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高等学校歴史総合/もっと知りたい 琉球と蝦夷地

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近世の日本と琉球、蝦夷地[編集]

 「琉球」「蝦夷地」は、近世の日本では「異国」「異域」として考えられていました。薩摩藩は琉球王国との関係を、松前藩は蝦夷地との関係を担当しました。江戸幕府は、異民族や異国を「抑える」ための軍役(防備を固める義務)と引き換えに、彼らに通商特権を与えました。

琉球王国から沖縄県へ[編集]

 19世紀に入ると、外国の船が琉球付近に現れるようになり、特にアヘン戦争後にやってきたフランス船は、琉球王国との取引を希望していました。また、マシュー・ペリーが日本にやってきた頃、彼は琉球に行き、友好通商条約を結びたいと頼みました。これがきっかけとなり、1854年に琉球とアメリカは修好条約を結びました。この時、琉球は清の年号を利用しても構わないという条約だったため、琉球が日本と清の「二重所属」になっていても、幕府としては問題になりませんでした。

 しかし、明治新政府になると、「二重所属」をやめて、日本政府の単独運営にするための作業が始まりました。まず、1872年、琉球王国の王であった尚泰が琉球藩王となりました。その結果、彼は貴族となり、外務省が外交権を担当するようになりました。また、1875年には清国への朝貢をやめて、中国の福州にあった琉球館を廃止しました。琉球士族は日本への一方的な併合に反対していましたが、1879年に廃藩置県=「琉球処分」が行われ、沖縄県が作られました。

 「琉球処分」の結果、琉球諸島の所有者をめぐって清との間に対立が生まれました。この対立は、日清戦争まで続きました。日清戦争は、台湾を日本に渡して平和的に終わりました。この間、明治政府は、琉球の古い制度をそのまま残す「旧慣温存」政策から、日本に溶け込む同化政策に少しずつ切り替えていきました。

蝦夷地の支配とアイヌ[編集]

 一方、18世紀末からロシア帝国が徐々に南下して、蝦夷地支配を強めると、江戸幕府はそれまでの北方政策を変更しました。1802年、東蝦夷地は直轄地となりました。1807年には、松前と蝦夷地全域が直轄地となりました。「同化主義」(内国化)が推し進められ、日本の風習に近い形に無理やり変えようとしました。1821年まで、蝦夷地は江戸幕府の直轄地でした。

 マシュー・ペリーが長崎に着いてからしばらくして、ロシアのエフィム・プチャーチンが長崎に着きました。1855年、日露和親条約が結ばれました。日露和親条約で1855年に日本とロシアの国境が決まると、幕府は北方防衛を強化して、蝦夷地の実権を握るために、再び直轄支配を行うようになりました。それまでの直轄化に比べて、内国化はさらに進められました。

 明治維新後も、北海道開拓使はこの政策を継続しました。アイヌは一般住民の一部とされ、その伝統的な習慣は禁止されました。北海道に対する日本の支配が強まる中、1875年に締結された樺太・千島交換条約によって、北方の国境が定められ、近代的な領土主権が定められました。

 この条約によって、樺太と北千島のアイヌの人達は、日本とロシアのうちどちらかに所属しなければなりませんでした。北海道に移住した樺太アイヌは、石狩川流域の対雁に強制移住させられました。石狩川流域の対雁では、農耕に適応出来ず、やがて天然痘やコレラで人口の半分が亡くなるなど、大きな犠牲を払いました。