高等学校政治経済/大日本帝国憲法と日本国憲法

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明治憲法[編集]

大日本帝国憲法(明治憲法)は、当時のドイツの憲法を手本に作られた。 今でいうドイツにあたるプロイセン(当時)の憲法は、君主に強い権利を与えていた。そのプロイセン憲法を手本に、大日本帝国憲法は作られた。

明治憲法で定められた日本の主権者は天皇であり、日本国民ではない。そのいっぽうで天皇にも憲法を遵守するべきという立憲制のような義務を明治憲法では定めてある。

そして明治憲法は、主権者である天皇が、国民に対して憲法を授けるという欽定憲法(きんてい けんぽう)というものであった。

(欽定憲法とは、君主主権の憲法のこと。いっぽう、民衆が制定し、民衆の主権の憲法を明定憲法(みんてい けんぽう)という。)

また、人民の基本的人権については、「法律ノ範囲内」とするというものであり「法律の留保」という条件が付いていた。今日の日本国憲法での、人権基本的人権は永久・不可侵という権利という考え方とは、違っている。

また、政治による軍隊の指揮権に関しては、明治憲法では天皇が軍を統治するというものであり、議会による軍の統治ではなかった。 このように明治憲法では、軍隊の指揮権が議会から独立しているので、これを統帥権の独立といい、統帥権は天皇大権(てんのう たいけん)とされた。

しかし日清戦争や日露戦争では、実質的には、議会と関わりの深い内閣の総理大臣が最終的には軍を指揮していたので、実態は明治憲法の名目とは異なる。しかし、満州事変の以降、軍部は、議会の国際協調路線に反発し、議会が軍部を抑えようとすると、軍部は天皇大権である統帥権の独立を根拠にして、議会による制御は統帥権を侵害するものだと主張して、軍部は議会に反発し、軍部は議会に従わずに暴走していった。


内閣については、名目上は内閣は天皇の補助にすぎなかった。このことを、内閣は天皇の「輔弼」(ほひつ)である,などという。 司法についても、名目上は、天皇を補助する期間にすぎない。議会についても、名目上は、天皇を補助する期間にすぎない。

このように、明治憲法では、天皇が、司法・立法・行政をすべて統治権(とうちけん)を持っていた。 もちろん、実際に裁判所で司法の実務を行ったりするのは裁判官であるし、役所などでの行政の実務を行うのは、その役所の公務員などである。


明治時代の統帥権と、ドイツのビスマルク外交

なお、日本における明治時代〜昭和終戦までの統帥権の独立の制度も、(大日本帝国憲法の内容が明治当時のドイツ憲法を参考にして制定されたのと同様に)日本の統帥権の独立の制度がプロイセンの憲法などドイツ法学を参考にしてつくられた、という説がある。(※ 参考文献としては、やや古い本だが、たしか法学者の小室直樹の本などに記述があった。なお、法学者の小林直樹とは別人なので、混同しないように。)

中世などの時代では、君主制の国家において君主が軍隊の最高指揮権をもつこと自体は、自然なことであり、歴史上でも多くの国がそうしていた。

明治当時のドイツ(プロイセン)は、議会に対して君主の権限がかなり強力な国家であり、そこが、明治の日本の天皇が名目的であるという状況とは異なっていた。

明治憲法では、条文では、天皇が内政などの政治の決定権も持っていたが、これは実態とは違っている。明治日本の天皇の権限の実態は、イギリスのように、議会の議決した政策に、天皇がそのまま従うものであった。

なお、明治当時のイギリスでは君主の権限は名目的であり、イギリス君主は議会の政策には原則的には従った。おそらく、明治日本の天皇の(大日本帝国憲法の条文とは矛盾しているが)名目的な立場は、イギリスの君主制を参考にしたのだろう。

こう考えると、明治憲法は、ドイツのように君主の強力な権限を前提にしているにもかかわらず(軍隊の指揮権だけにかかわらず、内政などの権限でも)、その君主がイギリスのように名目的な存在である、という矛盾がある事になる。(のちの昭和戦前の時代、この矛盾によってか、日本政府が軍部をコントロールできなくなってゆく。)

しかし、明治時代の当時は、まだ問題なく、明治日本では、日本軍に対して議会と首相が優位な立場で、日清戦争・日露戦争などのさいの開戦・終戦など、戦争や外交の政策が議会と首相が優位な関係で決定されていた。


また、その明治時代の前半のプロイセンは、「ビスマルク体制」などの用語でも有名な外交じょうずで有名なビスマルクが活躍していた時代であった。(日本の初代内閣総理大臣である伊藤博文も、明治憲法の制定前、憲法調査中にヨーロッパに留学したさい、ビスマルクに面会している。)

このようなプロイセン国王〈ドイツ皇帝〉(ヴィルヘルム1世)と、ビスマルクのような外交じょうずな首相との関係を前提に(さらには皇帝とビスマルクのほか、プロイセン軍の軍トップのモルトケとの関係を前提に)、皇帝をトップにしつつ、ビスマルクとモルトケがそれぞれ得意分野をいかして分業をすることを前提にして、当時におけるドイツにおける統帥権が造られていたのだろう。このようにビスマルクがヨーロッパ外交にて活躍した時代、伊藤博文などヨーロッパ法学などを視察した日本の権力者たちには、ドイツでの、統帥権独立のような制度が、うまく機能しているように見えたのだろう。

なお、のちにドイツでは第一次世界大戦の終戦時のドイツ革命により、皇室が廃止される。


日本国憲法[編集]

日本国憲法の制定時の経緯[編集]

第二次世界大戦の終戦後に日本を占領したアメリカ軍の連合国軍総司令部GHQ、General HeadQuarters)の司令官マッカーサーが、占領政策のための大日本帝国憲法の改憲案として主導したマッカーサー草案が、現代(2015年)の日本国憲法の、もとになっている。このマッカーサー草案に沿って、日本国政府が新憲法の草案(そうあん)を作った。

日本国憲法は、形式的には、大日本帝国憲法の改憲として帝国議会に提出され、帝国議会で草案は可決され、こうして日本国憲法は制定され1946年に公布された。

日本国憲法は、「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」を3大原則とする。