高等学校歴史総合/アジア太平洋戦争

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 中国との戦争が長引くと、日本はアメリカやイギリスと戦争を始め、戦闘はアジア・太平洋地域にまで広がりました。一方、東南アジアの人々は、戦前から独立を求めていました。戦後、アジアに何が残りましたか?

日米交渉の挫折と開戦[編集]

 1920年代以降、アメリカはワシントン体制でアジア太平洋地域の秩序を維持しようとしました。日本の中国大陸への勢力拡大を防ぎ、日中戦争では中国の国民政府を支援しました。アメリカが日本に提示した和平交渉の条件は、領土と主権の尊重・内政不干渉・通商上の機会均等・平和的方法以外で太平洋秩序の不変更という四原則を守らなければならないとしました。このような和平交渉の条件は、満州国を含む中国大陸の利権を守り、独自の経済圏を築こうとする日本の計画とは合いませんでした。

 日中戦争が長引き、1939年に第二次世界大戦が始まると、日本は資源の豊富な東南アジアに戦線拡大しようとしました。一方、これはワシントン体制への挑戦なので、アメリカとの関係はさらに悪化してしまいます。日本が北方領土の脅威から日ソ中立条約を結ぶと、1941年、フランス領インドシナ南部に軍隊を送り込みました。これを受けて、アメリカは日本に対して石油の全面禁輸を行いました。日本はアメリカとの話し合いを諦め、1941年12月8日、ハワイの真珠湾を攻撃すると、アメリカ・イギリスとの戦争が始まりました。第二次世界大戦後、この戦争は太平洋戦争と呼ばれました。しかし、東南アジア・太平洋地域・中国を巻き込んでいるため、近年は、アジア太平洋戦争ともいわれています。

日本のアジア支配[編集]

 開戦後、日本は太平洋に勢力圏を広げていきました。また、アジアを欧米の支配から解放する方法として、「大東亜共栄圏」を築く考えをまとめました。欧米の植民地支配に対抗していた東南アジアの国々は、これを独立の機会と考え、日本に協力する指導者もいました。しかし、日本の占領地域では、日本語の使用や神社の参拝を強制されました。また、強制的に働かされ、輸出などもされました。南洋諸島では、現地の文化も考慮されませんでした。日本はアジアの解放を目指しましたが、植民地の朝鮮や台湾の独立を認めなかったので、それらの地域の人々は「日本人」として戦争に参加しました。

戦争の被害と加害[編集]

 1943年以降、日本軍はアメリカ軍の攻勢に負けてばかりでした。1945年8月、アメリカは広島市と長崎市に原爆を投下しました。本土空襲・沖縄戦という激しい地上戦の後でした。一方、ソ連は中立条約を破って参戦しました。満州・南樺太・千島列島は全てソ連に占領されました。現在の北方領土問題は、国後島・択捉島・色丹島・北方四島を占領されてから始まっています。このような状況を受けて、日本はポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏しました。これで戦争は終わりました。

 日本は自らの考えで、アジアや敵国の人々を傷つけました。日本国民も、特に戦争末期には多くの苦しみを味わいました。そのため、アジアに対する「加害性」が中々見えませんでした。植民地・占領地・戦場では、アジア諸地域の人的被害や物的被害が深刻化しました。また、戦後は人体の損傷・戦争による精神的被害・家族との別れなどから、多くの人が長く辛い生活を送りました。