高等学校歴史総合/ファシズムの台頭
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貧しい人々は、理想を語り、それを実現するファシスト政党に引き寄せられました。どうして民衆がファシズムの原動力となったのでしょうか。
ファシズム
[編集]第一次世界大戦後、列強諸国ではより多くの人が選挙権を手にするようになりました。また、第一次世界大戦で疲弊した地域では社会主義運動が盛んになりました。ドイツではヴァイマル憲法が制定されて、社会権が明確に定められ、民主化を進めました。イタリアでは、特に北部を中心にストライキなどの労働運動が盛んになりました。こうした変化に危機感を抱いた保守勢力は、暴力によって国内の政治改革を進めるとともに、国民の自由と民主主義を制限しました。また、軍備を拡大しながら、他国を侵略して、自国を中心とした経済圏をつくろうとしました。ファシズムとは、このような動きに伴う全体主義的な独裁体制です。ソ連のヨシフ・スターリンによる独裁政治も全体主義の一つという考え方もあります。イタリアでは、1922年にファシスト党が政権を握りました。労働者の台頭を恐れた地主や軍部がそれを支持しました。ベニート・ムッソリーニの指導により、各地の社会主義運動は暴力で鎮圧されました。また、ドイツでは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の活動が始まりました。こうした動きは、欧米諸国をはじめ、日本でも軍部や一部の政治家、社会運動家などに影響を与えるようになりました。
ナチ党の政権掌握
[編集]※詳しい内容は、「世界史探究」の「世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅲ」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。
アドルフ・ヒトラーは、ナチ党の指導者となりました。アドルフ・ヒトラーは、さらに信者を増やすために、様々なメディアを通じてプロパガンダを広めて、巧みな演説を行いました。プロパガンダでは、少数者に対して、指導者の思想などを強制させます。その結果、仲間意識が働いて、大勢の人と同じように行動するようになります。世界恐慌が発生すると、ドイツ経済は再び不況になりました。アドルフ・ヒトラーは1930年の国会議員選挙で知名度を上げて、1933年1月、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領がついにアドルフ・ヒトラーを首相に選びました。組閣後、すぐに議会を解散しました。選挙運動中に、アドルフ・ヒトラーは国会議事堂放火事件を理由として、ナチ党の対抗勢力となる共産党を追い出しました。アドルフ・ヒトラーは、3月に開かれた国会で、ナチ党の議席数を大幅に増やしました。その後、国会に対して、国会に代わって法律を制定する権限(全権委任法)を承認させました。その結果、独裁的な権力を手に入れました。1934年にパウル・フォン・ヒンデンブルグが亡くなり、アドルフ・ヒトラーが総統として国家元首に就任しました。一方、民衆はアドルフ・ヒトラーのやり方が気に入らないのに、ナチ党からの暴力を恐れて、文句や行動も出来ない状態でした。アドルフ・ヒトラーは「ドイツ人の生存圏」を主張して、ドイツ人のナショナリズムとアイデンティティを高めました。これが、ユダヤ人を追い出す理由となりました。