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高等学校日本史B/第二次世界大戦と日本

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日中戦争

満州事変後の1933年5月に日中間で停戦協定がいったん結ばれた(塘沽(タンクー)停戦協定)。中国では華北を中国の支配から切り離そうとする華北分離工作がすすめられ、関東軍は河北省東部に冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)を樹立した。

いっぽう、1936年12月に、共産軍討伐をしていた張学良は、督励のために西安(せいあん、シーアン)に訪れた蒋介石を監禁し、共産党との戦闘停止と抗日を蒋介石にせまり同意させた(西安事件)。そして1937年には国共合作が実現した。(「国共合作」とは、国民党と共産党との同盟のようなもの。)

広田内閣は1937年1月に総辞職した。

かわりに、組閣の大命が、穏健派の陸相の宇垣一成(うがき かずしげ)にくだった。しかし、反対する陸軍が陸相を出さなかったので宇垣は組閣できなかった。

なので1937年2月、陸軍大将の林銑十郎(はやし せんじゅうろう)が首相となって組閣したが、4月の選挙で大敗し、総辞職した。

かわりに1937年5月、国民からの人気も高くて華族出身の近衛文麿が首相となり、組閣した(第1次近衛内閣)。(なお、近衛文麿は以前は貴族院議長もつとめていた。)

(※ 範囲外: )のちの国家総動員法の制定後の1936年1月に、いったん近衛は首相を辞職する。近衛はその辞職のとき、近衛は自身の立場について(何も知らされてない操り人形のような)「マネキンガール」みたいなものだと語ったらしい[1]。なお、第2次近衛内閣は1940年7月から。


盧溝橋事件

第1次近衛文麿内閣の時代の1937年7月7日と8日に、北京(ペキン)郊外にある盧溝橋(ろこうきょう)で訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれた事件があった(盧溝橋事件(ろこうきょう じけん) )。

これを日本軍は中国軍の発砲(はっぽう)だと考えたので、戦闘準備を始めるが、まだ攻撃の許可をもらっていないので中国軍への攻撃は中止した。このとき、中国軍が日本軍の戦争開始と誤解して、日本軍を攻撃したので、日本軍と中国軍とが戦闘した事件。当時、この戦闘を 「北支事変」(ほくしじへん) と言った。

はたして誰が発砲したかについては、いまだに不明(2014年の今でも。)である。

※ 世間では柳条湖事件(満州事変の発端の鉄道爆破事件)と混同してか「日本軍が事件の犯人だ」みたいな事を言う人がいるが、学問的には盧溝橋事件の真相はいまだに不明である。


現地では、ひとまず7月11日に日中の現地軍どうしで、ひとまず停戦協定が結ばれた[2]


だが、25日には中国軍が日本軍を攻撃する廊坊事件(ろうぼう じけん)が起こり、26日にも中国軍が日本軍を攻撃する広安門事件(こうあんもん じけん)が起きたので、日本政府は中国が停戦協定をやぶったと考え、ついに7月28日に日本軍による攻撃が始まり、本格的な戦争になっていく。(小学・中学・高校では覚えなくて良い。)

この7月28日ごろを日中戦争の開始時期と考える学説もある。


もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。中国側も同様の理由で「事変」という語を用いなかった。

事変とはいうものの、北支事変は事実上の戦争なので、この北支事変の戦闘をもって、日中戦争(にっちゅうせんそう)の始まりと考える日本の学説や教科書もある。

第二次上海事変

日本軍は1937年8月に上海に海軍陸戦隊を派兵して戦闘する。この戦闘を 第二次上海事変(だいにじ シャンハイじへん) と言う。あるいは、上海戦(シャンハイせん)とも言う。

宣戦布告をしてないので「事変」というが、じっさいには、戦争の開始と同じなので、現代では、この上海事変をきっかけに、日中戦争(にっちゅうせんそう)が始まったと考える学説もある。いっぽう盧溝橋事件を日中戦争の始めと考える学説もある。

※ 「日中戦争のはじまりの時期を、いつと考えるか?」には、盧溝橋事件と考えるか上海戦と考えるか、その間の事件に対する報復攻撃の時期と考えるか、多くの説がある。このような事情があるので、日中戦争の開始の時期には、あまり、こだわる必要がない。もしテストに細かく日中戦争の開始時期を問う教育者がいれば、その教員の知識がうたがわれるだろう。

もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカから石油などの物資の輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。

南京攻略戦

1940年の日中戦争での戦場。 (赤いところが日本が占領した場所。)

上海戦は4ヶ月ほど長続きした。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略した。(おそらく日本は首都の南京をおとせば蒋介石が降伏するだろう、と考えたのだろう。) 国民党の支配者の蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は、つづいた。


このときの 1937年12月から1938年はじめの南京で起きたとされる大量殺害事件のことを 南京事件(ナンキンじけん) と言う。いわゆる南京大虐殺(なんきん だいぎゃくさつ)のことである。

首都の南京を日本が陥落(かんらく)しても、中華民国は首都を漢口(かんこう)、ついで重慶(じゅうけい)などにうつし、抗戦をつづけたので、日中戦争はつづいた。

ドイツ国はドイツ中華大使トラウトマンを通して日中両国に和平を斡旋(あっせん)したが(トラウトマン工作)、和平交渉は失敗し、近衛内閣は1938年1月「国民政府を相手とせず」と声明を発表した(第1次近衛声明)。

※ ドイツを「ファシズムの国だから戦争賛成のハズだ」とか安易に決め付けると、(失敗に終わったが)トラウトマン工作の意義が分からなくなる。トラウトマンはドイツ大使であるし、つまりドイツが和平工作を仲介しようとしたという事である。このように、実際の国際政治はけっして単純な善悪二元論ではない。トラウトマン工作の時点で、すでにヒトラーがドイツの首相である[3]


同1938年11月には、東亜新秩序の声明を出し、日本・中華・満州の3国の協力による国際政治を中国に呼びかけた(実質的には国民党に、共産党との提携をやめて日本側に協力してほしいと呼びかけた宣言)、国民党が応じず、失敗した。(※ 参考文献: 明成社の検定教科書)

日本は、国民党の幹部(副総裁)の汪兆銘(おう ちょうめい)をひそかに重慶から脱出させ南京に招き、1940年に親日的な新政府を樹立を宣言した。(なお第二次大戦後、この汪兆銘政権は傀儡政権だと批判される。)

しかし、国民党・共産党軍との戦闘は止まらず、日中戦争は長期化した。

日本の戦時体制

事変の長期化にともない、日本では、戦争遂行の協力体制の確立のため、1937年から「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」(きょこくいっち・じんちゅうほうこく・けんにんじきゅう)のスローガンとする国民精神騒動運動が開始された。

つづいて、総力戦体制を確立するために、日本で1938年に、議会の承認なしに物資・人員の動員・統制のできる国家総動員法が制定された。また、国家総動員法にともなう類似の法として、1939年には賃金統制令・国民徴用令・価格統制令などを発布した。価格統制令によって、公定価格が導入された。国民徴用令によって、一般国民が軍需工場などに動員された。

電力も、電力国家管理法によって、各地にあった民間のいくつもの電力会社が、単一の国策会社に統合させられた。

また、1938年ごろから企業では、労使一体となって戦争遂行に協力する産業報国会の結成がすすめられた。

その後、戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1940年にぜいたく品の製造・販売が禁止され、また、米(こめ)の強制買い上げ制度(供出性)が実施され、1941年からは米や日用品などは配給制(はいきゅうせい)や切符制になった。(※ 正確には、砂糖・マッチ・木炭・綿製品が切符制。米は配給性。)


なお1940年には、近衛文麿(このえ ふみまろ)内閣のもと、「挙国一致」の体制をつくるため、ほとんどの政党や政治団体が解散して、大政翼賛会(たいせいよくさんかい)に合流した。


また、大政翼賛会の下部組織として、隣組・町内会・部落会などが結成された。庶民たちは、10戸ごとにまとめられ、「隣組」(となりぐみ)とさせられ、協力しあう事とされたとともに、おたがいに監視させられた。

1941年に小学校は「国民学校」に改称させられ、国家主義的な教育が増えた。 (※ 範囲外:)「国民学校」とは、おそらくドイツ語の フォルクス・シューレ の直訳。フォルクスの意味は「国民」とか「民衆」とかの意味。自動車のフォルクスワーゲンのフォルクスと同じ意味。シューレは「学校」の意味であり、英語の「スクール」と同じ意味。

