コンテンツにスキップ

高等学校歴史総合/アジア太平洋戦争

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
小学校・中学校・高等学校の学習>高等学校の学習>高等学校地理歴史>高等学校歴史総合>アジア太平洋戦争

日米交渉の挫折と開戦

[編集]

1920年代から、アメリカは太平洋地域の国際問題を解決しようとしていました。日本が中国大陸へ攻めると、蒋介石側の中国政府を助けました。アメリカは平和的な解決案として、4つの条件を出してきました。例えば、お互いの国の領土を大切にするとか、どの国も平等に経済活動が出来るようにするとかです。しかし、これらの条件は日本の考え方と全く違いました。なぜなら、日本は満州国を手放したくなかったからです。また、日本は東アジアで最も強い国家になろうとしていたからです。

第二次世界大戦が始まると、資源を手に入れるために東南アジアに進もうとしました。これがきっかけでアメリカと日本の仲が悪くなりました。1941年、日本軍がフランス領インドシナ南部に進むと、日本への石油輸出を全て止めました。その結果、日本は1941年12月8日に真珠湾を攻撃して、連合国と戦争を始めました。最初、この戦争は太平洋戦争と呼ばれていました。しかし、最近は戦場の広さからアジア太平洋戦争と呼ぶ人も増えています。

日本のアジア支配

[編集]

日本はアジア諸国で助け合って暮らしていくような団体を作ろうと考えました(大東亜共栄圏)。東南アジアの一部の指導者は、この考えに賛成してくれました。日本はそのような綺麗な話で済ましていません。日本は現地の国民に自国の言葉を禁止したり、日本の神社にお参りを強制したり、現地の食べ物も日用品も取り上げました。加えて、現地の国民に労働者を強制的に集めました。さらに、日本は朝鮮と台湾を植民地のままにしました。日本は両地域の住民を「日本人」として戦争に参加させました。結局、日本は「アジアを自由にします!」と伝えても、嘘の行動を取っています。

戦争の被害と加害

[編集]

日本軍は1943年からアメリカ軍に何度も負けました。1945年8月、アメリカは広島と長崎に原子爆弾を落としました。その後、ソビエト連邦も戦争に加わり、満州や北方領土などを奪いました。その結果、日本はポツダム宣言を受け入れて、戦争をやめました。

日本は理想の未来を掲げて戦争を始めました。その結果、2つの深い悲しみを生みました。第一に、日本軍がアジア諸国の国民に被害を与えました。多くの人命が失われ、建物も破壊されました。それだけでなく、一部の人々は家族と離れ離れになり、心身の傷に苦しみました。その苦しみは今でも続いています。第二に、日本人への被害です。戦争末期に日本も大きな被害を受けました。しかし、日本人がアジア人に何をしたのか、はっきりと分からなくなりました。