高等学校日本史探究/古代国家の形成Ⅰ
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6世紀の朝鮮半島と倭
[編集]5世紀の朝鮮半島は、高句麗と百済の間で戦争になりました。475年、高句麗が漢城(百済の首都)を攻めました。その結果、百済の国王は降伏して、高句麗の兵士に殺されました。降伏後の百済は首都を熊津から扶余に引っ越し、加耶地域まで影響力を広げました。日本のヤマト政権も伽耶地域に関心がありました。加耶諸国と仲良くしたいので、兵士を朝鮮半島に送りました。しかし、伽耶諸国は「自分達の力だけで国を動かしていきたい」と考えるようになりました。512年、加耶地域の西側が百済の支配下に入るようになりました。6世紀を迎えると、新羅もかなり力をつけ始めます。新羅は百済と争いながら、伽耶諸国を新羅の領土に入れました。その結果、ヤマト政権は朝鮮半島の影響力を失いました。
継体天皇が亡くなると、ヤマト政権も大伴金村派(安閑天皇と宣化天皇)と蘇我稲目派(欽明天皇)に分かれました(二朝併立)。539年、大伴金村と蘇我稲目が仲直りします。仲直りすると、欽明天皇が国をまとめます。なお、大伴金村は物部尾輿から朝鮮半島政策でかなり怒られ、540年に政権を退くようになりました。
538年、仏教が朝鮮半島から日本に初めて伝わると、2つの意見に分かれました。蘇我稲目は「仏教を取り入れたい。」と考えました。一方、物部尾輿と中臣鎌子は「仏教を取り入れず、今までの神様を大切にしたい。」と考えました。こうして、蘇我稲目(蘇我氏)と物部尾輿(物部氏)・中臣鎌子(中臣氏)は争うようになります。この争いは子供にも引き継がれます。結局、蘇我馬子が仏教を取り入れるために王族や諸豪族を集めて、物部氏の代表(物部守屋)を587年に倒しました(丁未の乱[1])。なお、考古学者は、奈良県明日香村の石舞台古墳を上円下方墳と考えられています。かなり大きな横穴式石室が石舞台古墳にそのまま残っています。石舞台古墳は蘇我馬子のお墓(桃原墓)と考えられています。また、石舞台古墳近くの島庄遺跡は蘇我馬子の屋敷跡だと考えられています。
当時、国の施設(屯倉)・特別な人(名代・子代)を全国各地に置きました。また、有力豪族の代表(大夫)同士で話し合いをする仕組みも作りました。さらに、専門職(品部)も作られました。このように、国の仕組みが整うと、倭国も大きく変わりました。
蘇我氏はどうして大きくなりましたか? |
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蘇我氏はかつて大和国の高市郡曽我地方に住んでいました。やがて、葛城家(大和南西部の一族)から離れるために、大和国の高市郡飛鳥地方に移ります(蘇我氏の独立)。蘇我稲目は大臣になり、かなり重要な政策を進めました。5世紀を迎えると、蘇我氏は当時の天皇家と結婚します。こうして蘇我氏は大きな力を持つようになり、日本各地に広がりました。また、蘇我稲目はお金や大切な物を斎蔵・内蔵・大蔵へ移して、渡来人の東漢氏に斎蔵・内蔵・大蔵の管理を任せました。さらに、蘇我稲目は自分の娘2人(堅塩媛と小姉君)を欽明天皇の妻にしました。その結果、蘇我氏は用明天皇・崇峻天皇・推古天皇と家族のような繋がりを持つようになり、ますます大きな力を持つようになりました。次の蘇我馬子は大臣になり、大夫と協力しながら政治のお仕事をしました。これに対して、崇峻天皇は蘇我馬子を恐れていました。592年、蘇我馬子は崇峻天皇を殺しました。 |
推古朝の外交と内政
[編集]当時、政治の中心地は飛鳥にありました(飛鳥時代)。額田部皇女(豊御食炊屋姫)が蘇我馬子と豪族からの推薦で初めて女性天皇に選ばれました(推古天皇)。なお、額田部皇女(豊御食炊屋姫)は欽明天皇(父親)と蘇我堅塩媛(母親)の娘です。奈良県橿原市の植山古墳は東側と西側に横穴式石室を設けています。そのうち、西側の石室が推古天皇の墓だと考えられています。593年、厩戸王(聖徳太子:推古天皇の甥)が政治に携わるようになりました。そこから推古天皇・厩戸王・蘇我馬子の3人が力を合わせて国を治めるようになりました。それ以降、倭国は東アジアの国際関係を深めるようになりました。なお、日本書紀の「摂政」は平安時代の「摂政」と異なり、「誰かの代わりに政治をする。」という意味で使われます。
