高等学校歴史総合/もっと知りたい 中東の少数派クルド人
小学校・中学校・高等学校の学習>高等学校の学習>高等学校地理歴史>高等学校歴史総合>もっと知りたい 中東の少数派クルド人
国民国家思想の広がりとその結果
[編集]昔の人類は様々な文化や言語を持っても、同じように受け入れられました。しかし、約200年前のヨーロッパから同じ文化と同じ民族で国家も作らなくてはならない考え方が生まれました。世界中にこの考え方を広めると、違う文化と違う民族が国内で浮きました。例えば、中東諸国は、違う宗教でも異民族でも同じ国で仲良く暮らしていましたが、この考え方から違う文化と違う民族が苦しい思いをしました。アジア諸国でも同じように、隣国と同じような文化を持っていても文化的な繋がりを大切にしてきました。しかし、この考え方から自国民に無理やり合わせようとしました。
クルディスタン地域の歴史と自治
[編集]
数多くのクルド人は中東地域(トルコ・イラン・イラク・シリアなど)に住んでいます。クルド人は独自の言葉と文化を持っていても、自国を持てません。クルド人は全世界で3000万人以上います。クルド人の民族問題は20世紀初めからあります。第一次世界大戦後のセーヴル条約は、クルド人の独立国家を立ち上げるような内容も示されましたが、ローザンヌ条約でその内容もなくなりました。その結果、各国のクルド人は様々な方法から権利を求めてきました。特に、イラク北部のクルディスタン地域は長い内戦から自治権を手に入れています。クルディスタン民主党とイラク政府の間で自治協定が1970年代に結ばれても、キルクーク地域で揉めて、完全に実現していません。イラク政府はアンファール作戦をイラン・イラク戦争の時に行いました。アンファール作戦で多数のクルド人が亡くなりました。この作戦は世界中から批判を受けました。湾岸戦争後、クルド人がイラク北部で立ち上がりました。しかし、フセイン政権がこのデモに対して反撃しました。その結果、数多くの難民も出ました。これを受けて、国際連合の安全保障理事会加盟国(アメリカ・イギリス・フランス)がイラク北部飛行禁止区域を定めました。クルド人はイラク北部飛行禁止区域の後ろ盾から自治政府を作りました。イラク戦争後、イラクは連邦制国家になりました。イラク共和国が新しい憲法を定めると、クルディスタン地域も正式に認められました。現在のクルディスタン地域はクルディスタン地域議会とクルディスタン地域政府を持ち、外交政策とか経済政策とかもある程度自由に決められるようになっています。