高等学校政治経済/政治/日本の政党政治

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

政党と政治[編集]

政党とは、共通の政治的目的を持つ者たちによって組織される政治集団のことである。政党は、政権を獲得し、自分たちの政策の実現をめざす。例えば、自由民主党(自民党)は、憲法を改正することを目的の一つとすることでまとまっている。

日本の議会制民主主義においては、衆議院で多数の議席を得た政党が与党となって政権を担う。政権とは、行政権における権力のことで、原理的には、政権を獲得すれば、自党の目的を達成することができる。一方で、政権を獲得できなかった政党は、野党として与党の政権運営を監視する。

このように複数の政党が政策実現を競い合い、多数の政党が政権を担う政治のことを政党政治と呼ぶ。

55年体制の時代[編集]

概論[編集]

第二次大戦中は、政党の活動が制限されていたが、第二次大戦終結の1945年から、政党政治の自由が復活した。そして、さまざまな政党が誕生した。

1955年には、左右に分裂していた日本社会党が統一され結成された。これに対抗し、同1955年に保守勢力の保守合同により自由民主党が結成された。そして、それから1995年まで、自民党と社会党という2つの大政党の対立を中心として、日本の国政が展開された。

しかし、実際には自民党のほうが有権者の支持が強く、自民党がほぼ40年間、与党で居続けた。この自民党優位の体制を、二大政党制と比較して、「1と2分の1政党制(1か2分の1政党制)」と呼ぶ。

1960年代には、自民党にも社会党にも不満をもつ人々をすくい上げるための政党がつぎつぎに誕生し、野党の多党化が進んだ。

自民党が政権を担う期間が長期になっていくにつれ、金によって政治が動かされる金権政治の面が出てきた(後述)。それによって、金権汚職事件が発生することになった。

例えば、元内閣総理大臣の田中角栄が逮捕されたロッキード事件はその最たる例である。

こうした汚職事件の原因は、当時の選挙制度である中選挙区制であるとして、一部の自民党議員は、選挙制度を改正し、小選挙区比例代表並立制の導入を求めた。

時の総理大臣は宮沢喜一であったが、自民党内の反対もあり、今国会での成立を断念し、次国会に先送りした。これに野党が反発し、内閣不信任決議案を提出。羽田孜などの一部自民党議員が造反し、実に13年ぶりに内閣不信任決議は可決。衆議院は解散された。

その結果、自民党は第一党を守ったものの、過半数に届かない大敗。1993年、細川護煕を首班とする非自民党(反共産党)による連立政権が樹立(細川内閣)。自民党による長期政権は終焉を迎えた。これをきっかけに日本の政党政治は、(自民党)単独政権から連立政権へとうつった。

細川内閣は紆余曲折ありながらも、1994年に公職選挙法を改正。衆議院の選挙制度を小選挙区比例代表並立制に変更した。なお、この時に政党助成金制度も導入されている。

その後、細川護熙自身の金銭問題(佐川急便借入金)も絡み、突然の辞任。後任には羽田孜を首班とする羽田内閣が成立したが、こちらも短命であった。その後、イデオロギーで長年対立関係にあった自民党と社会党が手を組み、連立政権を樹立(自民党、社会党、さきがけによる連立)。社会党の村山富市を首班とする村山内閣が発足。自民党は与党に復帰した。自民党は野党に転落してから、わずか11ヶ月で与党に復帰した。

以後、2009年(麻生内閣)まで自民党は与党として政権を担った一方、社会党(1996年に社会民主党と党名変更)は、1997年の総選挙で議席を大きく減らし、第二次橋本内閣橋本内閣では、野に下った(閣外協力)。

自民党長期政権の特徴[編集]

以上のように、戦後日本の政党政治は自民党を中心に行われていた。ではなぜ自民党は長期にわたって政権を握り続けることができたのか。以下の2つの要因が考えられる。

族議員[編集]

自民党は、利益誘導型の政治によって広範な業界団体や利益集団(圧力団体)の支持を集めた。例えば、経団連や、日本医師会などは自民党を応援している利益集団である。自民党は、こうしたさまざまな政策立案を行うことにより、利益集団に利益をもたらす。つまり、自民党はさまざまな利益を代表した政党であると言うことができる。

