高等学校政治経済/日本国憲法と人権保障

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はじめに[編集]

 日本国憲法第11条、97条には「人権の永久不可侵性」がうたわれている。実際に条文をみてみよう。

【日本国憲法第11条】

「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」

【日本国憲法第97条】

「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

基本的人権は「国家に先立つもの」として、すなわち「人間が生まれながらにして持っている権利」であることを示していることに注意しよう。こうした思想は自然権思想と呼ばれる。 小林多喜二を読みかえすまでもなく、国家権力は国民を苦しめてしまう。そのために必要とされたのが憲法である。そのため、人権規定が非常に重要なのである。

さて、本節ではこうした人権規定を見ていくが、憲法条文だけでは必ずしもその意味が伝わりやすいとはいえない。よって、重要条文については、憲法のさまざまな判例[1]を見ていくことによって、その真意を理解していくことにする。

基本的人権[編集]

基本的人権のそもそもの根拠条文は第13条である。

【日本国憲法第13条】
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

この条文を見ると、我々は個人として尊重され、幸福追求に対する国民の権利は、最大限尊重されるということがわかる。憲法第13条は個々の権利の根源に個人の尊重幸福追求権があることを示している。 なお、幸福追求権は、後述する新しい人権の根拠にもなっている。

公共の福祉[編集]

【日本国憲法第12条】
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」

しかし、そうした自由や権利は、国民が努力して守っていかなければならないことが12条に書かれている。我々は権利をしっかり理解して、それを保持していく必要がある。
さて、ここで、憲法に書かれている権利を主張するAとBがいたとしよう。どちらも、憲法に書かれている権利であるため、それを行使することは認められている。しかし、その権利が相反するものであったとしたら、どうだろうか。
例えば、プライバシーの権利を主張する有名人と、表現の自由を主張する週刊誌との間で、揉め事が起こったとする。プライバシーの権利も、表現の自由も、どちらも憲法に書かれている権利である。さて、この場合、両者が100%自己主張することは難しいわけで、調整が必要な場合が出てくる。その調整が「公共の福祉」である。
「公共の福祉」とは、社会全体の利益と解される。社会全体の利益を考えて憲法を解釈する必要があるということが、「公共の福祉」という言葉に表れている。なお、具体的な運用については、薬事法訴訟などの判例で触れることとする。

法の下の平等[編集]

法の下の平等の根拠条文は、第14条である。

【日本国憲法第14条】
「①すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」
「② 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」
「③ 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。」

判例[編集]

法の下の平等にかんする判例は、以下のようなものがある。

尊属殺重罰規定違憲判決[編集]

まず、概要を確認しよう。
尊属殺人の刑が死刑・無期懲役のみのため、執行猶予(懲役3年以下)をつけることができないことが、尊属という身分を不当に保護するものであり、平等権に反するとして争われた事例である。最高裁判所は原告の訴えを認め、当該規定を違憲とした。
そもそも、「尊属」というのは、「父母と同列以上にある、目上の血族」のことを言う。換言すれば、父母や祖父母などである。これらの人々に対する殺人が、尊属殺である。
まず、殺人罪は199条で規定されている。「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」というものである。現在は、殺人罪については199条のみであるが、以前は200条において、尊属殺についての規定があった。それが、「自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス」である。199条と200条の違いは、199条においては、懲役刑が適用される可能性があるが、200条においては、死刑か無期である。
さて、この事件の被告は非常に不幸であった。彼女は、実の父親に幼いころから不倫の関係を強いられ、5人の子どもまで生まされた。しかし、すべてを理解して「結婚しよう」という青年が現れ、被告がそのことを打ち明けると狂った父親は彼女を軟禁したのである。そしてある日、酒を飲んで泥酔している父親を、彼女は絞殺してしまった。
前述の通り、尊属殺人罪には、選択刑が死刑か無期懲役しかない。執行猶予は4年以下の罪にしか適用できないから、被告は100%実刑となってしまう。しかし、このような「他人よりもひどい父親」を、法律で保護する必要などあるのだろうか。そもそも、尊属とその他で刑罰を変えることは平等権に違反しているのではないか、ということが問題となった。
最高裁は、尊属殺と普通殺を区別して処罰することじたいにはあながち不合理であるとはいえないとした。すなわち、刑を重くすることじたいは平等権に反しないとした。しかし、尊属殺の刑罰が死刑または無期懲役に限られるのはあまりにも厳しいとして、合理的な差別とはいえない、とした。
よって、最高裁はこの規定を憲法違反と判断し、平成7年には刑法が改正され、尊属殺は刑法から削除された。