文化と戦時体制

1930年代の文学では、戦時統制とは あまり関係のない文学的な理由で、島崎藤村(しまざき とうそん)の作品が流行した。

(※ 検定教科書には、この時代に「白樺派(しらかばは)の志賀直哉(しが なおや)や武者小路実篤(むしゃのこうじ さねあつ)の作品が流行した」とある。


いっぽう、思想弾圧によりプロレタリア文学が壊滅した。いっぽう、戦争を描写した戦争文学がさかんになった。火野葦平(ひの あしへい)は自らの従軍経験をもとに『麦と兵隊』を書き、人気を博した。いっぽう、石川達三(いしかわ たつぞう)の『生きている兵隊』は発売禁止になった。

歴史学者の津田左右吉(つだ そうきち)は、日本書紀などは歴史的事実ではないと主張していたため、1940年に津田左右吉の著書の『神代史の研究』ほか3冊は発禁処分となった。

美術の分野では、従軍画家などとして戦地に派遣された画家によって、戦争画が描かれた。

植民地での戦時体制

朝鮮半島

朝鮮では、朝鮮人の名前を日本風の名前に変える創氏改名(そうし かいめい)が行われた。また、この創氏改名の際、夫婦同性が強制された。(それまで朝鮮半島では、夫婦が別姓だった。)

創氏改名の実態については、2つの学説がある。強制説と、非強制説である。

説1: 日本は、朝鮮人の日本への同化政策の立場から、朝鮮人から朝鮮名をうばい、日本人のような氏名を名乗るよう強制した。(※ 山川出版の高校教科書や中学教科書などの教科書の見解。) (※ 範囲外: )創氏制度は王族など特殊な例外を除き、全朝鮮人民に法規で適用されたものであった。
説2: もうひとつ別の説があって、創氏改名では、朝鮮名の禁止は強制されてないという説もある。(※ 実教出版の教科書の見解。) 日本政府は、日本風の姓名の使用を奨励したが、強制はしてないという説。

台湾

戦争犯罪

日本の戦争犯罪の容疑

  • 731部隊(ななさんいち ぶたい)

満州のハルビンを拠点としている(日本軍の)「731部隊」が、中国人捕虜などをつかった人体実験で、細菌兵器の実験をしたといわれる。


  • 毒ガス使用

国際条約で使用禁止のされている毒ガスを、日本軍は中国戦線で使用したという容疑が言われている。


  • 三光作戦(さんこう さくせん)

日本軍は、抗日ゲリラの拠点と考えられる村で、掃討作戦を行った。

中国側は、これを住民に対する大虐殺として、中国側はこれを「三光作戦」(さんこう さくせん)と呼んで非難している。

三光の意味は「焼き尽くせ、殺し尽くせ、奪い尽くせ」という意味らしい。

(※ 範囲外: )なお、「三光」の呼び名の元ネタは、おそらく、義和団事件のときにドイツ人居留民を多数殺害されたドイツ皇帝が怒り、ドイツ兵に対する命令で、義和団および義和団に協力した現地中国軍を「焼き尽くせ、殺し尽くせ、奪い尽くせ」と、ドイツ軍に三箇条で命令したことが、おそらく元ネタ。

第二次世界大戦の勃発時の日本

1938年は第二次世界大戦の勃発よりも前である。

1938年の時点、日本とドイツは既に防共協定を結んでいたが、まだ軍事同盟は結んでいない状態である。防共協定は軍事同盟ではない。なので、軍事同盟を組もうという議論があった。

1938年、ノモンハン事件で日本は大敗。(ノモンハンは地名で、満州とモンゴルの国境にノモンハンがある。)

1939年に日本で平沼騏一郎(ひらぬま きいちろう)内閣が組閣した。

1939年8月に独ソ不可侵条約が結ばれると、日本の平沼騏一郎内閣は、「欧州の情勢は複雑怪奇」と声明して総辞職した。まだ、ドイツと日本の軍事同盟は結ばれてない。

なお、1939年9月にドイツがポーランドに攻め込み、第二次世界大戦が勃発する。

平沼内閣のあとの(陸軍大将)阿部信行(あべのぶゆき)内閣、(海軍大将)米内光政(よないみつまさ)内閣の両内閣も、ドイツとの軍事同盟には消極的であり、当初の日本は世界大戦には介入しない方針だった。

1939年、アメリカは日米通商航海条約を延長しないと日本に通告した。日本は資源をアメリカからの輸入に頼っていたので、日本は資源不足の不安のある状況になった。このような事情もあり、日本では南進論が高まった。

