高等学校歴史総合/もっと知りたい 近代の博覧会

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日本と博覧会の出会い[編集]

 みなさんは、博覧会に行かれましたか?

 万国博覧会は、18世紀にヨーロッパで始まりました。様々な製品や文化財、学術的な成果を披露して紹介する場所でした。19世紀になると、世界各地で万国博覧会(万博)が開催されるようになりました。1851年、イギリスのロンドンで第1回万国博覧会が開催されました。1862年、第2回ロンドン万博に日本が初めて参加しました。江戸時代末期なので、日本は国として不参加でしたが、初代駐日英国公使ラザフォード・オールコック氏が日本で収集した漆器や和紙などの工芸品や日用品が展示され、注目を浴びました。

 1873年、明治政府の主導で、日本は初めてウィーン万国博覧会に公式参加しました。日本は輸出と貿易の促進を図るため、ヨーロッパでは見られない伝統工芸品や植物を数多く展示しました。会場には神社や日本庭園が造られ、日本独自の文化を紹介しながら、ヨーロッパに「日本趣味」を広めました。その後、日本も自国の産業を紹介するために、内国勧業博覧会を開催するようになりました。

博覧会と帝国主義[編集]

 欧米諸国の植民地産品は、近代の万国博覧会でも展示されました。ロンドンの第1回万国博覧会では、世界各地のイギリス植民地からの珍しい展示物が、自国の商品と勘違いされました。1889年の第4回パリ万博では、フランスの植民地の原住民が、当時流行した動物園や植物園と同じように、学術研究の名目で「展示」されました。彼らは家族として連れてこられ、地元の村のような部屋で数か月間、強制的に生活させられました。

 日本もやがて、この植民地展示と「人間の展示」という人種差別的な考え方に共感するようになりました。万国博覧会の歴史を振り返ると、西洋から初めて「見られた」日本は、「文明国」だからこそ「未開」なものを「見る」力をつけていきました。1903年、大阪で開催された第5回内国勧業博覧会では、かつて日本の植民地だった台湾の文化財を展示する「台湾館」が建てられました。その場外には、沖縄、アイヌ、朝鮮、清、台湾、東南アジアなどの人々を「展示」する「学問人類館」が設置されました。この計画が報道されると、清の学生などから批判や抗議の声が上がりました。開館後も沖縄や韓国から強い抗議があり、一部の展示は中止しなければなりませんでした。しかし、展示館自体は閉鎖されず、「展示」された人達は、他の「原始民族」の人たちと同じ扱いを受けたとして、抗議してきました。差別は、ご覧のようにいろいろな形で起こりました。

 第二次世界大戦前、植民地時代の展示会は世界中でよく行われていました。博覧会は、植民地支配国がいかに裕福で、植民地より優れているかを見せ、帝国主義を正当化するための手段となりました。