コンテンツにスキップ

高等学校歴史総合/冷戦下の地域紛争

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
小学校・中学校・高等学校の学習>高等学校の学習>高等学校地理歴史>高等学校歴史総合>冷戦下の地域紛争

ベトナム戦争

[編集]

冷戦の時、アメリカとソビエト連邦はアジア諸国とアフリカ諸国に介入して、アメリカとソビエト連邦の代わりに戦わせていました。

1960年代のインドシナ半島の国民は政府に不満を持ち、争い始めました。この内戦にアメリカ軍も参加して、空から焼夷弾を落としたり、地上で現地の人と戦ったりしました。一方、中国・ソビエト連邦は現地の人と一緒になって、アメリカ軍と戦いました。こうして、アメリカ軍は初めて戦いに負けました。また、アメリカ国民も「もう戦争はやめたい。」と声を上げるようになりました。アメリカ軍はインドシナ半島からアメリカに戻りました。ベトナムは社会主義国家として1つにまとまりました。

三派対立から平和構築へ
親米派・共産主義派・国王派がカンボジア国内で21年間も争っていました。その中でも、ポル・ポト政権は100万人以上の国民を殺しました。その後、ベトナムが攻めてくるとポル・ポト政権も終わりを迎えました。内戦の結果、カンボジア国民がタイに逃げました。

カンボジア内戦が終わると、国際連合もカンボジアの平和を守るために動きました。日本も初めて自衛隊を外国に送り、その活動に協力しました。

中東戦争

[編集]

イスラエルはアラブ周辺諸国と戦争して、独立します。その時、アラブ系パレスチナ人はアラブ周辺諸国に逃げました。

1956年、エジプトのガマール・アブドゥル=ナセル大統領が「スエズ運河は自国の所有物です。」と伝えました。これに対して、イギリスとフランスとイスラエルが怒り、エジプトに攻めてきました(第2次中東戦争)。やがて、アメリカとソビエト連邦が介入して失敗に終わりました。結局、ガマール・アブドゥル=ナセル大統領はさらに有名になりました。

第3次中東戦争の結果、イスラエルが、エジプトとシリアとヨルダンに勝ち、パレスチナの土地を全て治めるようになりました。第3次中東戦争でガマール・アブドゥル=ナセル大統領の力が弱まりました。その代わり、パレスチナ人が自国の領土を手に入れるために立ち上がりました。1964年、パレスチナ解放機構(PLO)が出来ました。第3次中東戦争後、世界がパレスチナ解放機構をパレスチナ人の代表として認めるようになりました。

アラブ諸国は1970年代から自国の経済発展を考えるようになりました。特にエジプトは大きく変わりました。1978年、エジプトのアンワル・アッ=サダト大統領はアメリカの助けを借りて、イスラエルと平和な関係を約束しました。しかし、イスラエルはパレスチナにユダヤ人も住まわせました。その結果、パレスチナ問題がさらに複雑になりました。