高等学校歴史総合/世界市場の形成とイギリスによるアジア進出

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 産業革命は19世紀から始まり、国際貿易はイギリスを中心に発展しました。また、世界中の企業が協力して仕事をするようになりました。産業革命によって、欧米やアジア各国の交流はどのように変化したのでしょうか。

イギリスによる世界市場の形成[編集]

 産業革命の結果、イギリスは世界金融の中心地となりました。「世界の工場」「世界の銀行」と呼ばれ、高品質で安価な製品を大量生産して世界中に輸出しました。様々な意味で、イギリスは他国よりも経済的に恵まれていました。一方、他国は自国の産業を成長させようとしながら、イギリス商品の流入を防ごうとしました。イギリスは、国内外を問わず関税や貿易制限を問題視したため、経済上の自由主義が推進されました。19世紀中頃までに、フランス・ベルギー・ドイツ・アメリカなどで資本主義が採用されました。産業革命の頃に、ロシアや日本も資本主義が採用されました。

 19世紀中頃、産業革命が各国に広がり、イギリスを中心とした世界経済体制が整備されました。後発資本主義国は、イギリスとその後継者が、東ヨーロッパ・中南米・アジア・アフリカなどを服従させました。その後、製品市場や原料・食料の供給地とするように社会と経済を変化させました。こうして、欧米やイギリスにとって都合の良い世界市場が誕生しました。

イギリスのアジア進出[編集]

 イギリス東インド会社がインドを経営していた頃、イギリス製の安価な綿製品によって、伝統的な手作りの綿織物産業は大きな打撃を受けました。以降、インドの農村では、綿花・藍・ケシなど、海外に売るための作物を育てなければなりませんでした。インドの国民は、イギリスのやり方を嫌って、1857年にインド大反乱を起こしました。イギリス政府はこの反乱を鎮圧すると、東インド会社を解散させ、インドを直接支配するようになりました。1877年、インド帝国はイギリスのヴィクトリア女王に譲渡されました。

香港の歴史
 アヘン戦争のため、香港島はイギリスに占領されました。1898年、九龍半島南部と九龍半島周辺の島々を99年間租借する契約を結びました。1960年代以降、香港はイギリスの貿易・金融・軍事活動の中心地となりました。その結果、香港の経済は急速に発展しました。香港は観光客に人気のある場所となりました。香港島は1997年に租借期限の失効で、中華人民共和国に返還されました。一国二制度の考え方に基づいて、香港は50年間の自治と資本主義体制を、中国は共産党を中心に社会主義経済を築きました。しかし、近年、中国政府は香港に対して統制を強め、香港の住民や学生の民主化運動を鎮圧しています。そのため、一国二制度の考え方が弱まってきています。

 また、イギリスは中国(清)を乗っ取ろうとしました。イギリスは清から茶などを大量に輸入しましたが、輸出が悪かったので、清は茶と引き換えに銀を大量に手に入れました。イギリスは、制限貿易の清と貿易を開放しようとしましたが、断られました。そこで、ケシ製の麻薬アヘンを、インドから中国に密輸しました。また、イギリスからインドへ綿花を送り、清からイギリスへ茶や絹織物を送る三角貿易も整えました。このため、清から多くの銀が流出し、清は金とアヘン中毒に悩みました。清がアヘンの密輸をやめると、イギリスは制限貿易をなくす機会と見ました。1840年、艦隊を組んで清を攻撃しました(アヘン戦争)。イギリスはアヘン戦争の勝利後、1842年、清と南京条約を結びました。1843年、追加条約が結ばれましたが、追加条約も清に不利な条文が含まれていました。その後、清は他の欧米諸国とも不平等条約を結びました。その代償として、香港・広州・上海など5つの港の自由貿易と、多額の賠償金を手に入れました。