪を謝し、遂に刎頸(ふんけい)の交はりを為す。

  1. 大臣級の高官。
  2. 古代中国では右が上位とされた。
  3. 『史記』によればもともと藺相如は宦官の客人であった。
  4. 家来。
  5. 朝廷に出仕すること。
  6. 肌脱ぎ。
  7. イバラ。とげのある植物。

現代語訳

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趙王は帰国してから藺相如を上卿とした。廉頗よりも上の位であった。廉頗は「私は趙の将軍となって城攻めや野戦の功績がある。相如はもともといやしい身分の者だ。ただ口先だけで私よりも上位にいる。私はこれより下にいることが恥ずかしい。私は相如に会ったらきっと辱めてやろう」と言った。相如はこれを聞いて、朝廷に出仕すべきときにはいつも病気だと言って、(出仕せずに)二人が序列争いをすることを好まなかった。外出して廉頗を遠くから見ると車を引いて隠れて避けた。相如の家来たちは皆(相如のこのような態度を)恥ずかしく思っていた。(そこで)相如は言った。「そもそも秦の威力に対しても(私はそれに屈することなく)、秦王をしかりつけて家臣たちに恥をかかせた。この相如は役立たずではあるが、どうして廉将軍を恐れるだろうか。私が思うに強大な秦が趙へ出兵しないのは、ただ私たち二人(藺相如・廉頗)がいるからだ。今この二匹の虎が闘えば、そのなりゆきは共に生きることはできず、どちらか一方は死ぬだろう。私がこのようなことをしているのは国家の急務を優先して私的なうらみごとを後回しにしているからなのだ」と。頗はこれを聞いて肌脱ぎをしてイバラを背負い(相如の家の)門にやってきて自らの罪をわびて、結局、刎頸の交わりを結んだ。

解説

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「藺相如と廉頗」の物語の後半である。既に見たように藺相如が上卿になったのは「完璧而帰」と「澠池之会」の功績によるものだった。どちらも藺相如の機知によって趙の面子を保ち、強大な秦に屈服しない姿勢を見せたもので、その功績は軍功に劣らず大であったが、軍人として活躍していた廉頗からすれば実力のない「口舌の徒」に見えたのだろう。しかし、私怨よりも国家を重視する藺相如の態度に深い感銘と自分の言動の浅はかさを感じた廉頗は罪人のようにして藺相如の前に現れる。廉頗のはじめのセリフにも後の態度にも、彼の直情さが見えてくる。つまり、「口先だけの人間」が出世したことに対する怒りを隠さない点とその藺相如像が誤っていたことがわかると(少し大げさではあるが)率直に謝る点に廉頗の人物像が見えてくる。

さて、この話から生まれたのが「刎頸の交わり」である。「刎頸」とは「(くび)()ねる」こと、すなわち首を切り落とすことである。そして、お互いにそうなっても後悔しない関係である。つまり、非常に強固な絆・友情のことである。そのような友を指して「刎頸の友」ともいう。