聖徳太子 |
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厩戸王(聖徳太子)は用明天皇(父親)と穴穂部皇女(母親)の息子です。実は、厩戸王(聖徳太子)の父親と母親はどちらも蘇我家でした。そして、推古天皇・蘇我馬子も蘇我氏の親戚関係なので、推古天皇・厩戸王・蘇我馬子の3人が力を合わせて国を治めるようになりました。なお、皇太子制度と摂政制度は飛鳥時代にありません。そのため、厩戸王は天皇の後継者として政治に関わるようになりました。しかし、どこまで推古天皇のお仕事を手伝っていたのかまでははっきりしません。厩戸王は残念ながら推古天皇より先に亡くなり、天皇になれませんでした。厩戸王はかなり早い時期から聖徳太子とも呼ばれ、様々な伝説も生まれました。厩戸王が亡くなってからも、一般民衆の間でますます尊敬されるようになりました。 |
北朝の隋は勢力を伸ばし、南陳を589年に手に入れました。その結果、久しぶりに国がまとまりました。隋は法律を作り、朝鮮半島と倭国を攻めました。598年から高句麗に4回も軍隊を送りました。これに対して、高句麗・新羅・百済・倭国は国をまとめなければならないと思うようになりました。
5世紀頃、中国に使者を送らなくなると、倭国と中国の関係が途切れました。やがて、倭国は中国中心の考え方から抜け出して、新羅と新しい関係を作ろうとしました。倭国は新羅に3回(600年・602年・623年)も軍隊を送りました。特に、600年は新羅遠征軍と遣隋使の両方を送りました。
隋書東夷伝倭国条は第1回遣隋使について記されています。第1回遣隋使を隋へ送ると、隋の文帝から日本の政治と生活の仕方について厳しい意見がありました。それまで、倭国は朝鮮半島の国家と仲良くなるために、力の強さだけを見せればいいと考えていました。しかし、この厳しい意見から他の国と事前に話し合いをするようになりました。しかし、第1回遣隋使は日本の歴史書『日本書紀』に全く書かれていません。
倭国は隋と関わるうちに『政治の仕組みがまだまだ整っていないかも…』と気づきました。そこで、隋と仲良く付き合うために、厩戸王と蘇我馬子が中心になって冠位十二階と憲法十七条を作りました。
冠位十二階 |
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中国や朝鮮のやり方をお手本にして、冠位十二階を603年に作りました。冠位十二階を説明すると、その人の良心(徳・仁・礼・信義・智)を評価します。そして、この評価を十二段階に分けて、その段階に合わせて六色の冠(紫・青・赤・黄・白・黒)を被るようになります。冠位十二階は生まれた時からではなく、個人の才能と個人の頑張り具合で評価されるようになっています。しかも一代限りなので、頑張れば冠位も上がりました。鞍作鳥・秦河勝・小野妹子は出身とか関係なく、自分の才能と自分の頑張りで冠位を貰えました。しかし、蘇我氏・王族・地方の豪族は冠位十二階の対象に含まれていません。 |
憲法十七条 |
憲法十七条は朝廷の仕事をするようになったら、どのような心構えで働けばいいのかについて記されています。憲法十七条は中国の影響を大きく受けており、儒教・仏教の考え方を上手く取り入れて604年に定められました。また、隋に対して倭国の立場や意見をはっきり主張するために、憲法十七条を定めていました。この後、日本の政治の仕組みも少しずつ整いました。しかし、どこまで憲法十七条を守っていたのかまでは分かりません。憲法十七条の内容は次の通りです。
憲法十七条については、高等学校言語文化/日本書紀#十七箇條憲法も参照してください。 |
607年、小野妹子は第2次遣隋使の代表として隋に渡りました。小野妹子の外交は隋に従うような外交でした。なぜなら、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と隋の煬帝に伝えると、煬帝が怒ったからです。この内容は中国の歴史書(隋書倭国伝)に記されています。第2回遣隋使を隋へ送ってから、倭国の外交方法が大きく変わりました。これまでの卑弥呼・讃・珍・済・興・武の時代は、中国の皇帝に「倭国の王様として認めて下さい。」とお願いしました。しかし、遣隋使はそのようなお願いを外交で全くしていません。当時、朝鮮半島の百済と新羅は隋の皇帝のいいなりになっていました。だから、倭国は遣隋使を送って、隋と同じような立場になりたいと考えました。