議員定数違憲判決[編集]

こちらも、まずは概要を確認しよう。
1972年の衆議院選挙の一票の格差が4.99倍に達していたことが、選挙権の平等に反するとして争われた事例。最高裁判所は、投票価値の格差が不合理な程度に達し、合理的期間内に是正がなされない場合は違憲となるとした上で、当時の選挙は違憲であると判断した。
さて、1972年の衆議院選挙では、選挙区間の一票の格差が、最大4.99倍であった。
すなわち、ある選挙区の候補者が当選するには、ある選挙区の候補者の4.99倍の票を取らなければならない、という状況を示す。
これは、逆に見れば、ある選挙区の有権者(Aとする)の票は、ある選挙区の有権者(Bとする)の1/4.99ということであり、これはある意味、「Aの権利はBの1/4.99しかない」ということになる。これは平等権に反するとして訴訟になった。
最高裁の判決は違憲判決[2]であった。これにより、「おおよそ1:3以上は違憲になる」という原則が確立したとされる。
なお、衆議院においては、違憲判決が出たことは上記含め、過去2回あるが、参議院については、違憲判決は一度も出たことはない。

自由権[編集]

自由とは何からの自由なのか。国家からの自由である。例えば、国家に拘束をされないことや、国家から特定の思想を持つように植え付けられないことなどが国家からの自由にあたる。
国家によって縛られない権利ということである。この自由権は、「精神の自由」「身体の自由」「経済の自由」の3つに分類される。それぞれを見ていこう。

精神の自由[編集]

精神の自由の根拠条文は、19条、20条、21条、22条、23条である。

思想・良心の自由[編集]

【日本国憲法第19条】
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」

これは、思うことや考えることは、当人の自由であるということで、国家によってどのような思想を強制することもあってはならないというものである。
たとえ、誰かを殺したいと思ったとしても、あるいは、日本に革命を起こしたいと思ったとしても、それを実行にうつさなければ、すなわち、思うだけならば、何ら処罰されたりすることはないのである。

判例[編集]

思想及び良心の自由にかんする判例は、以下のようなものがある。

三菱樹脂事件[編集]

東北大学を卒業後、三菱樹脂株式会社に就職した原告が、入社試験時に学生運動歴を隠していたことが虚偽の報告にあたるとして、3ヶ月の試用期間後に解雇された事件
この争点は、学生運動をしていたということが、解雇の理由になるかどうか、というところである。
学生運動とは、安保闘争に代表されるような、反戦運動、学費値上げ反対運動といったような活動をさす。誤解を恐れずにいうならば、左翼的な政治運動であった。
こうした運動が、企業にとって不都合であることは言うまでもない。しかし、個人がどういった思想を持つかは、各人の自由に任されていることは憲法に規定されている通りである。こうした思想・信条による差別が許されるかどうか、と言う点が問題となる。
これだけを聞くと、どう考えても、憲法が優先されるように見える。しかし、憲法は国と国民(人民)との間の法律であったはずである。企業は国ではないから、公私で言えば、私に属する。憲法の規定は、私人間に適用されるか否かが争点となった。
さて、最高裁は、原告が敗訴となり、憲法の規定は私人間には適用されないとした。
しかし、一方で、企業と個人では明らかに企業の方が力を持っている。こうした不均衡の状態で、差別が横行して良いのだろうか。そこで、民法の規定[3]をもちいて、憲法の規定が、私人間に間接的に適用されるとする間接適用説を採用したのである。
なお、当事者間で和解が成立し、原告は職場復帰を果たした。