7月、陸軍の圧力で米内光政内閣が倒れ、(第2次)近衛文麿内閣が成立した。すると、近衛内閣は、日独伊三国同盟を締結した。

(※ 余談: ) 近年の歴史研究では、実はドイツは日本をやや裏切っており、この日独伊三国同盟にもかかわらず、日中戦争の最中に、ドイツが中国に秘密裏に武器提供などの物資援助をしてことが解明されている(※ 中学の自由社の教科書でも紹介されている)。ドイツは見返りに、中国からタングステンなどの金属の提供を受けた。

近衛文麿は、ただちに「大東亜共栄圏」構想を提唱し、南方での資源確保に関心を示した。(※ のちの東条内閣で大東亜戦争(太平洋戦争)に発展するが、当初の近衛の構想では、経済的な構想だった可能性もある。インドネシアに植民地をもつオランダとも、日本は交渉をしている(しかし、条件がおりあわず、失敗する)。構想の真相は不明?)

同じ頃、援蒋ルートを断ち切るために、ドイツに降伏したフランスの植民地のひとつであるフランス領インドシナの北部に進駐した。これによって、アメリカは態度を硬化させ、日本への石油・くず鉄などの輸出を制限した(まだ禁止はしてない。禁止するのは数年後)。アメリカの姿勢にイギリスも同調した。


日本国内では、近衛内閣は、ナチスのような一国一党の大政翼賛会を結成した。そして、社会大衆党、立憲政友会、立憲民政党などの諸政党が大政翼賛会として合流した。しかし、当初予定をしていた大戦翼賛会の政党としての機能は、天皇の統治権を侵害するという議論が起きたため(※ 参考文献: 東京書籍の検定教科書)、大政翼賛会に政党としての機能は無くなり、かわりに全国各地の町内会などを支配して国策を民衆に伝えるための上意下達の機関になった。このため大政翼賛会は、首相を総裁とし、都道府県知事を支部長とし、部落会・町内会・隣組などを下部組織とする全国組織になった。

大政翼賛会の初代総裁は、近衛文麿である。

いっぽう企業などでは、1938年には労使一体の機関として、産業報国会の結成が奨励された。1940年には、これらの全国組織として大日本産業報国会が結成された。

そして大戦翼賛会に、大日本産業報国会や大日本婦人会や大日本青少年団なども統合された。


(かつての歴史教育では、オランダも同調したとされるが、実はオランダとは日本は独自に交渉をしていた。しかし、条件がおりあわずに交渉が決1941年4月から、駐米大使 野村吉三郎(のむらきちさぶろう)とアメリカ国務長官ハルとの間で日米交渉が行われた。

その一方で外相松岡洋右(まつおか ようすけ)により、1941年4月に日ソ中立条約が結ばれた。 日ソ中立条約には、軍事面の安全を得ようという思惑のほかにも、(日本の味方を増やすことで)対アメリカとの交渉を有利にすすめようとの思惑もあった。(※ 思惑の参考文献: 山川出版や東京書籍などの検定教科書に書かれてる。)

背景: 松岡は自身が13歳のころにアメリカにわたって勉強したというほどのアメリカ通である[4]。当然、アメリカの国力が当時の日本の国力を大幅に超えることは、松岡は体感しているはずである。このような人物が、アメリカと敵対したがるのは奇妙であるので、ならばアメリカとの交渉のために松岡は対ドイツや対ソ連との外交を進めたと考えるのが妥当であろう[5]


しかし6月にドイツとソ連が開戦した。

日本は、北方では満州 ー ソ連国境に大軍を集中させるとともに、南方ではフランス領インドシナ南部に進駐した。

アメリカは、在米日本資産を凍結し、8月には石油輸出を禁止した。アメリカに、イギリス・オランダも追随した。

日本は、これを相手国の頭文字をとって「ABCD包囲網」と呼んだ。(アメリカのA、ブリテン(イギリス)のB、チャイナ(中国)のC、ダッチ(オランダ)のD。)

