高等学校歴史総合/アジアの民族運動

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 ウッドロウ・ウィルソンの十四か条は、民族自決の原則を打ち出して、第一次世界大戦後の世界中で民族運動を大きく後押ししました。しかし、それが必ずしも「独立」や「解放」に繋がりませんでした。アジア各地の民族は、どのように独立を目指して活動したのでしょうか?

アジアの経済成長[編集]

 日露戦争は1880年代から始まりました。日本は日露戦争に勝利して、近代工業を発展させました。こうした動きは、ヨーロッパの進出に苦しむ地域の人々に希望を与えました。第一次世界大戦中、欧米諸国はヨーロッパ向けの軍需品を中心に作り、中国やインドは民族資本を受けて、工業製品を多く作っていました。このようなアジア各地の経済成長は、さらなる民族運動の舞台となりました。

東アジアの民族運動[編集]

 朝鮮半島は、日本に占領されていました。第一次世界大戦後、ロシア革命やウッドロウ・ウィルソンの「十四か条の民族自決」に影響を受けた国民がいました。1919年3月1日、京城(現在のソウル)で独立宣言をして、「独立万歳」と叫ぶ大規模なデモを行いました。日本政府はこの集会を妨害しました(三・一独立運動)。日本は、二十一か条の要求で、山東省のドイツ利権継承・関東州の租借期限延長・南満州鉄道沿線の権益期限延長などを要求しました。また、中国は、第一次世界大戦で連合国に参加したため、大戦中に日本が強要した二十一か条の要求をパリ講和会議で破棄するように求めました。しかし、受け入れられず、1919年5月4日、北京の大学生達が反日運動(五・四運動)を開始しました。五・四運動は全国に広がりました。孫文は1919年に中国国民党を結成しました。同時に、革命派が中国共産党に合流して、改革のために闘うようになりました。

インド・東南アジア・西アジアの民族運動[編集]

 第一次世界大戦中、イギリス領インドから多くの兵士が戦いに行きました。なぜなら、もっと自由が欲しかったからです。兵士達は武器と戦費を支給されました。しかし、第一次世界大戦後、イギリスはある程度の自由と引き換えに、ローラット法を成立させて、インド人が政治に参加出来なくしました。一方、国民会議派のマハトマ・ガンディーは、非暴力・不服従運動を開始しました。非暴力・不服従運動は、インド全土のあらゆる宗教・社会階層の人々を巻き込む運動へと発展しました。1930年、マハトマ・ガンディーの塩の行進をきっかけに、反英運動が高まりました。これを受けて、イギリスは英印円卓会議を開催しました。1935年、インド統治法が制定されました。しかし、インド統治法は地方に自由を与えただけでした。

 東南アジアのオランダ領東インド(現インドネシア)では、1920年にインドネシア共産党が、1927年にスカルノがインドネシア国民党を立ち上げています。しかし、両党とも弾圧されました。1930年、フランス領インドシナでは、インドシナ共産党を立ち上げました。ホー・チ・ミンらは労働者や農民の力を借りて、独立運動を始めました。

 イギリスとフランスは敗戦したオスマン帝国の大半を占領しました。しかし、ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、トルコ人が多く住むアナトリアを中心に抵抗運動を展開しました。その後、トルコ民族主義に基づくトルコ共和国を建国しました。ムスタファ・ケマル・アタテュルク大統領は、教会と国家の分離・文字の書き方の変更・女性の地位向上などの改革を推進しました。