高等学校日本史B/古墳とヤマト王権

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

古墳の出現[編集]

大仙(だいせん)古墳。百舌鳥(もず)古墳群の中心的な古墳で、被葬者は仁徳(にんとく)天皇と考えられているが、諸説ある。(大阪府堺市)
三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)
埴輪。武装男子立像(群馬県太田市出土)東京国立博物館蔵、国宝

3世紀後半には古墳が造られるようになっていた。特に巨大な古墳が奈良県の大和(やまと)に多く、この奈良を中心にして少なくとも近畿地方一帯を支配する強大な政権があったと考えられ、これをヤマト王権ヤマト政権などと呼ぶ。

古墳の分布から考えると、4世紀中頃までにヤマト王権による支配領域が、九州北部から東北地方南部にまで広がっていったと考えられている。

古墳の形には、さまざまな形があるが、特に巨大な古墳には前方後円墳が多い。また、数が多いのは円墳や方墳である。古墳の多くは、表面に石が葺かれ、埴輪(はにわ)なども置かれた。内部には石室(せきしつ)があり、石室には石棺や木棺などの棺がおさめられた。このほか、さまざまな副葬品がおさめられた。副葬品には、古墳時代のはじめごろは銅鏡や銅剣などがおさめられた。有名な銅鏡としては、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などがある。

最大規模の古墳は、大阪府にある前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)の大仙古墳(だいせんこふん)であり、大王陵と考えられている。

ヤマト王権[編集]

近畿豪族の連合[編集]

特に大きな古墳が、大和(やまと、奈良県)や河内(かわち、大阪府)を中心に多く作られているので、近畿地方を中心に、有力な豪族たちがいたと思われている。この近畿地方の有力な豪族たちは連合政権を形成しており、この政権を指して、現代ではヤマト王権(ヤマトおうけん)、ヤマト政権などという。


4世紀〜5世紀には、前方後円墳が、大和地方だけでなく、各地に広がっていく。5世紀の後半には、ヤマト王権は九州から関東までを支配していた。また、各地に前方後円墳があることから、

この大和にいた、有力な豪族たちの連合体であるヤマト王権が、のちに日本を支配していき、のちの飛鳥時代の朝廷(ちょうてい)になっていく。


まんなかにある、たてに長い茶色いのが、発掘された鉄剣。金錯銘鉄剣(国宝、埼玉県立さきたま史跡の博物館)

埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、ワカタケル大王(ワカタケルだいおう、ワカタケルおおきみ)の名が刻まれた文が、刻まれてあります。文を読むと、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたらしいです。

熊本県の 江田船山(えた ふなやま)古墳 にも、おなじ名前の刻まれた鉄刀(てっとう)があり、ワカタケル大王の支配する領域が、関東地方から九州までの広い範囲(はんい)に、およんでいたことが、分かります。

正確に言うと、当時はまだ漢字しか文字がなかったので、稲荷山の鉄剣には115字の漢字が刻まれており、その漢字の中に「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)という名が、刻まれています。 

また江田船山の鉄刀には、刻まれた文が破損しており、「獲□□□鹵大王」(ワ???ル大王 ?)というふうに名前の一部が読めなくなっています。(□が破損部とする。)

後の日本の神話の書の『古事記』(こじき)や、後の歴史書の『日本書紀』(にほんしょき)などから「ワカタケル」という人物の存在が知られているので、鉄剣などがワカタケルの存在をうらづける証拠になったのです。日本書紀に「幼武天皇」(わかたけ てんのう)という記述があるのです。 ワカタケル大王とは、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)だということが分かっています。

この大和にいた、有力な豪族、および、この大和の地域の有力な豪族たちの連合体が、のちに日本を支配していき、のちの飛鳥時代の朝廷(ちょうてい)になっていく。

大和にいた、有力な豪族、および、この大和の地域の有力な豪族たちの連合体のことを、現代の歴史学では「ヤマト政権」とか「ヤマト王権」とかという。べつに当時の人が「ヤマト政権」と呼んでいたわけではない。

ヤマト政権が、のちの時代に朝廷になるといっても、古墳時代の始めや中頃では、まだヤマト政権は各地の豪族のうちの一部にしか、すぎない。のちの時代の天皇も、先祖をたどれば、(おそらく大和地方にいただろう)有力な豪族のうちの一つでしかない。

古墳時代の始めのうちは、まだ日本の統一がほとんど進んでおらず、ヤマト王権は、まだ、今の日本語で言う「朝廷」と呼べるような段階には至ってない。ヤマト王権が、古墳時代での各地の政権の統一をへて、のちの飛鳥時代の朝廷へと、なっていく。

大王の出現[編集]