(※ 近年の日本の歴史学会では「ABCD包囲」との言い換えをされてるし、そう紹介する検定教科書もある。たとえば山川出版の教科書では、「ABCD包囲陣」と呼んでいる。しかし、大戦中の当時は新聞などで「ABCD包囲網」と日本では呼ばれていた(※ 中学の自由社の教科書でも、当時の新聞でそう呼ばれてたと紹介している)。高校の清水書院の教科書では、「ABCD経済包囲網」で呼んでいる。)
(※ たしかに「網」ではなく、どちらかというと封鎖的な意味では「陣形」ではあるが、しかし、だからといって歴史を書き換えてはいけない。今後の封鎖的な出来事には「包囲陣」と使う提案ならともかく、史実を重んじる歴史学では過去に「包囲網」と言われたものを言い換えてはならないだろう。)
(※ このような「包囲○」呼び方の論争があるので、「ABCDライン」のように外来語で紹介している検定教科書もある。明成社の教科書。)
(※ 「包囲網」なのか「包囲陣」なのか教科書ごとに意見は分かれるが、現代用語で言えば内容は単なる「経済封鎖」である。)

太平洋戦争

開戦

近衛内閣のもと、9月6日の御前会議では、日米交渉がまとまらない場合にはアメリカとの開戦をすることが決定された(帝国国策遂行要領)。(ていこく こくさく すいこう ようりょう)

しかし交渉は10月まで続いた。そして、対米交渉がまとまらないまま、10月に近衛内閣が総辞職し、木戸幸一(きどこういち)内大臣の推挙で(現代では対米強行派と言われている)東条英機(とうじょうひでき)内閣が成立した。

東条内閣は11月まで対米交渉を継続した。しかし、結局、対米交渉がまとまらず、アメリカは、日本に満州事変以前の状態への復帰を要求した覚書(ハル=ノート)を突きつけてきた。 日本は、これを最後通牒として受け取り、本格的に開戦の意志を固め、12月1日の御前会議で開戦を決定した。

なお、ハル=ノートの内容は、満州国の否認、 汪兆銘政権の否認、および 重慶政府のみを中国の正式政府と認めること、フランス領インドシナからの撤兵、日独伊三国同盟の破棄、 などである。


そして12月8日、日本陸軍がマレー半島に奇襲上陸するとともに、日本海軍がハワイ真珠湾に奇襲攻撃をしかけ、日本が米英に宣戦布告し、日米戦争が開戦した(太平洋戦争)。 三国同盟にしたがって、ドイツとイタリアもアメリカに宣戦した。


真珠湾への奇襲攻撃により、アメリカの太平洋艦隊に大損害を与えた。

また、マレー沖では、日本軍は航空兵器を活用してイギリス東洋艦隊を壊滅させた。 日本軍は1941年12月中に香港を占領し、つづけて翌1942年1月にフィリピンを占領、2月にマレー半島およびシンガポールを占領し、つぎつぎと占領地を増やしていき、東南アジアのほとんどと周辺地域を占領した。

日本はこの戦争を「大東亜戦争」と名付け、戦争目的を、欧米の植民地となっていたアジアの解放であると(戦争目的を)設定した。

このため、一部の占領地域では、占領地域の原住民たちは日本軍に協力した。

いっぽう、べつの一部の地域では、抗日運動が起きた。


さて1942年6月、太平洋のミッドウェー島沖で日本海軍は、主力空母4隻および多数の艦載機(かんさいき)を失うという大敗をしてしまい(ミッドウェー海戦)、以降、日本の戦況は悪化する。

また、ガダルカナル島では、1942年8月からアメリカ軍が上陸をして攻撃を開始し、現地の日本軍は食料不足におちいり、おびただしい数の(日本兵の)餓死者を出した。翌1943年2月、日本軍はガダルカナル島から撤退した。

1943年に日本は、ビルマとフィリピンの独立を承認した。またインドでは、自由インド仮政府が樹立した。

1943年11月、登場内閣は、占領地域の日本協力者の指導者をあつめ、東京で大東亜会議を開いた。

この大東亜会議には、タイ・フィリピン・ビルマ・中国(汪兆銘)・満州国・インド(自由インド仮政府)・日本が参加した(台湾や韓国の代表者は、いない。)。

この大東亜会議では、「アジアの解放」や「共存共栄」、「自主独立」などがうたわれた。

発展: 占領地のあれこれ

  • 泰緬鉄道(たいめんてつどう)

タイとビルマの間では、現地の住民を徴発して泰緬鉄道(たいめんてつどう)が建設された。

太平洋戦争中、オランダ領インドシナで日本軍が使用した10グルデン軍票(1942年)
  • 軍票(ぐんぴょう)