信教の自由[編集]

【日本国憲法第20条】
①「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」
②「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」
③「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」

これは単に、どの宗教を信じてもよいという意味である。 重要な点は、②、③にあるように、国家などが、強制することはダメだという点である。これを政教分離の原則とよび、世界でも一定の基準となっている[4]

判例[編集]

政教分離にかんする判例は、以下のようなものがある。それぞれの判決が、どのような論理でなされているかを理解したい。

津地鎮祭訴訟[編集]

三重県津市が地鎮祭を挙行したさいの費用を市の公金から支出した。これが、政教分離に違反しているとして争われた事件である。
地鎮祭とは、新築工事などを行う際に、土地の神に感謝し、工事の無事完成を祈る祭事のことである。こうした地鎮祭は、さまざまなところで行われており、宗教的行事と言うよりは、もはや習俗的な行事となっている。たいてい、家を建てる時などには、神主を呼んで、地鎮祭を行うのである。
よって、最高裁は上告を棄却し、地鎮祭を習俗的行事として合憲と判断した。
なお、こうした、行為の目的やその効果に基づいて判断する考え方を、目的・効果基準論と呼ぶ。

愛媛玉串料訴訟[編集]

愛媛県知事が、靖国神社に対して玉串料の名目で県の公金から支出した。これが、政教分離に違反しているとして争われた事件である。
玉串料とは、祭儀の際に神前に捧げる、榊の枝に白い紙をつけたものである。
こうした玉串料は、習俗的行事なのか、それとも宗教的性質を帯びるものであるのか、が争われた。
最高裁判決では、愛媛県が、靖国神社に対して公金を支出することにより、神道への援助となると判断した。その行為の目的や効果が、特定宗教への援助になると判断したのである。
よって、この公金支出については違憲とした。

集会・結社・表現・通信の自由[編集]

【日本国憲法第21条】
①「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」
②「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」

表現の自由は、他の自由権とは性質を異にすることに注意したい。他の自由権は、内心の自由が中心であるのに対し、表現の自由は、内心の自由を表に出す自由であるからである。
ここで問題となるのは、他者の人権と衝突する可能性があることである。調整が必要な場合が出てくるが、この問題が'''公共の福祉'''の問題である。
さて、21条には見慣れない言葉が出てくるため、語句の説明をしておくことにする。
集会」とは人が集まって何らかのアピールをするものを指す。「デモ行進」なども「動く集会」として憲法で保障される。
結社」とは、何らかの団体をつくることであるが、「政党」をイメージすればよい。なお、「政党」の文字は日本国憲法にはない。
その他一切の表現」には、テレビや映画はもちろん、インターネットでの表現も含まれる。なお、「身体的表現」などもこれに入る。
検閲」とは、行政権(主に警察)が表現物を事前に調べ、必要とあらば発表を禁止することを指す。戦前にやられていた「発禁処分」はこれにあたる。
通信の秘密」は昔は手紙が盗み見されない権利を指す。今ではメールにも当てはまるとされる。
表現の自由をめぐっては、さまざまな訴訟が提起されてきたが、ここでは以下の判例に簡単に触れることとする。

判例[編集]

チャタレー事件[編集]

小説『チャタレー夫人の恋人』は、DH・ローレンスという人が書いたもので、ヨーロッパでも猥褻本として発禁本になったものである。
この本を伊藤整という人が翻訳し、ある出版社を通じて発行したところ、刑法の猥褻文書頒布罪(刑法175条)にあたるとして起訴されたものであった。
この訴訟の争点は「表現の自由とわいせつ罪との関係」であった。
最高裁判所は人権とその制限に関する細かい判断をせずに、「表現の自由といえども公共の福祉によって制限される」という論法で、わいせつ罪は合憲と判断した。[5]

家永教科書訴訟[編集]