仁徳(にんとく)天皇陵(てんのうりょう)と思われている大仙たいせん古墳
大阪府堺市。前方後円墳(ぜんぽう こうえんふん) 。

5世紀の後半ごろから、ヤマト王権は、ほぼ各地を平定した。 日本では、ヤマト王権の中の、もっとも有力な支配者を、大王(おおきみ)と呼んでいた。稲荷山古墳(いなりやま こふん、埼玉県)から出土した鉄剣の銘文で、みずから「大王」と読んでいる。中国では「倭王」(わおう)と呼んでいた階級であろう。大王の一族は、のちの天皇の一族である。たとえば、5世紀の中ごろに近畿地方に作られた大仙(だいせん)古墳は、大王の墓だと思われている。

そして、各地の豪族たちはヤマト王権に仕えた。

このころには、ほぼ政権の権力が安定しており、ヤマト王権の政治組織を整えられるようになった。そして、さまざまな政治の制度が作られた。

古墳の変化[編集]

やがて古墳には、鉄製の武具や馬具、農具や土器などの生活用品も、石室におさめられるようになった。つまり、古墳が、死後の生活の場と考えられた。副葬された土器には、土師器(はじき)や須恵器(すえき)などが納められた。須恵器(すえき)は、5世紀に朝鮮半島から伝わった土器であり、灰色で堅い。土師器(はじき)は、須恵器伝来前からある在来の土器であり。弥生土器の系統をひき、赤い。

須恵器の製法は、丘(おか)などの斜めになってる地面の斜面をくりぬいて穴窯(あながま)を作り、その穴窯の中で土器を焼き固めるという、のぼり窯(のぼりがま)を用いた方法です。野焼きよりも高温に焼けるので、かたい土器が焼きあがるというわけです。 縄文土器は、野焼きの土器でした。弥生土器も、のぼり窯は用いていません。

石室は従来は竪穴式であったが、6世紀になると横穴式石室(よこあなしき せきしつ)が一般化してきた。これは朝鮮半島の風習と近く、日本が朝鮮半島から影響を受けたと思われる。


氏姓制度[編集]

豪族は、血縁をもとに、氏(うじ)という集団を作っていた。氏を単位に、ヤマト王権の職務を担っていた。そして、豪族たちの名前に関する制度で、氏(うじ)と姓(かばね)とによる、後に言う氏姓制度(しせい せいど)が、作られた。 姓は、大王から、その氏の職務に応じて授けられた。

(うじ)とは、主に、血のつながった者どうしの集団である。(かばね)とは、政治の地位による称号(しょうごう)で、たとえば「臣」(おみ)や「連」(むらじ)という姓が、あります。

氏の代表者を氏上(うじのかみ)という。氏の構成員を氏人(うじびと)という。氏とは、その氏上や氏人などから成り立つ、組織であった。

有力な豪族の氏には、たとえば蘇我氏(そが し)・物部氏(もののべ し)・大伴氏(おおとも し)などが、あります

政治の仕事を行なう豪族には、さらに姓(かばね)が与えられた。中央の政治の姓には、臣(おみ)、連(むらじ)の姓が与えられ、中でも有力な豪族には大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の姓が与えられた。

例えば、蘇我氏には「臣」(おみ)という姓(かばね)が与えられた。大伴や物部には「連」(むらじ)という姓(かばね)が与えられました。

そして、手工業や軍事などの管理にたずさわる豪族は、それよりも低い地位に置かれ、伴造(とものみやつこ)などの姓が与えられた。そして、その管理者のしたで働く、伴(とも)や部(べ)などの集団を、伴造などが管理した。

部には、様々な専門職であったらしい品部(しなべ)や、豪族の私有する民の部曲(かきべ)がある。

このような改革により、6世紀の半ばごろまでには、ヤマト王権による中央集権的な日本各地の支配が進み、のちの時代で言う「朝廷」のようなものが出来ていったと考えられる。


日本と外国との関係[編集]

中国[編集]

終わりごろ、中国では「宋」(そう)という国が、中国の南部を治めていた。この時代、中国は北朝(ほくちょう)である、北魏(ほくぎ)と、南朝(なんちょう)である宋(そう)という、2つの国に分かれていて、南北の王朝が争っていた。

その宋の歴史書の『宋書倭国伝(そうじょ わこくでん)では、5世紀に中国の王朝である宋に、日本からの外交で、日本の5人の大王が、それぞれ外交の使者を送ってきたことが、『宋書』に書かれています。 5人の王の名は、宋書によると、それぞれ讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)という名です。 この5人の倭国の王を 倭の五王(わのごおう) といいます。日本は、高句麗との戦争で優位に立ちたいので、宋の支援(しえん)が、ほしかったのです。

