高等学校歴史総合/世界恐慌とブロック経済

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世界恐慌[編集]

世界恐慌[編集]

1929年、ニューヨーク株式市場(ウォール街)で株価が大暴落。それをきっかけに、世界で大恐慌が起きた(世界恐慌)。

各国は、金本位制(きん ほんいせい)のもとでは、金の国外流出をまねくため、イギリスをはじめ各国は金本位制から離脱した。

※ 「金本位制」とは、貨幣の価値の裏づけとして、貨幣に金貨(きんか)や地金(ぢがね)への対応を保証すること。

アメリカでは、農産物の価格も暴落した。

日本の昭和恐慌[編集]

昭和恐慌[編集]

日本は、アメリカむけに輸出していた生糸が売れなくなった。日本は、輸出が売れなくなり、日本経済は大打撃を受け、恐慌におちいった(昭和恐慌)。 第一次大戦後に、ヨーロッパ諸国は金本位制から離脱していたが、戦後すぐに復帰した。日本は復帰が遅れ、1930年に金本位制に復帰した。この1930年の日本の金本位制への復帰のことを金解禁という。しかし、恐慌中に日本は金本位制に復帰したせいで、輸出が不振であり、日本から金(きん)が大量に国外流出した。また、金本位制のため円高となり、そのことも輸出の不振の原因となったと考えられる。

また、金本位制から離脱していたあいだの日本はインフレだった。 だが、世界恐慌中に日本は金本位制に復帰したため、日本は強烈なデフレになり、日本は強烈なデフレ不況に陥ってしまった。 金本位制に復帰前の日本の財界は、もし金本位制への復帰すれば外国為替相場が安定するだろうと思っていたが、現実の復帰後の日本経済はデフレ不況となった。


日本でも、アメリカの農産物の暴落と同様、日本の農産物も暴落した。なお、日本では、この世界恐慌の前から、植民地からの農産物の輸入によって、日本の農家の農産物の価格(米価など)は低迷していたが、その上にさらに世界恐慌の影響による農産物価格の暴落をうけて、農業経済は大打撃を受けた。

※ 「米価」は「べいか」と読む。

1930年では日本農業は豊作だったが、豊作のために、農産物価格は低迷し、農村経済は大打撃を受けた。 さらに1931年では東北地方・北海道は凶作であり、欠食児童や農村の子女の身売りなどが社会問題になった。

たとえ工業などの他業種で兼業をしようにも、不況のため兼業への就職先そのものが無かった。逆に、都市の失業者が、故郷などの農村に帰らざるを得なくなり、都市から失業者が農村に帰農してくるほどの不況であった。

このようにして、日本は昭和恐慌におちいった。

1931年に日本は基幹産業保護のために不況カルテルを容認する重要産業統制法を制定した。


金輸出の再禁止[編集]

高橋是清(たかはし これきよ)は、デフレ恐慌が昭和恐慌の正体だということに気付き、そしてその原因が金本位制への復帰だということに気付き、1931年に成立した犬養毅(いぬかい つよし)内閣での蔵相 高橋是清は、組閣直後ただちに金輸出の再禁止をして管理通過制度(かんりつうか せいど)に移行した。これによって外国為替での円相場は下落し、またインフレーションになったが、円安となったため輸出は好調になった。

また、軍需産業や恐慌対策などの予算を増やすことで、産業保護的な経済政策を行った。

そして日本は綿工業を中心として繊維工業で、世界一位となった。イギリスなどからはソーシャル・ダンピングとして批判された。 「ダンピング」とは、まずは無理な安売りによって競争相手をつぶすことで自社のシェアを伸ばすなどで市場を独占・寡占した後に、そのあと価格を釣り上げるなどして暴利を得ること。

なお現代の日本では、独占禁止法などでダンピング商法を禁止している。

ロンドン会議[編集]

世界恐慌の前後と同じころ、1921年のワシントン会議からつづく軍縮の国際的な流れがあり、世界恐慌が1929年に起きたこともあり、各国は財政難のため軍事費を減らす必要性もあって、1930年(昭和5年)にロンドン会議ロンドン海軍軍縮条約に日本をふくむ各国は調印して、このロンドン海軍軍縮条約条約によって補助艦(巡洋艦、駆逐艦、潜水艦)の保有数の制限が行われた。

※ なお、ワシントン会議で制限されたのは、主力艦の保有数である。

しかし日本では、野党や軍部や右翼が、日本政府がロンドン海軍軍縮条約に調印したことを批判し、この政府の行為を、天皇大権(てんのうたいけん)である統帥権(とうすいけん)を犯す統帥権の干犯(とうすいけん)であるとして、政府を避難した。

そして1930年に浜口首相が、東京駅で、右翼青年によって狙撃された。浜口首相は一命は取りとめたが重傷を負い、翌年に退陣し、まもなく死亡した。

アメリカのニューディール[編集]

いっぽうアメリカの経済政策では、1932年にフランクリン=ローズヴェルトが大統領に当選し、ニューディール(新規まき直し、New Deal)と呼ばれる政策を行い、この政策によって公共事業や社会保障的な政策を行った。

また、アメリカでは農産物の価格下落をふせぐため、農業調整法(のうぎょう ちょうせいほう、略称:AAA)を行って農業生産を調整することで、農産物の価格を引き上げた。


ブロック経済[編集]

いっぽう、植民地を多く持つイギリスやフランスは、植民地と本国経済の結びつきを強めてブロック経済を構成し、他地域からの輸入をこばむことで、自国に有利な経済圏を確保することで恐慌を乗り切ろうとした。

フランスのフラン=ブロック、イギリスのスターリング=ブロックが、その例である。

スターリン体制下のソ連[編集]

1921年のソ連の経済は、企業はまだ完全な国有化ではなかった。レーニンは1921年、ソ連国内が落ち着いてきたため、戦時共産主義(第一次世界大戦や、ロシア革命の内戦など)を廃止し、余剰農産物の販売の容認などの、ある程度の自由な経済活動や、部分的な私企業などを認める新経済政策ネップ、NEP)を開始していた。このころはレーニンがソ連を支配していた。

しかし、ソ連は1924年のレーニンの死去のあとに、権力闘争が起き、スターリンが権力をにぎった。そしてソ連は、スターリンの支配のもと、計画経済と社会主義による経済運営がされていた。スターリンは1928年からの第1次五か年計画(ごかねんけいかく)によって、重工業の推進と、農業の集団化とを、強制的に実施していた。

このスターリンの政策は多くの農民に負担をしいるものであり、多くの農民の餓死者が出た。

スターリンは、反対派をつぎつぎと弾圧・投獄・処刑した(粛清)。ソ連の憲法には、さまざまな自由が書かれていたが、実際にはスターリンの独裁政治であった。そして1936年にはスターリン憲法が発布され、共産党の一党独裁が定められた。