日本軍にかぎらず、各国の軍隊は、外部に対する給料の支払いなどで、軍票(ぐんぴょう)という特殊な紙幣を発行し、それを支払った。しかし、日本の軍票は、日本の敗戦とともに、価値が無くなった。

  • ロームシャ

インドネシアの住民も日本具のために重労働をさせられ、現在ではこれを「ロームシャ」(労務者が由来か?)と教えている。


戦時下の国民生活

動員

1943年には、大学生の徴兵猶予をなくし、文科系の大学生を中心に軍に徴兵をする学徒出陣が行われた。(理科系と教員養成系が除外され、徴兵されなかった。)

※ 当時の教員養成系の学校教育は、現代の教員養成系とは違い、全教科が得意でなければならない。体育なども含めて、全教科が得意という事であり、理系科目が得意であるという条件も含まれる。つまり、実質的に理系が徴兵をまぬがれた。


徴兵をまぬがれた学生や若者も、軍需工場などに動員された(勤労動員)。 25歳未満の独身・未婚の女子は、女子挺身隊として工場などに動員された。


兵力不足や労働力不足をおぎなうため、朝鮮や台湾からも徴兵が行われたり、朝鮮や台湾などの労働者が日本へ連れてこられたりもした。なお、この施策は国民徴用令を植民地にも適用したものであり、(いいか悪いかはともかく)朝鮮・台湾を特別あつかいしたわけではない。(※ 参考文献: 東京書籍の教科書)

(現代の韓国が「日本は戦時中の強制連行を謝罪せよ」などと言ってるのは、この事について批判をしている。)
(なお、慰安婦(いあんふ)も強制連行であるというのが、戦後の韓国の見解である。)
「慰安婦」(いあんふ)というのは、主に兵士相手にセックスするための専門の仕事で、戦時中の軍隊での性処理の仕事。なので日本では、かわりに、多くの兵士を相手に、専門的に性処理の仕事をする女性を多く集めた。「従軍慰安婦」とも言うが、「従軍慰安婦」の言い回しは戦後に作られたものであり、戦時中の当時は単に「慰安婦」と読んでいた。
なおアメリカ軍では、少数の男性の将官(軍の幹部のこと)などが女性秘書など軍属のスタッフの女性をセックス相手にする事例があった。
また、アメリカ軍によって、フィリピン滞在中の男性将官には、現地フィリピン人の女性が、あてがわれた。同様にイギリス軍も、ビルマなどを支配していたイギリス軍は現地の女性を、イギリス軍の将官にあてがった。
※ ドイツ軍については、『アンネの日記』にも、アンネの推測だが、占領地のオランダ女性が兵士相手の慰安婦として集められてるのでは、 などの疑惑が紹介されている
※ アメリカだけでなくソビエト連邦も似たような悪いことをしている。出典として2022年に出版された書籍『ソ連兵へ差し出された娘たち』など、ソ連への性接待を扱った参考文献もある[6]。あまり「ソ連・東側陣営だって悪いことしたじゃないか」とか言いたくないが、しかし世間にはアメリカばかり悪く言ってソ連や中国など共産圏・東側国家の悪行を隠そうとするダメな評論家や反米のダメ出版社なども多いので、仕方なくソ連などの悪業も紹介する。
※ なお、従軍看護婦をセックス相手にするのは、近代の古くでは行われたが、その後、クリミア戦争の頃からナイチンゲールらの改革によって禁止されるようになったという。ただし第二次大戦後の朝鮮戦争でアメリカ軍が捕らえた北朝鮮の看護婦を慰安婦として募集したような事例を除けば。

国民生活

表現規制も厳しくなり、野球の英語用語なども禁止されるようになったり、ジャズなどの西洋的な流行音楽も禁止されるよになった。だが、これは裏を返すと、1930年代ごろには日本でアメリカ産の娯楽が流行していた事のあらわれでもある。(※ 実教出版の教科書の見解。) (※ ジャズはアメリカで流行しはじめて、世界的なブームになっていった。)

