高等学校歴史総合/もっと知りたい ユダヤ人のパレスチナ移住とパレスチナ分割

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パレスチナの歴史[編集]

 現在、世界各地で起きている紛争は、宗教や民族の違いによって、頻繁に発生しています。しかし、多くの場合、近代に入ってからの歴史的変化が紛争の直接的な原因になっています。パレスチナ問題もその1つです。

 パレスチナは、地中海の東側に位置します。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの一神教の聖地として知られています。特に有名なのは、パレスチナの中央に位置する都市エルサレムです。ユダヤ教徒にとっては、イスラエルの旧首都として、キリスト教徒にとっては、イエスが死刑になった後によみがえった場所として知られています。また、イスラム教徒は、預言者ムハンマドが聖地メッカからエルサレムまでペガサスに乗って旅をしたという話を信じています。

 古くから、パレスチナでは様々な勢力が入れ替わりながら栄えてきました。紀元前1世紀から7世紀まではローマ帝国が支配していました。その後、イスラム王朝に支配されました。そこに住んでいたのはほとんどがイスラム教徒です。キリスト教徒やユダヤ教徒はごくわずかしか残らなかったにもかかわらず、みんな助け合いながら暮らしていました。しかし、近代から、こうしたつながりが途切れてしまっています。

ユダヤ人のシオニズム運動[編集]

 19世紀、ヨーロッパ各地のユダヤ人が集まってシオニズム運動を始めました。ユダヤ人は、当時流行していたナショナリズム思想に影響を受けていました。ユダヤ人は、自分達の「祖国」パレスチナを、ユダヤ人の国民国家にしようと考えました。しかし、当時のパレスチナはオスマン帝国の一部なので、そこにユダヤ人国家の建国は困難でした。

 第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北すると、シオニズム運動にとって大きな機会が訪れます。第一次世界大戦中、シオニズム運動はイギリス政府に働きかけました。イギリス政府は、ユダヤ人がパレスチナに「民族的郷土」をつくるのを助けると約束しました。第一次世界大戦後、イギリスとフランスは中東地域を分けました。この時、「パレスチナ委任統治領」を設置しました。

 しかし、当時パレスチナに住んでいた人々のうち、ユダヤ人は全体の1割以下でした。そのため、世界中のユダヤ人が移住していき、特に1933年にドイツでナチ党が結党されると、ユダヤ人移民が急に増えました。

 移民の増加が急激に進むと、パレスチナに住んでいたアラブ人は危機感を抱くようになりました。1929年にアラブ人とユダヤ人が大喧嘩をして、「嘆きの壁事件」とよばれるようになりました。1936年になると、イギリス委任統治当局にユダヤ人移民をすぐにでも止めさせたいアラブ人は、ストライキなどの実力行使に出ました。

 第二次世界大戦後、イギリスは事態の収拾を諦めて、問題解決を国際連合に委ねました。1947年11月、「パレスチナ分割決議」が採択されました。パレスチナ分割決議は、パレスチナをアラブ人国家、ユダヤ人国家、そしてエルサレムを含む国連が運営する地域の3つに分けるという内容でした。これが、現在も続くパレスチナ問題の始まりです。