この5人の王が、どの天皇か、それとも天皇ではない別の勢力なのか、いろんな説がある。

有力な説では、武(ぶ)は、日本書紀に「幼武天皇」(わかたけ てんのう)という記述のあるワカタケル大王のことだろうと思われています。つまり雄略天皇が武(ぶ)だろうと思われています。


  • 倭王(わおう)武(ぶ)の上奏文(じょうそうぶん)

この時代の倭王の「武」(ぶ)が、中国に送った手紙には、つぎのようなことが書かれています。


 倭王武の上奏文(抜粋) (『宋書』倭国伝)

興死して弟武立つ。自ら(みずから)使持節都督(しじせつととく)倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓(しんかん)・慕韓(ぼかん)・七国諸軍事安東(あんとう)大将軍倭国王と称す。
順(じゅん)帝の昇明(しょうめい)二年、使を遣して表を上りて(たてまつりて)曰く、「報国(ほうこく)は偏遠(へんえん)にして、藩を外(そと)に作す(なす)。昔より祖禰(そでい)躬ら(みずから)甲冑を擐き(つらぬき)、山川を跋渉(ばっしょう)して、寧処に(いとま)あらず。東は毛人(もうじん)を征すること五十五国、西は衆夷(しゅうい)を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」と。
(『宋書』倭国伝、原文は漢文)





「皇帝から臣下としての地位を受けた我が国は、中国から遠く離れた所を領域としています。 昔から私の祖先は、みずから よろい・かぶとを身につけ、山や川を踏み越え、休む日もなく、東は毛人(もうじん)の国(毛人=おそらく東北地方の蝦夷(えみし))55か国を平定し、西は衆夷(しゅうい)の国(衆夷=おそらく九州の熊襲(くまそ))66か国を平定しました。さらに海をわたって、海北(かいほく)の(海北 =おそらく朝鮮半島)95か国を平定しました。

(和訳して抜粋)

このような内容が書かれています。この倭王が中国に送った手紙を、一般に、倭王武の上奏文(わおう ぶ の じょうそうぶん)と言います。「上奏」(じょうそう)とは、格下の者が、目上の地位の者に、申し上げることです。

なお、最終的に中国の南北朝を統一する国は、「隋」(ずい)という国によって6世紀おわりごろに統一されます。南北朝の次の王朝は、隋(ずい)王朝になります。

朝鮮半島[編集]

375年頃の朝鮮半島
碑文の複製 1882年頃作成、東京国立博物館

4世紀には、朝鮮半島は国が分裂していた。南西部の百済(くだら、ペクチェ)と、東部の新羅(しらぎ、シルラ)と、北部の高句麗(こうくり、コグリョ)と、その他のいくつかの小国があった南部の伽耶(かや、カヤ)地方に分裂していて、おたがいに争っていた。伽耶(かや、カヤ)のことを任那(みまな)、あるいは加羅(から)ともいう。

伽耶は半島の南部にあり、百済は、南西部にあった。日本は、鉄の資源などをもとめて、南部や南西部の、伽耶や百済と交流があった。

日本は、伽耶(かや、カヤ)と百済(くだら、ペクチェ)に協力した。 日本は百済(くだら、ペクチェ)と連合して、敵である新羅(しらぎ、シルラ)および高句麗(こうくり、コグリョ)と戦う。

朝鮮半島での、広開土王(こうかいどおう)の碑文(ひぶん)によると、倭が高句麗(こうくり)との戦争を4世紀後半にしたことが書かれています。この戦いでは高句麗が勝って、倭の軍をやぶったそうです。広開土王は好太王(こうたいおう)とも言います。

なお最終的に、朝鮮半島を統一した国は新羅(しらぎ、シルラ)であり、7世紀に新羅が朝鮮半島を統一する。

磐井の乱(いわいのらん)[編集]

6世紀はじめ、九州の北部で、大和朝廷に逆らう、大規模な反乱が527年に起きる。豪族の筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井(いわい)が、新羅とむすんで反乱を指揮した。朝鮮半島での、百済をすくうための出兵の負担への反発が、きっかけ。 この反乱のことを 磐井の乱(いわい の らん) という。

ヤマト王権は、この反乱(磐井の乱)をおさえるのに、1年あまリ〜2年ほど、かかる。


ヤマト王権の政治制度[編集]

6世紀、ヤマト王権に服従した地方豪族は国造(くにのみやつこ)として任命された。

また、各地に、ヤマト王権の直轄地が設置され、その直轄地は屯倉(みやけ)という。

また、直轄民として従属する部の民を名代(なしろ)、子代(こしろ)とし、地方豪族に従属する民を部曲(かきべ)と呼んだ。

いっぽう、有力な豪族の私有地を田荘(たどころ)といい、有力な豪族が私有地を持っていた。