歴史学者の家永三郎教授はその著『新日本史』の発行にあたり、何百カ所にもわたる「検定意見」を付された。この検定制度が憲法で禁止された検閲にあたるとして提訴した事件。 そもそも、現在学校で使用されている教科書は、「文部科学省検定済教科書」と書いてあるはずである。実は教科書は、生徒の手に渡る前に文科省が検定を行い、それを通過したもののみが教科書として使用可能となる、ということになっている。こうした「検定」は「検閲」であるかどうかが争点となった。
さて、最高裁は、教科書検定は検閲にはあたらず、合憲であると判断した[6]
教科書検定で不合格となってしまっても、教科書として使われることがないだけであり、(売れるかどうかは別として、)一般書として流通は可能である。すなわち、検定は検閲にはあたらないのである。

学問の自由 [編集]

学問の自由の根拠条文は、23条である。

【日本国憲法第23条】
「学問の自由は、これを保障する。」

学問をするところは大学であるとされるから、学問の自由は、大学の自治と深い関連がある。学問研究の過程に国家権力等の妨害が入ってはならないということが規定されている。 戦前には、学問の自由に対する弾圧事件として、滝川事件天皇機関説事件が有名である。これについては詳述しないが、こうした歴史的背景のもと、憲法では学問の自由を規定しているともいえる。

判例[編集]

ポポロ事件[編集]

この事件は、東大校内で人形劇団ポポロが、政治的な事件(松川事件)に取材した劇を上演していたところ、警備情報活動のため潜入していた警察官を発見し、彼らに暴行を加えたというものである。
公務執行妨害で逮捕された東大生は、そもそも大学内に警察官(国家権力)が入ることは憲法に違反していると主張した。
この事件に関し、最高裁判所の出した結論は、大学の自治を認めるとは言いながら、実質上それを否定するものであった。すなわち、大学の自治は教授等の研究者の自治であって、学生はその対象者ではない、というものである[7]
しかし、本来「大学の自治」とは、大学校内に権力が介入するのを禁ずる概念である。
しかし、この最高裁の論法では、研究者の自治、すなわち、何を研究するかは保障されるものの、大学への権力の介入が可能となってしまう。その意味で、実質上この概念は否定されたとも言える。

身体の自由[編集]

身体の自由とは、国家権力による奴隷的拘束や、拷問などを禁ずる規定である。
なお、憲法の中で最も条文を割かれているものが身体の自由である。
こうした規定が重要である分野は、言うまでもなく刑事司法である。
よって、憲法上での論点はほぼないため、項を変えて、条文の解釈に留めることにする。

刑事司法の原則[編集]

①「奴隷的拘束及び苦役からの自由」(18条)
旧日本軍への徴兵や軍需工場などへの徴用を禁止する趣旨である。従って、日本で徴兵制を採用することは出来ない
②「法定手続の保障」(31条)
犯罪の被疑者を逮捕し、処罰する際には「適正な」実体法と手続法を必要とする旨を定めている。
③「令状主義」(33条)
不当な逮捕を抑止しようとするものである。
逮捕が権力者の恣意にながれるとしたら、身体の自由は確保されないため、逮捕は裁判官の許可、すなわち令状がなければ出来ないと規定している。なお、令状は裁判所が発行する。
ただし、例外も存在する。それが「現行犯逮捕」である。例えば、万引きなどを見たときに、令状を待っていれば逃げられてしまう。そのために、例外を認めている。
④「抑留・拘禁の要件」(34条)
逮捕された人には弁護人を依頼する権利がある。弁護人を依頼するお金がない時も、国選弁護人と呼ばれる弁護士をつけることができる。
また、公開法廷で逮捕理由の開示を求めることもできる。これらの権利の存在を被疑者に告げなかったときには、抑留・拘禁は違法になる。
⑤「住居の不可侵」(35条)
警察による被疑者の住居の捜索・押収にも令状は必要である。
⑥「拷問・残虐刑の禁止」(36条)
拷問や、残虐な刑を禁止している。なお、残虐な刑とは、磔の刑や、釜茹での刑が当たる。
⑦「被告人の権利」(37条)
迅速な裁判を受ける権利」「証人審問権」「弁護人依頼権」である。
⑧「自白法則」(38条)
自己に不利益な供述を強要されない権利、拷問等に基づく自白は証拠として採用されない権利、本人の自白以外に証拠がない場合には有罪とならない権利を規定している。
⑨「遡及処罰の禁止・一事不再理」(39条)
行為時に合法であった行為を、事後法により処罰することは出来ないと言うのが、訴求処罰の禁止である。
一度無罪とされた行為や罪を償った行為についても、重ねて刑事責任を追及することは出来ないと言うのが、一時不再理である。

