高等学校歴史総合/ウィーン体制とその崩壊

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ウィーン体制[編集]

ナポレオン失脚後のヨーロッパで、今後の国際政治を話し合うため、オーストリアの外相メッテルニヒの主導によりウィーン会議が開かれた。そしてフランス革命前の状態にもどすことが「正統主義」とされた。その結果、フランスではブルボン王家が復活し、王政が復活した。スペインでも王政が復活した。

こうしてヨーロッパでは、王政は素晴らしいものだという価値観が、国際政治では有力になる、また、ヨーロッパ諸国は協調体制になった。

ナポレオン失脚後のヨーロッパの、ウィーン会議などにもとづく、このような国際体制をウィーン体制という。

国際協調のため、ヨーロッパ各国ではナポレオン戦争中の各国で湧き上がった愛国心(ナショナリズム)や自由主義などは、各国で、おさえつけられるようになった。しかし庶民などにとっては、このような不自由で、中世に逆戻りしたかのような国際体制が気にいらず、庶民には不満がくすぶっていた。

勢力均衡

また、対仏大同盟をもとに新たな同盟の四国同盟が組まれ、四国同盟の加盟国はイギリス、ロシア、プロイセン、オーストリアである。

ウィーン体制の崩壊[編集]

しかし1830年、市民が放棄。

ルイ=フィリップを国王にした(七月革命)。しかし1848年にルイ=フィリップを退位させた(二月革命)。

そして第2共和政。

成年男子の普通選挙。