高等学校日本史B/元禄文化と学問の発展

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学問[編集]

自然科学の発達[編集]

農学では、宮崎安貞(みやざき やすさだ)が『農業全書』を著した。

本草学(ほんぞうがく)とは、もともとは医薬になる植物などを研究する学問だったが、しだいに博物学的に植物・動物などを研究する学問になっていった。 この分野では朱子学者の貝原益軒(かいばら えきけん)が植物の分類の研究を行い『大和本草』を著した。また、稲生若水(いのう じゃくすい)は『庶物類纂(しょぶつ るいさん)』を著し、本草学の範囲を大きく広げた。

天文学では、渋川春海(しぶかわしゅんかい)(安井算哲(やすい さんてつ))が、従来の宣明暦(せんみょうれき)の誤差を修正した貞享暦(じょうきょうれき)をつくった。この功績により、当時の将軍綱吉は幕府に天文方を創設し、渋川春海を天文方に任命した。

数学では、土木工事などの計算の必要から日本独自の和算が発達した。中でも、関孝和(せき たかかず)は、筆算の研究、円周率、連立一次方程式の理論などを研究した。

地理学では、長崎で通訳をしていた西川如見(にしかわ じょけん)が、オランダ人との接触によって得られた外国事情に関する知識を基にして、本格的な世界地理のテキストである『華夷通商考(かい つうしょうこう)』を著した。

歴史研究と国学のおこり[編集]

幕政が安定すると、幕府は歴史に関心を持ち始めた。

また、歴史学や和歌などでは、教育方法が従来は師匠から弟子への秘伝として閉鎖的な教育方法で伝えられてきたが、それを改めようとする風潮が起きてきた。

林羅山(はやし らざん)林鵞峰(はやし がほう)の父子は、幕府に歴史書の編纂を命じられて、編年体の歴史書である『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』を著した。

いっぽう、水戸藩主の徳川光圀(とくがわ みつくに)は、多数の学者を集めて紀伝体の歴史書『大日本史』の編集に着手した。

新井白石は、独自の歴史観にたち『読史余論(とくしよろん)』および『古史通(こしつう)』を著した。

契沖(けいちゅう)は、和歌を道徳的に解釈しようとする従来の手法を批判し、文献学的な方法で万葉集を研究して『万葉代匠記(まんよう だいしょうき)』を著した。

北村季吟(きたむら きぎん)は、綱吉の代に幕府の歌学方(かがくかた)として登用され、将軍らに和歌を教えるかたわら、『源氏物語』や『枕草子』など古典の研究を行い、注釈書を著した。

戸田茂睡(とだ もすい)は、和歌で、中世以来の制約にとらわれるべきではないと、和歌の革新を説いた。

儒学の発達[編集]

朱子学からは、神道を儒教流に解釈する垂加神道(すいか しんとう)を唱える山崎闇斎(やまざき あんさい)が出た。

中江藤樹(なかえとうじゅ)は(儒学のひとつである)陽明学(ようめいがく)を学んだ。中江の門人の熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)は、幕政を批判したため、幽閉された。

いっぽう、『論語』や『孟子』など古代中国の古典を、直接、原典にあたって研究しようという古学(こがく)が起きた

古学では、京都の町人出身の学者 伊藤仁斎(いとう じんさい)とその子 東涯(とうがい)父子は、京都の堀川(ほりかわ)に私塾 古義堂(こぎどう)を開き、古学にもとづく儒学の講義を行った。

江戸では、(伊藤仁斎よりも40歳ほど若い)荻生徂徠(おぎゅう そらい)が中国語の研究を通じて古学の研究を行った。

荻生徂徠は、柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)・将軍吉宗(よしむね)の政治顧問として用いられ、幕政にも関わった。また、徂徠は江戸に私塾 蘐園塾(けんえんじゅく)を開いた。

元禄文化[編集]

主な文学作品
小説
作品名 著者 ジャンル
好色一代男 井原西鶴 好色物
好色五人女 井原西鶴 好色物
日本永代蔵 井原西鶴 町人物
世間胸算用 井原西鶴 町人物
武家伝来記 井原西鶴 武家物
武家義理物語 井原西鶴 武家物
紀行・句集
笈の小文
(おいのこぶみ)
松尾芭蕉
奥の細道 松尾芭蕉
猿蓑(さるみの) 松尾芭蕉ら
脚本
曾根崎心中 近松門左衛門 世話物
心中天網島
(しんじゅう てんのあみじま)
近松門左衛門 世話物
冥土の飛脚 近松門左衛門 世話物
国性爺合戦
(こくせんや かっせん)
近松門左衛門 時代物