死刑制度と再審請求[編集]

経済の自由[編集]

経済の自由が規定されているのは、第22条、第29条である。

【日本国憲法第22条】
①「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」
②「何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。」

なぜ、①で居住・移転の自由を規定しているのかといえば、この自由がなければ、経済活動を行うことが難しくなるからである。自由に動くことができてはじめて、経済活動が可能となるために、居住・移転の自由が経済の自由として規定されている。

【日本国憲法第29条】
①「財産権は、これを侵してはならない。」
②「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」
③「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」

さて、歴史的経緯は省くが、ワイマール憲法において、「所有権は義務を伴う」(153条)とされているように、経済活動は上述の2つの自由権と比べて、制限されるべき権利とされている。
もちろん、人権の一つであるから、守られなければならないものの、人権同士が衝突した場合、折れやすいのは経済の自由である。
22条、29条にあるように、「公共の福祉」というのがそれを示している。ただし、そもそも「公共の福祉」は、憲法12条にも書かれているものであるから、全ての人権にかかわるということが大前提である。
ところが、経済の自由に関係する条文には「公共の福祉」が何度も登場している。そして、経済的自由権は社会的相互関連性が強い。すなわち、経済的人権は精神的自由権などよりも比較的強度の規制をされやすいということを示している
このような運用を「二重の基準」と呼び、憲法解釈のさいには、経済的人権を制限する形で調整を図る。

判例[編集]

薬事法訴訟[8][編集]

上記の経済の自由が問題になった事例が薬事法訴訟である。この判例は、かつて薬事法という法律で半径100mの範囲内で薬局を新設できないと定められていたことに対し、「営業の自由に反する」として訴訟になったものである。
日本の国には規制が多いとも言われる。例えば、塩、タバコ、米、酒などは一部の公社しか販売できなかった。これを専売制と呼ぶが、薬局にも、こうした規制として、距離制限があったのである。この距離制限は違憲であるとしたのが、この薬事法訴訟である。
しかし、なぜ薬局には距離制限があったのだろうか。
ここを理解するためには、前述の「二重の基準」が重要となってくる。
さて、「人権」と「法律」の優先関係は、原則、「人権」>「法律」であることは理解できよう。
さらに、人権を細分化すると「精神・身体の自由」>「経済の自由」であった。
ということは、「精神・身体の自由」>「経済の自由」>「法律」となるはずである。
ところが、これは原則であって、例外が存在する。経済の自由よりも優先される法律が存在するのである。それが、「弱者のための法律」である。
というのも、経済の自由を優先しすぎて、貧困層と富裕層の格差が非常に大きくなってしまうという歴史があった。こうした大きすぎる格差は好ましくないため、経済の自由よりも、弱者を保護するための法律を優先する必要が出てくるのである。
すなわち、法律も細分化され、「精神・身体の自由」>「弱者のための法律」>「経済の自由」>「一般の法律」と解釈する場合が存在するのである。
薬事法訴訟においては、その法律が、「弱者のための法律」であれば、経済の自由より優先されるため、違憲とは言えない。例えば、薬局が濫立することにより、価格競争がおきてしまうことにより、薬の質が下がり、弱者の健康が害されることが予想されるならば、それは「弱者のための法律」である。
しかし、当時の薬事法の規制は、そうしたことを目的としていない。薬局がないか、きわめて少ない地域を解消することが目的であった。
すなわち、「精神・身体の自由」>「経済の自由」>「法律」という原則に戻り、無薬局地域をなくすためという目的で、距離制限を設けることは、国民の営業の自由を不当に侵害しているものであり違憲であると判断された。 こののち、薬事法は改正され、距離制限規定が撤廃された。

