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高等学校歴史総合/国民統合とナショナリズム

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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 欧米では、19世紀に立憲主義によって国民国家が台頭してきました。しかし、各国で様々な政治運動が展開されるとともに、国民国家とは何かをもっと知りたいと思う動きもありました。それぞれの国民国家が抱えていた問題をどのように解決しようとしたのでしょうか。

19世紀前半のヨーロッパ諸国

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民衆を導く自由の女神

 ナポレオン戦争の後、ヨーロッパでは新しい国際秩序(ウィーン体制)が成立しました。ウィーン体制は、大国間の協力に基づく内容となっており、各国の領土や支配体制はフランス革命以前の状態に戻っていました。しかし、各地のナショナリズムや自由主義運動が国民国家の結成を後押ししました。小国に分かれていたイタリアやドイツは統一国家を求め、ロシアやオスマン帝国の諸民族は独立運動を始めました。フランスでは1830年に民衆が王の支配に反抗して(7月革命)、1848年には共和制を敷きました(2月革命)。それがヨーロッパ全土に影響を与えて、「諸民族の春」と呼ばれる革命が続きました。結局は鎮圧されましたが、自由と独立を求める民衆の声を無視出来なくなりました。

ドイツの統一

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 ドイツ北東部のプロイセン王国の首相を務めたオットー・フォン・ビスマルクは、軍事力を使ってドイツ全土をまとめようと考えていました(鉄血政策)。普仏戦争は、強力な軍隊を持つプロイセンが勝利しました。1871年、プロイセン王は立憲君主制であるドイツ帝国の初代皇帝となりました。オットー・フォン・ビスマルクは帝国首相として、ドイツ語を話す人々の同胞意識に基づく国民国家の建設に取り組みました。

オスマン帝国における民族運動

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 イスラーム教のトルコ系戦士を中心としたオスマン1世は、13世紀後半にアナトリアでオスマン帝国を建国しました。その後、15世紀半ばにイスタンブールを制圧して首都としました。1600年代の最盛期には、アジア、アフリカ、ヨーロッパを含む広範囲に渡って支配しました。イスラーム教の最重要都市メッカとメディナを支配しました。オスマン帝国では、イスラーム教徒(イスラーム教徒)が政治を行っていましたが、様々な宗教・民族が緩やかに共存していました。しかし、民族運動は、ナショナリズムと西洋からの妨害によって、ますます活発になっていきました。これを受けて、オスマン帝国政府は欧米列強に対抗するため、近代化・改革を進めました。同時に、非イスラムイスラーム律で平等に扱われるように、国をまとめようとしました。

アメリカ合衆国の発展と南北戦争

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 19世紀前半、アメリカは西へ西へと領土を拡大しながら、太平洋岸にたどり着きました。しかし、時代が進むにつれて、貿易政策や奴隷制度をめぐり、南北の対立が深まっていきました。北部では商工業が発展する一方、南部では産業革命後の綿花の需要に応えるため、黒人奴隷が綿花農園で働くようになりました。1861年、奴隷制度に反対する共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領になると、南部の各州は連邦から離脱してアメリカ連合国を結成しました。これが南北戦争の始まりです。1863年、エイブラハム・リンカーンは奴隷解放宣言を発表して、国内はもちろん、世界中の人々の支持を集めました。1865年、戦争は北軍が勝利して終わりました。

 南北戦争では、60万人以上が死亡して、アメリカ史上最悪の出来事でした。その後、連邦政府は国民統合を進めました。1869年には初の大陸横断鉄道が開通すると、中国や東ヨーロッパから来た人々によって経済が発展しました。しかし、奴隷制度廃止後も、南部では人種差別が進み、黒人はしばしば選挙権を奪われました。