高等学校歴史総合/二つの市民革命と近代民主主義社会の成立
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18世紀の終わり頃、アメリカやフランスで起きた革命は、これまでとは違う社会の実現を求めました。革命は、新しい考え方や生き方を広めて、現代の世界にも大きな変化をもたらしています。革命に参加した人逹は、どのような社会を望んでいたのでしょうか?
アメリカ独立革命
[編集]18世紀後半、イギリスはアメリカ東海岸にある13の植民地に対して、増税を行いました。その背景には、フランスとの戦争で発生した財政赤字を解消するためでした。イギリス本国では、議会が国の政治に大きな役割を果たすようになっていました。しかし、植民地は議会に対して、自分達の代表を送りませんでした。植民地は「代表なくして課税なし」と訴えて、1775年に独立戦争を開始しました。1776年7月4日、民主政治の基本的な考え方を示した独立宣言を採択しました。イギリスは、ヨーロッパ諸国が植民地を援助したため、孤立してしまいました。1783年、イギリスは植民地を独立させました。こうして、アメリカ合衆国が建国されました。1787年、アメリカ合衆国憲法が発布されました。アメリカ合衆国憲法は、人民主権と三権分立の考え方に基づいています。その後、ジョージ・ワシントンがアメリカ合衆国初代大統領に就任しました。
フランス革命
[編集]フランスでは、絶対王政ともよばれる君主制が敷かれ、第1身分(聖職者)、第2身分(貴族)は、税金を払わなくてよいなどの特別な特権を手に入れました。しかし、大半の国民からなる第3身分(平民)に政治的権利はありませんでした。旧体制(アンシャン・レジーム)とは、このような社会構造の総称です。
1789年、イギリスとの戦争で国の財政が苦しくなった時、国王ルイ16世は3つの身分の代表からなる小委員会を招集し、特権的身分への税金のかけ方を考えさせました。しかし、この問題で議会の意見は分かれました。その後、国王は、第三身分の者を中心に構成されていた国民議会に圧力をかけていきました。1789年7月14日、怒ったパリ市民がバスティーユ牢獄に突入して、フランス革命が始まりました。1789年8月、国会は人権宣言を採択して、基本的人権、国民主権、私有財産権は侵害されないとしました。1791年には憲法が制定され、1793年には国王が殺害されました。この時点で、国は共和制になりました。
ナポレオンの台頭とヨーロッパ支配
[編集]フランスは共和制の中で、特権をなくし、兵役の義務化を始めるなど、いろいろな改革を行いましたが、政治は不安定でした。国王の処刑や革命の拡大を恐れた各国との戦争が続き、人々が安定を求める中、ナポレオン・ボナパルトという軍人が政権を握りました。ナポレオン・ボナパルトはフランス革命に終止符を打ち、1804年に民法典(ナポレオン・ボナパルト法典)を制定して、革命が成し遂げてきた成果を積み重ねていきました。ナポレオン・ボナパルト法典は、私有財産の安全、誰もが法律で同じように扱われ、人々が自由に取引出来るようにしました。1804年、国民投票により皇帝に選出され、戦争により周辺諸国を次々と服従させて、ヨーロッパの大部分を支配しました(ナポレオン帝国)。しかし、1812年、ロシアの敗戦とフランス支配に対する各地の民族主義の台頭により、1815年にナポレオン・ボナパルトの帝国は崩壊しました。
フランス革命とナポレオン帝国の支配は、ヨーロッパ人に「国民」としての意識を植え付け、誰もが自由と平等を尊重されなければならないという思想を広めました。こうした考え方によって、世界は大きく変わりました。