知的財産権[編集]

社会権[編集]

自由権が「国家からの自由」を意味するとすれば、社会権は、「国家への自由」とも呼ばれる権利である。19世紀に貧富の差が拡大し、社会問題化したため、それを解決するために政府が積極的に支援策を講じる根拠である。
憲法においては、「生存権」「教育を受ける権利」「勤労権」「労働三権」を規定している。ただし、後述するように、実質的な権利としては、「労働三権のみである。

生存権[編集]

生存権の根拠条文は25条である。

【日本国憲法第25条】
①「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」
② 「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

漫画、ドラマ等で有名になった条文である。国が、健康で文化的な最低限度の生活を保障する規定である。この健康で文化的な最低限度の生活とはどのような生活なのかが、論点となる。

判例[編集]

朝日訴訟[編集]

生活保護の月額600円が安すぎるために提起された。国の定める生活保護の基準が低く、憲法25条に違反しているとして、訴訟が起こされた。 この問題に対し、最高裁判所は「憲法25条は具体的な国民の権利を定めたものではなく、国の努力目標を書いたものにすぎない」という判断をした。これをプログラム規定説と言う。
プログラム規定説とは、日本国憲法の生存権(第25条)は、国の努力目標(= プログラム)を書いたものに過ぎず、具体的な施策を義務化したものではないとして、よって生活保護での具体的な施策の内容の決定については、国会や内閣の裁量に任されており、財政状況や世論などにもとづいて国会・内閣が決める、とする説である。
この論理によれば、25条に基づいて訴訟を提起しても必ず敗訴することになる。その意味で、25条は権利ではないとも言える。なお、この訴訟ののち、生活保護法の改正により、生活保護額は増加した。

堀木訴訟[編集]

目が見えず、女手一つで子どもを育てていた人が、障害福祉年金と児童扶養手当の併給禁止を定める当時の法律が25条に反するとして訴えたものである。
最高裁判所はやはりプログラム規定説により、訴えを退けた。
しかし、その後立法の手当てがなされ、併給禁止規定は削除された。

教育を受ける権利[編集]

教育を受ける権利が規定されているのは26条である。

【日本国憲法第26条】
①「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」
②「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」

論点は特にはないものの、これもプログラム規定とされている。
また、②を見ると、主語はであって、生徒ではないことに注意したい。

勤労の権利[編集]

勤労の権利が規定されているのは27条である。

【日本国憲法第27条】
①「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」
②「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。」
③「児童は、これを酷使してはならない。」

国民が国に対し仕事を要求できるという権利である。これもプログラム規定とされる。国が、国民に仕事を与える、最大限の努力をすればよいということになる。
なお、①には、「義務を負ふ」と書かれているものの、プログラム規定であるため、あまり意味を持たないと言える。働かないからといって、逮捕されることはない。

労働三権[編集]

勤労の権利が規定されているのは28条である。

【日本国憲法第28条】
「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。」

労働者の権利を不当に侵害する使用者に対して、労働者を守ろうとするものである。この権利はプログラム規定ではなく、侵害された場合は裁判所に訴えることができる。
団結権」は文字どおり団結できる権利であり、労働者が労働同組合をつくる権利である。使用者は労働者が労働組合をつくろうとしたときに妨害してはならないとされる。
団体交渉権」は使用者側に対し、労働組合が交渉を求めることができる権利である。
団体行動権」は、争議行為、すなわちストライキなどの実行を許容する権利である。
使用者と労働者は労働契約を締結しており、労働者は働く義務がある。その義務を放棄することは、契約違反であり、民法上の契約不履行に当たるため、違法である。そうであれば、使用者は労働者に損害賠償を請求できることになるが、これを認めると、労働者を守ることはできない。
そこで憲法は、労働者のストライキなどに際し、損害賠償をしなくてもいいようにしたのである。
ただし、公務員法で公務員の争議行為は禁止している。しかし、憲法が明確に定めた人権を法律で奪うことはできないはずであり、この点が裁判で争われた。

