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高等学校日本史B/鎌倉幕府の滅亡

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

両統迭立

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北条泰時の後押しを受けて即位した後嵯峨(ごさが)天皇は、1246年に後深草天皇に譲位して院政をしいた。しかし、1259年には後嵯峨上皇の指示で後深草天皇の皇子ではなく、弟が即位して亀山天皇となった。1268年に後嵯峨法皇は死去するが、そのときに次の治天の君を定めなかった。そのため、天皇家は後深草上皇系の皇統持明院統(じみょういんとう)と亀山天皇系の皇統大覚寺統(だいかくじとう)に分裂した。両統は皇位継承や院政権、皇室荘園領の相続などをめぐって対立した[1]。両統とも鎌倉幕府に働きかけて次代の天皇を自統から出そうとした。幕府は両統が交代して皇位を継承する両統迭立(りょうとうてつりつ)を提案し、1317年には幕府の提起によって両統の協議がなされた(文保の和談)。そして、幕府はそれ以降、皇位継承には関与しないとした。

文保の和談の後に、大覚寺統から即位した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は父の後宇多上皇の院政を排して親政を敷いた。後醍醐天皇は平安時代の延喜・天暦の時代を天皇による親政が行われた理想的な時代と考えていた。そして、当時の最新学説であった宋学(朱子学)が君臣の別を説いていた(大義名分論)こともあって、天皇は幕府政治に不満を抱いていた。

御内人の専横

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元寇や貨幣経済の浸透は御家人たちの窮乏を加速させた。これに対して、幕府は得宗専制を強化して幕府の指導力を高めることで対処しようとした。しかし、これによって御家人たちは幕政から排除されてしまった。

また、若くして死去する得宗が相次ぎ[2]、若年で得宗になる者も多くなった。そのため、得宗被官にすぎなかった御内人が幕府政務の処理にも大きくかかわるようになる。また、得宗家以外の北条一族の発言力も大きくなり、得宗の地位さえも形骸化しつつあった。

9代目得宗(14代執権)の北条高時(ほうじょうたかとき)の頃には、政治を内管領の長崎高資(たかすけ)とその父・長崎高綱(円喜)が担っていた。長崎親子を中心とする御内人の権勢は絶大なものとなり、御家人らの不満が高まっていた。

幕府は御家人たちの支持を失いつつあった上、新たな流通や産業を基盤とした新興武士らを中心とした悪党の活動も活発化していた。幕府は悪党への対応にも追われ、ますます混乱していった。

後醍醐天皇の挙兵

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こうした状況を見て、後醍醐天皇は討幕の動きを進める。1324年には天皇と側近の日野資朝(すけとも)俊基(としもと)らが、畿内の武士と僧兵を味方につけて六波羅探題を襲撃する計画を謀議するものの、この計画は露見してしまう(正中の変)。しかし、このときの幕府の対応は日野資朝を佐渡への流罪に処しただけで、俊基は許され後醍醐天皇も責任を問われなかった。

しかし、後醍醐天皇は討幕をあきらめてはいなかった。護良(もりよし/もりなが)親王・宗良(むねよし/むねなが)親王を比叡山の長である天台座主とし、僧兵の力を取り込もうとした。また、正中の変で許された日野俊基は山伏に変装し、畿内の武士をまとめようと試みた。

鎌倉炎上

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  1. ^ 大覚寺統は八条院領とよばれる220の荘園群を、持明院統は長講堂領とよばれる180もの荘園群を獲得した。こうした多くの荘園の相続も両統の対立の原因でもあった。
  2. ^ 7代時宗は32歳、8代時貞は39歳で没した。