一方で、政策を実行するためには予算が必要である。予算は限りがあるため、党内での予算の分配が重要となってくる(政策の調整が行われるのが政務調査会である)。そこで重要なのが族議員の存在である。族議員とは、ある分野に明るく、利益団体の利益のために省庁の政策決定に影響力を及ぼすことのできる議員のことである。例えば、工事関係の利益集団から応援され、公共事業などの政策に明るい議員は、国土交通省に影響力を及ぼすことができる(道路族)。小泉純一郎は、郵政民営化の際に反対した議員を「抵抗勢力」と呼んだが、それらの抵抗勢力は、いわゆる郵政族に分類することができよう。


派閥[編集]

派閥とは、党内の政党のようなものである。同じ自民党の議員でも、大きな枠組みは共通しているが、細かな点でスタンスが異なると言う場合がある。その際に、自民党の中で、考えが共鳴する人々が集まってできているのが派閥である。派閥を大きくすることによって、党内の影響力が強まり、総理大臣や国務大臣の席が近くなると言う利点があると言われる。

また、中選挙区制においては、各選挙区で2名以上が当選するため、自民党公認の候補者が複数名立候補することになる。いわば身内の争いをしなければならない。選挙には金がかかるが、それは自民党からの資金だけでは足りず、自民党の大物議員(派閥の領袖)からの資金が重要となってくる。これによって、派閥内の結束を強め、団結した行動をとることができる利点がある。

しかし、こうした派閥中心の政治を維持していくためには多額の政治資金が必要であり、違法な政治献金が横行してしまうと言う欠点がある(金権政治)。こうした問題から、汚職事件が発生することとなった。

自民党の派閥の種類」
(※ 範囲外) 「経世会」(けいせいかい)、「清和会」(せいわかい)の二大派閥があり、そのほか「宏池会」(こうちかい)などの派閥がある。
なお、それぞれの派閥のトップのことを俗に「領袖」(りょうしゅう)という場合もあるが、「経世会」や「清和会」などは「会」なので派閥トップを「会長」と呼ぶ場合もある。


55年体制以後の時代[編集]

上述のように、日本の政党政治は、単独政権から連立政権へとうつった。単独で政権を担当した政党は、宮澤内閣以降では、第二次橋本内閣、第一次小渕内閣のみである。村山内閣以降、→橋本→小渕→森→小泉→安倍→福田→麻生と、自民党の総裁が総理となっていった。

2000年代に入ると、自民党は公明党との連立を軸に政権を運営した。特筆すべきは、小泉純一郎を首班とした小泉内閣である。当時、1990年代の経済低迷(「失われた10年」)と少子高齢化により、行政のムダを減らすための行政改革が断行されていった。 こうした動きの中で、小泉は路線郵政公社を民営化するなど、聖域なき「構造改革」路線を打ち出した。

小泉内閣の路線は、これまでの自民党の政治が、利益誘導型の政治であったのに対し、「小さな政府」を志向とする政治へと変化した分岐点とも言える。小泉純一郎自体は国民に人気があった総理であったが、急激な改革によって、格差の拡大をまねくなどの批判は自民党への逆風となった。小泉内閣以降、自民党の内閣は1年ほどの短命政権が続いた。

そして、2009年衆議院議員選挙の結果、民主党を中心とした鳩山内閣が成立し、政権交代が実現した。しかし、マニフェストの実行断念や、東日本大震災への対応[1] 等に対して批判が相次ぎ、鳩山→菅→野田と短命政権が続いた。野田内閣時、2014年からの消費税引き上げを自民党・公明党と協力して決定したが、2012年衆議院議員選挙で民主党は惨敗し、再び自民党と公明党連立による第二次安倍内閣が成立した。現在は「一強多弱」といわれるほど野党の勢力が弱く、自民党内でも首相官邸の権力が強くなり、集権化が進んだ。

注釈[編集]

  1. ^ ただし、民主党の東日本大震災の対応が実際にどうであったかは歴史の検証を待たねばならない。民主党のみならず、多くの政治家が政争に明け暮れ、緊急事態にもかかわらず、震災対応を第一に行わなかったなどの批判も存在する。当時の報道には、事実と異なるデマが存在しているため、注意が必要である。例えば、「菅首相が福島第二原発に対する海水注入をストップさせた」等については本人をはじめ、明確に否定されている。(「海水注入」の真相(3月12日)