判例[編集]

新しい人権[編集]

憲法は1946年に公布されたが、その後改正されていない。そのため、憲法が制定された当時は考えられなかった人権が主張されてきた。既存の人権規定をもちいて、新しい人権を主張する動きがあり、これらを総称して新しい人権と呼ぶ。後述するように、基本的には認められていない権利であるが、今後の判例次第では認められる可能性もある人権である。
新しい人権は、根拠条文と、判例が非常に重要であるので、その点をしっかりと理解したい。

環境権[編集]

根拠条文は、13条の幸福追求権と、25条の生存権である。
名前そのまま、「良い環境を享受する権利」である。 この権利は、大阪空港の夜間飛行差し止め請求の中で提唱された。判例を理解しよう。

判例[編集]

大阪空港公害訴訟[編集]

大阪空港は住民の居住地が空港のすぐ近くにある。住民は航空機のもたらす騒音に日夜悩まされ続けており、住民は「せめて夜間だけでも飛行機の発着を止めてくれ」と言って提訴した。
しかし、この訴訟で住民の主張は認められなかった。最高裁は住民福祉よりも経済的合理性の方を優先した。また、環境権についても最高裁は認めなかった。これについては現在でも状況は変わっていない。
と言うのも、環境権は所有権と相性がわるく、憲法に規定されている所有権を優先せざるを得ないからである。
環境権に付随して、日照権、静穏権、入浜権、眺望権、嫌煙権などが主張されたものの、嫌煙権を除いて認められていない。なお、嫌煙権はタバコの煙が嫌だと主張する権利であり、煙の影響を考えれば、権利として認められやすいのである。
ただし、環境は重要であり、一切を認めないことは、不都合である。そこで提唱されたのが環境アセスメントである。事前に環境に大きな影響を及ぼす開発について、その影響を調査・予測し、必要であれば開発許可を下さない、とする制度である。地方自治体にはこれを義務付けたところもあり、こうした動きから1997年に環境影響評価法が制定された。

プライバシーの権利[編集]

根拠条文は、13条の幸福追求権である。
プライバシーの権利は、第一の意味としては、「私生活をのぞき見されない権利」と定義される。
これを示した初めての判例が「宴のあと」事件である。ただし、下級審判例であり、この裁判では最高裁は判断を下していない。
現在では積極面がプラスされ、「自己情報のコントロール権」と定義するのが通説。インターネットの発達により、メディアに参加できる人物が大幅に増えた影響で、情報の正確性は非常に問題がある。
そこで、間違いであれば訂正を求めることができる、コントロール権が主張された。
消極面としての「私生活をのぞき見されない権利」というのは変わらないが、これに「自己情報を公開し、訂正を求めることができる権利」という積極的な側面が加えられたのである。
個人情報についても、プライバシーの権利と密接な関係がある。2003年には個人情報保護関連5法が制定された。これは、個人情報保護法と、行政機関の保有する個人情報保護にかんする法律からなる。
その一方で、通信傍受法マイナンバー制度など、国民のプライバシーの権利と対立するような法律も制定されており、この辺りの権利の侵害の問題も注視する必要がある。

判例[編集]

最高裁判例で、プライバシーの定義について定めたものはない。

「宴のあと」事件[編集]

三島由紀夫作の「宴のあと」と言う小説が問題となった事件である。 この小説は外務大臣だった原告の私生活をえがいたものであり、「プライバシー侵害」として訴えた。三島は東京地裁で和解して訴訟を終結させたため、最高裁の判決を待たずに東京地裁でプライバシー権が認められた判例である。

「石に泳ぐ魚」事件[編集]