俳句では、「わび」「さび」と言った落ちついた作風の松尾芭蕉(まつお ばしょう)は、もともと、強調表現や派手な表現を得意とした談林派(だんりんは)の出身である。

※ では、経緯を見ていこう。

そもそも、俳句(はいく)のもとになった俳諧(はいかい)は、もともと連歌の一部の発句(はっく)であった。

江戸時代の初めごろ、連歌から分かれた俳諧(はいかい)が人気になった。

まず始めに、西山宗因(にしやま そういん)が軽妙な俳諧で人気になった。

松尾芭蕉も、西山の一門に学んだ。

しかし、松尾芭蕉はやがて西山の派から脱け、独自の作風を確立する。(芭蕉のような作風のことを「蕉風」(しょうふう)という。)

また、松尾芭蕉は紀行文『奥の細道』を残した。


なお、のちに小説家として知られる井原西鶴(いはら さいかく)も、西山宗因の俳諧に学んだ。


小説では、井原西鶴(いはら さいかく)が、小説の題材として、金銭ざたや色恋ざたなど、町人や庶民の風俗を題材にした小説を書いた。

井原の書いたようなジャンルの小説は、浮世草子(うきよぞうし)と言われる。(従来の「仮名草子」(かな ぞうし)に対して、浮世草子と言った。)

井原の代表作に『好色一代男』(こうしょく いちだいおとこ)、『日本永代蔵』(にほん えいたいぐら)、『武道伝来記』(ぶどうでんらいき)などがある。

人形浄瑠璃では、大坂で竹本義太夫(たけもと ぎだゆう)が竹本座を創設し、義太夫節(ぎだゆうぶし)の浄瑠璃の語りで人気になった。同じ頃、脚本家の近松門左衛門の脚本が、浄瑠璃で多く使われ、竹本座でも近松の作品が語られた。


歌舞伎(かぶき)は、もともとは女性の踊り(おどり)などをみせる女歌舞伎(おんな かぶき)だったが、風俗を乱すとして禁止され、つづいて少年の演じる若衆歌舞伎(わかしゅ かぶき)になったが、これも風俗を乱すとして禁止され、最終的に成年男子の演じる野郎歌舞伎(やろう かぶき)になって認められた。

歌舞伎の内容も、しだいに演劇になっていった。そして、役者が人気になっていった。

江戸では、初代 市川団十郎が、力づよい演技である荒事(あらごと)で人気の俳優になった。

いっぽう、上方(かみかた)では、色男の役である和事(わごと)の坂田藤十郎(さかた とうじゅうろう)や、女役である女形(おやま)の芳沢あやめ(よしざわ あやめ) が人気の俳優になった。

元禄ごろの美術・工芸[編集]

絵画では、狩野派がひきつづき幕府の御用絵師として活躍したが、狩野派は様式の踏襲にとどまった。

いっぽう、上方(かみがた)を中心に、美術や工芸では新規の作風が育ってきた。

上方では、大和絵(やまとえ)の系譜(けいふ)である土佐派(とさは)の土佐光起(とさ みつおき)が朝廷の御用絵師になった。

そして、土佐派から分かれた住吉如慶(すみよし じょけい)と住吉具慶(〜ぐけい)の父子も、幕府の御用絵師となった(住吉派)。

※ 幕府は、狩野派のほかにも、住吉派を御用絵師に加えたという事。けっして、狩野派を排除して住吉派を御用絵師にしたわけではない。(※ 参考文献はwikipedia日本語版の記事『狩野派』。)

江戸では、浮世絵(うきよえ)があらわれ、安房(あわ)出身の菱川師宣(ひしかわもろのぶ)などが作品を残した。菱川師宣の絵の制作方法は、はじめ肉筆だったが、やがて版画を始めた。版画だと、安価に絵を入手できることもあって、菱川の絵は人気になった。菱川師宣は、美人画などを残した。

陶器では、京都の野々村仁清(ののむら にんさい)が色絵(いろえ)の技法を完成させて京焼(きょうやき)の祖(そ)となった。

また、屏風(びょうぶ)絵では、京都の尾形光琳(おがた こうりん)は俵屋宗達の影響をうけて、尾形光琳が『燕子花図屏風』(かきつばた ずびょうぶ)などの作品をつくった。

染物でも、京都の宮崎友禅(みやざき ゆうぜん)が、友禅染(ゆうぜんぞめ)を始めた。