高等学校歴史総合/もっと知りたい 中東の少数派クルド人

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国民国家の中の少数派[編集]

 近代に入ってから、ヨーロッパで始まったナショナリズムの思想は世界中に広がり、各地で国民国家が建設されました。少数派は、そのために同化や差別、時には迫害を強いられていました。国家は似た者同士で構成されなければならないという考え方は、すぐに広まりました。近代の日本でも、領土の拡大とともに、様々な言語や文化を持つ人々が国内に集められました。日本語教育や日本人に近づけるように強制された政策は、誰でも知っています。

 中東では、古くから異なる民族や宗教が出入りしていました。中東でも、19世紀以降、少数民族を多数派に近づけるための政策がとられるようになりました。特に、第一次世界大戦後、各地で起こった強制的な国家統一によって、こうした少数派に対して厳しい同化政策がとられました。

クルド人問題の展開[編集]

クルド人

 クルド人は人口が多く、トルコ、イラク、イラン、シリアの国境付近に住んでいます。これらの国々で、クルド人はひどい扱いを受け、弾圧を受けてきました。それでもクルド人は立ち上がり、自分達の自治と権利を求めてきました。そのため、クルド人問題は、パレスチナ問題と並んで、中東で深刻な民族問題の一つとして注目されています。

 例えば、イラクは第一次世界大戦後、イギリスが中東を分割して作った国で、アラブ系住民が人口の大半を占めています。1960年代になるとクルド人が独立を求めて激しい戦闘を始めます。1970年3月、ようやくイラク政府に自治権の付与を認めさせました。しかし、クルド人居住地域にある油田を自治区に含めるかどうかで、クルド人と中央政府の意見が一致せず、再び紛争が急速に始まりました。

 その後、1988年のイラン・イラク戦争末期、イラクのサッダーム・フセイン大統領は、クルド人の運動を止めようと化学兵器を使用したため、大勢の犠牲者を出してしまいました。この出来事は、「クルドの広島」として記憶に残りました。

 1991年3月、湾岸戦争でサッダーム・フセイン政権が弱体化したため、大勢のクルド人が立ち上がり、クルド地域の主要都市を乗っ取りました。しかし、政府軍はすぐにこの反乱を収束させ、大勢の難民が近隣諸国に逃げ、国内でも大勢の難民が移動するようになりました。このように、国内の避難民を最初に助けたのが、国連難民高等弁務官として勤務を開始したばかりの緒方貞子でした。

 その直後、多国籍軍の協力でイラク北部にクルド人政府が作られ、独自に運営されるようになりました。また、2003年のイラク戦争でサッダーム・フセイン政権が倒れると、イラクは正式な連邦国家となりました。これによって、クルド人地域は大きな自由を手に入れました。