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高等学校日本史探究/古代国家の形成Ⅰ

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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6世紀の朝鮮半島と倭

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 ヤマト政権は、6世紀まで朝鮮半島南部の伽耶諸国に影響力を持っていました。しかし、高句麗が南下するのにともない、圧迫された百済や新羅が伽耶地域に進出しました。倭で政治を主導していた大伴金村もこれに伴って、6世紀初めに失脚しました。『日本書紀』にも、伽耶西部に百済の支配権が及んだことを問題視されたことが記載されています。6世紀中ごろには、百済新羅両国が伽耶を併合しました。結果、ヤマト政権は、朝鮮半島にもつ影響力を後退させました。

 このころ、仏教が正式に伝来しました。百済の聖明王が欽明天皇に仏像や経典を送ったとされます。ただし、それまでにも民間では、仏教の伝来があったとされます。

 大伴氏が衰退した後、大王家の欽明天皇のもと物部氏と新興の蘇我氏が台頭しました。蘇我氏は、①大王家と婚姻関係を結ぶ②渡来人との連携を強化する③屯倉など財政権を強化するなどの方法で勢力を拡大していきました。さらに、仏教を積極的に受容しました。一方で、物部氏や中臣氏は、在来の信仰を重んじ、仏教を排除しようとしていました。そんな中、蘇我馬子は王位継承問題もからんで物部守屋と対立し、587年に守屋を滅ぼしました。さらに、馬子は自身が擁立した崇峻天皇を592年に暗殺しました。このようにして、蘇我氏が実権を握りました。

推古朝の外交と内政

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 崇峻天皇が暗殺されたのち、飛鳥で推古天皇が即位しました。初の女性の天皇です。ここで登用されたのが厩戸王(のちの聖徳太子)でした。『日本書紀』にも、「摂政」という言葉があり、政治に参画したことがうかがえます。推古天皇も厩戸王も蘇我氏と血縁があり、蘇我馬子の影響力が強い政権でした。推古天皇は、厩戸王と蘇我馬子らに仏教を興隆させるよう命じました。これは、仏教が一部の人に信仰されるのにとどまっていたからです。蘇我馬子は、法興寺(飛鳥寺)を、厩戸王は、四天王寺法隆寺(斑鳩寺)を、秦河勝も広隆寺を建立しました。

 推古朝では、中国統一王朝であると外交を結ぶため、遣隋使を派遣しました。『隋書』によれば、600年に一度遣隋使を派遣していますが、『日本書紀』などにはその記述がありません。

 遣隋使からの情報により、推古朝は、国家組織を再編成しようとしました。603年に冠位十二階を定め、個人の功績に応じて冠位を与えました。これにより、それまでの氏姓制度によって集団ごとに編成された身分秩序を再編しようとしました。翌604年にも憲法十七条を定めました。これは、役人を統制するための道徳規範としての意味を持ちます。憲法十七条は、仏教を重んじているのに加え、日本古来の精神性と儒教や道教など大陸からもたらされた教えを融合させているのが特徴です。

 国家組織を再編成した推古朝は、607年にも小野妹子を遣隋使として、派遣しました。この時妹子は、国書を隋の皇帝であった煬帝に差し出しましたが、無礼だとされました。なぜならその国書は、倭が隋に従属しないという態度を示していたためです。倭の五王までは、中国の王朝に冊封をもとめていたので大きな変化でした。結局、煬帝は、高句麗に侵攻している情勢もあって、裴世清を倭に送りました。

 国家体制が充実してきた推古朝は、歴史書編纂にも取り組みました。厩戸王と蘇我馬子が中心となり、620年に『天皇記』や『国記』などを編纂しました。これらは、6世紀に成立した「帝紀」や「旧辞」を基に、天皇と諸氏の関係性を示し、天皇の支配が正当であることを示そうとしていたと考えられます。

7世紀の東アジアと倭国

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 3度目の遣隋使では、留学生や留学僧を同行させました。中国の制度や思想、文化などを取り込もうとしたのです。このとき、留学生の高向玄理や留学僧の南淵請安が重要です。その後、4度目の遣隋使として犬上御田鍬を送りましたが、これが最後の遣隋使となります。隋が滅び唐が建国したからです。唐は、律令法に基づいて中央集権的な国家体制を展開し、朝鮮半島を圧迫していました。前述の留学生や留学僧は、唐の建国に学び帰国した後、7世紀初めの政治に大きな影響を及ぼしました。

 このころ倭国は、蘇我氏がさらに権力を拡大していました。馬子の子である蘇我蝦夷に続き、その子の蘇我入鹿がさらなる権力をふるいました。さらに入鹿は、厩戸王の子である山背大兄王を自害に追い込みました。これは、蘇我氏系の天皇のもと蘇我氏が権力をふるうことを目指したものだと考えられます。これに対して、中大兄皇子中臣鎌足(のちの藤原鎌足)を中心に、蘇我倉山田石川麻呂の協力もあって蘇我入鹿を殺害しました。さらに翌日、蘇我蝦夷も自殺に追い込みました。これを乙巳の変と言います。

資料出所

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