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高等学校歴史総合/二つの市民革命と近代民主主義社会の成立

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
小学校・中学校・高等学校の学習>高等学校の学習>高等学校地理歴史>高等学校歴史総合>日本の開国とその影響

アメリカ独立革命

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アメリカ独立宣言

かつて、アメリカはイギリスの植民地でした。18世紀後半、イギリスがフランスと戦争すると、お金も足りなくなりました。そこで、イギリスは北アメリカ東海岸の植民地に税金を取りました。しかし、植民地の民衆は「私達の代表がイギリスの議会にいないのに、税金を払うなんて嫌です。」と声を上げて、独立戦争を始めました。1776年7月4日、国民が平等で自由な政治を目指すためにアメリカ独立宣言を出しました。一方、イギリスは世界中の植民地を守り続けようとしました。そのため、イギリスはヨーロッパ諸国から距離を置かれるようになりました。結局、イギリスも1783年にアメリカの独立を認めるようになりました。1787年、国民が主役になり、政治の仕事も上手に分け合って、自分の思い通りに出来なくするためにアメリカ合衆国憲法を作りました。そして、アメリカ合衆国初代大統領にジョージ・ワシントンが選ばれました。

フランス革命

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フランス国王はかつて絶対的な権力を持っており、身分の差もはっきりしていました。聖職者と貴族は特別な立場で、税金に無関係でした。一方、平民は参政権もなく、かなり苦しい生活を送っていました。

1789年、フランスは大きな債務を抱えるようになりました。そこで、フランス国王のルイ16世は聖職者・貴族・平民を集めて三部会を開きました。当時の聖職者と貴族は贅沢をしていました。一方、平民は貧しい生活をしていたので、もう税金を払いたくないと声を上げました。7月14日、パリ市民がバスティーユ監獄を攻撃しました。その後、国民議会は人権宣言を出して、憲法も作りました。1793年、ルイ16世が処刑されて、フランスは共和制になりました(フランス革命)。余談ですが、現在の日本でも一般国民ばかり高い税金を負担して、国会議員・内閣総理大臣の贅沢が目立つため、財務省・厚生労働省・内閣に対してSNSなどで不満の声も頻繁に上がっています。この状況はフランス革命と同じですが暴力を伴いません。フランス革命から考えると、パリ市民は社会を変えるような勇気もかなりありました。一方、今の日本国民は批判するだけで、社会を変えるような勇気をあまり感じません。社会を変えたいなら実際に選挙に行って投票しなければなりません。

ナポレオンの台頭とヨーロッパ支配

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フランス革命後の政治は混乱していたので、国民も不安を抱えるようになりました。そんな中、ナポレオン・ボナパルトが目立つようになりました。1804年、ナポレオン・ボナパルトは民法典を作りました。「国民の持ち物を守らなくてはならない。」とか「誰でも同じように法律を守らなくてはならない。」とか「国民は自由に商売をしても構わない。」などを民法典で定めました。この取り組みは国民から支持されるようになりました。こうして、ナポレオン・ボナパルトはフランス皇帝になりました。その後、ヨーロッパ各地を治めました。しかし、1812年、ロシアを攻めて失敗に終わると、ヨーロッパ各地からナポレオン・ボナパルトに不満を持つようになりました。1815年、ヨーロッパ各地の愛国心が強くなると、ナポレオン帝国もなくなりました。

巧みな自己宣伝家ナポレオン・ボナパルト
ナポレオン・ボナパルトはかなり上手に自己紹介を行いました。自分の軍隊をエジプトに連れて行き、ナポレオン・ボナパルトはピラミッドを見ながら、心に響くような演説を行いました。また、ナポレオン・ボナパルトは有名な画家のジャック=ルイ・ダヴィッドに自画像を描いてもらいました。こうして、ナポレオン・ボナパルトは国民から強い指導者と思われるようになりました。

ドイツの作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンはナポレオン・ボナパルトを「自由の味方だ!」と尊敬しました。その気持ちを込めて交響曲まで作りました。しかし、ナポレオン・ボナパルトが皇帝になると交響曲からナポレオン・ボナパルトの名前を消しました。

フランス革命とかナポレオン帝国の時代から人々は住民から国民と気づき始めました。また、この時期から一人一人の権利も大切にするようになりました。そのため、みんなの意見を大切にするような考えも世界各地に広がりました。