教育では、1941年に小学校が国民学校に改称され、教育内容でも軍国主義的なものが増えた。

本土空襲がせまった1944年からは、主要都市では学童疎開(がくどう そかい)が行われるようになった。

軍需工場も、空襲などの被害をのがれるため、軍需工場が地方移転をする事例も出てきた。

戦局

1944年7月には、サイパン島などマリアナ諸島を占領していた日本軍が(アメリカの攻撃によって)全滅し、アメリカ軍がマリアナ諸島を占領した。

東条内閣は、サイパン陥落の責任をとるため退陣し、陸軍大将の小磯國昭(こいそ くにあき)内閣が成立した。

アメリカ軍がマリアナ諸島を確保したことにより、日本の本土はアメリカ空軍の空襲の距離内に入った。1947年7月からは、アメリカ空軍はマリアナ諸島を基地として、B29爆撃機が焼夷弾(しょういだん)をつかって東京を標的の中心として無差別的に空襲をした。特に1945年3月の空襲は大規模かつ無差別的であり、一夜にして約10万人が焼死した(東京大空襲)。

「無差別」的な空襲という事の意味は、けっして基地だけ軍事施設だけを狙うのではなく(※ 「精密爆撃」ではなく)、住宅街なども狙うという意味。

※ しかも、東京大空襲では、らせん状に外側から内側にむかって囲んで東京を焼き払うようにアメリカ空軍が空襲をしたので、住民たちには逃げ場がなかった。まさに無差別爆撃である。

つづいて、(京都を除いて)名古屋・大坂・神戸などにも空襲が行われた。

(1945年3月にアメリカ軍が硫黄島を占領。)

1945年4月からは沖縄本島にアメリカ軍が上陸し、島民をまきこむ戦闘が3ヵ月つづき、1945年7月にアメリカ軍によって沖縄は占領された。

沖縄戦敗退の責任のため小磯國昭内閣は退陣し、(天皇の)侍従長の鈴木貫太郎(すずき かんたろう)内閣が成立した。(※ 鈴木貫太郎は海軍出身者でもある。)

鈴木貫太郎は、敗戦やむなしと考え、表向きには戦争続行をのぞむ軍部に同調したように振舞いながらも、ひそかに鈴木はソ連を仲介に終戦交渉をすすめたが、交渉はまとまらず失敗した。

沖縄戦では、男子学生が鉄血勤皇隊や通信隊に編制されたり、女学生が女子学徒隊などに編制され、動員された。 通信隊は、形式的には通信・伝令などの任務とされていたが、実際には戦闘にも参加したという。

従軍看護婦の「ひめゆり学徒隊」や「白梅(しらうめ)学徒隊」は、女子学徒隊の一種である。女子学徒隊は、野戦病院で看護に従事した。

敗戦

1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下される。

8月8日、ソ連は日ソ中立条約をやぶって日本に宣戦布告し、満州・北朝鮮に侵入した。

8月9日、長崎に原子爆弾が投下された。

1945年8月14日、昭和天皇の出席する御前会議で鈴木内閣と軍部は、ポツダム宣言の受諾を決定。同14日、日本政府は連合国にポツダム宣言受諾を通告。

15日正午、昭和天皇がラジオ放送で国民に「終戦の詔勅(しょうちょく)」として終戦を発表(玉音放送)。

玉音放送の直後、鈴木貫太郎内閣が総辞職したが、後任の内閣が定まるまで鈴木は首相としての仕事をつづけ、1945年8月17日に東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや なるひこ)内閣が組閣された。

東久邇宮内閣のもと1945年9月2日、降伏文書の調印が、東京湾内のアメリカ戦艦ミズーリ号上で行われ、重光葵(しげみつ まもる)外相と梅津美治郎(うめづ よしじろう)参謀総長が降伏文書に調印した。

こうして、日本は連合国の占領下に入り、太平洋戦争は終結した。

  1. ^ 田原総一郎『ホントはこうだった日本近代史1 満州事変から太平洋戦争の終わりまで』、ポプラ社、2013年3月5日 第1刷、P79
  2. ^ 田原総一郎『ホントはこうだった日本近現代史1』、ポプラ社、2013年3月5日、58ページ、
  3. ^ 田原総一郎『ホントはこうだった日本近現代史1』、ポプラ社、2013年3月5日、73ページ、
  4. ^ 田原総一郎『ホントはこうだった日本近代史1 満州事変から太平洋戦争の終わりまで』、ポプラ社、2013年3月5日 第1刷、P83
  5. ^ 田原総一郎『ホントはこうだった日本近代史1 満州事変から太平洋戦争の終わりまで』、ポプラ社、2013年3月5日 第1刷、P83
  6. ^ 平井美帆『ソ連兵へ差し出された娘たち』、集英社、2022年1月26日、※ ただしソンフィクションなので若干の想像が混じっている可能性に注意