このような倭国の考え方は煬帝に伝わらず、勘違いをしています。隋の煬帝は「高句麗と倭国が手を組むと、自分の国が困るかもしれない。」と心配になりました。その後、隋の煬帝は裴世清を使者として倭国に送り、隋国と倭国の関係を保とうとしました。
608年、小野妹子は第3次遣隋使の代表として隋に渡りました。お詫びとして、倭国の手紙を隋国に送っています。二度と失礼にならないように、手紙の内容を「東の天皇が西の皇帝に申し上げる。」と記しています。
第3次遣隋使の中でも旻・高向玄理・南淵請安は、中国史の大きな転換点を実際に見ています。旻・高向玄理・南淵請安は日本に帰ってきてから、中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿に中国の新しい知識を伝えました。やがて、中国の新しい知識が大化の改新につながるようになりました。なお、犬上御田鍬は第4次遣隋使の代表として隋に渡っています。
7世紀の東アジアと倭国
[編集]最初に、中国の歴史を説明します。618年、隋王朝が終わり、唐王朝に変わりました。唐王朝は、土地を公平に分けたり、税金の仕組みを整えたりして国をまとめました。太宗皇帝の頃、唐王朝が最も栄えました(貞観の治)。次に、朝鮮半島の歴史を説明します。641年、百済の義慈王は権力を奪いました。やがて、百済の義慈王は新羅へ翌年から攻めました。642年、高句麗宰相の泉蓋蘇文が権力を奪うために、国王・貴族を倒します。その後、百済と手を組んで、新羅の領土を狙うようになりました。こうして、新羅は四面楚歌の状態になったので、唐に助けを求めました。しかし、唐側は「助けてほしいなら、女王を変えてください。」と条件を出します。647年、新羅の中でも女王を交代するのか交代しないのかを巡って争いが始まりました。太宗皇帝は、644年から朝鮮半島の高句麗へ攻めました(駐蹕山の戦い[2])。この戦いから、東アジア全体が大きく変わります。倭国でも、「大きな戦いが朝鮮半島で起きているから、このままだと悪い方向に向かうようになるかもしれない。」と考えるようになりました。そこで、これまでの政治が大きく変わるようになりました。
父親の蘇我蝦夷は祖父の蘇我馬子から大臣の役目を引き継いで、少しずつ大きな力を持つようになります。舒明天皇~皇極天皇の時代を迎えると、息子の蘇我入鹿は父親の蘇我蝦夷よりもさらに大きな力を持つようになりました。643年、蘇我入鹿は山背大兄王(厩戸王の息子)とその家族を殺しました。蘇我氏は高句麗のやり方と同じように蘇我氏寄りの天皇を選んで、政治の実権を握ろうとしました。これに対して、中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我倉山田石川麻呂は「このまま、蘇我氏が政治の実権を握ると問題になるかもしれない。」と考えるようになります。645年7月10日、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を殺しました。翌日、父親の蘇我蝦夷も追い詰められて自殺しました(乙巳の変)。この後、朝廷が国をまとめていくようになります。
資料出所
[編集]- 平雅行、横田冬彦ほか編著『日本史探究』実教出版株式会社 2023年
- 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史探究』株式会社山川出版社 2023年
- 渡邊晃宏ほか編著『日本史探究』東京書籍株式会社 2023年
- 山中裕典著『改訂版 大学入学共通テスト 歴史総合、日本史探究の点数が面白いほどとれる本』株式会社KADOKAWA 2024年
- 佐藤信、五味文彦ほか編著『詳説日本史研究』株式会社山川出版社 2017年
- 河合敦著『世界一わかりやすい河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』株式会社KADOKAWA 2014年(絶版本)