柳美里作の「石に泳ぐ魚」と言う小説が問題となった事件である。身体的特徴を持つ原告が、「プライバシー侵害」として訴えた。最高裁でも原告が勝訴し、最高裁でもプライバシー権が認められた。

知る権利[編集]

根拠条文は21条の表現の自由である。
そもそも、政府は国民の代表であり、国民は政府をコントロールしなければならない。
その上で重要なのが、知る権利である。
権力は放っておけば必ず腐るのは歴史が証明している。従って常に「批判」していかなければならない。適切な批判のためにはさまざまな情報が必要であり、それが知る権利である。
国は、情報公開法に基づいて情報を公開しなければならず、こうした権利を行使していく必要が国民には存在していると言える。
一方で、2013年に外交や防衛などの「特定秘密」を漏洩したものには重罰を科すと言う特定秘密保護法が制定されたが、こうした法律と、国民の知る権利の関係が問題となっている。

アクセス権[編集]

根拠条文は21条の表現の自由である。
簡単に言えば、マスメディアの誤った報道などについて、被害を受けた人が主張や反論をできるという権利である。 尤も、わが国の判例では認められていない。

自己決定権[編集]

根拠条文は、13条の幸福追求権である。
人によって生き方の幸福は異なるため、自分の生命のあり方などについて自分で決定すると言う権利である。
例えば、尊厳死安楽死などといった死に方を選べる権利などがあげられるが、日本では尊厳死、安楽死ともに認められていない。

人権を実現するための権利[編集]

人権を実現するための、さまざまな権利がある。
それが、裁判を受ける権利損害賠償請求権刑事補償請求権参政権請願権憲法改正のための国民投票最高裁判所裁判官の国民審査特別法の住民投票などがある。

国民の義務[編集]

憲法の性質からして、義務を制定することは好ましくない[9]。そこで、義務規定はあるものの、権利に比べて非常に少ない規定となっている。それが、国民の三大義務と呼ばれるものである。
教育の義務(26条2項)勤労の義務(27条1項)納税の義務(30条)である。

脚注[編集]

  1. ^ 判例とは、裁判所が判断した憲法解釈のことである。広義では全ての裁判所の判断を判例と呼ぶものの、最高裁判所とその他の裁判所(下級審判例と呼ばれる)では判例の重要度は大きく異なっている。特に記述のない場合には最高裁の出した判例を紹介する。
  2. ^ ただし、この違憲判決に基づいて、当時の選挙が無効にはなっていない。もし無効にするとその国会でつくられた法律もすべて無効となり、大混乱になるからである。これを「事情判決」という。
  3. ^ 民法には、公序良俗に反する行為は無効とするという規定がある(90条)。ここに人権を読み込むことで、私人間にも適用可能と言う判断をした。
  4. ^ ただし、イスラーム圏においては、いわゆる政教一致の考えが浸透している。
  5. ^ なお、現在では「公共の福祉」の解釈でも、詳細な利益考量をしなければならないことになっているため、このような論法は現在では通用しないと思われる。
  6. ^ ここでの問題は、教育権が国家にあるか、国民にあるかが争点となっているが、知識過多になってしまうため、詳述は控える。
  7. ^ 当時内閣総理大臣の菅義偉が、日本学術会議が推薦した会員候補のうち一部を任命しなかったことが問題となったのは、それが憲法の学問の自由と密接に関わるからである。もちろん、日本学術会議の任命を拒否されることは研究者の地位を脅かすものではないが、学問にたいする国家の介入は、それが憲法に規定されている以上、非常に慎重になるべきであることは言うまでもない。
  8. ^ 私見では、高校レベルの判例において最も分かりづらいのが薬事法訴訟である。このことを理解しているか否かが直接問われることは少ないと思われるものの、センター試験(現共通テスト)においても選択肢として出題されている(2006年度追試験第2問)。
  9. ^ 公民において、国民の義務を強調するきらいがあることは、憲法の正しい理解を阻害するものである。そもそも、憲法は、国民を縛るものではなく、国家などの権力を縛るためのものである。