高等学校歴史総合/冷戦終結後の紛争と平和への取り組み

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 冷戦の終結は、一部の地域に平和と安定をもたらしましたが、新たな紛争も引き起こしました。

冷戦終結後の紛争[編集]

 冷戦終結後、冷戦時代に抑えられた民族や宗教の対立が、内戦や地域紛争という形で再開されました。ユーゴスラビア連邦は、様々な民族で成り立っていました。

 1991年から、連邦をつくっていたそれぞれの共和国が独立を宣言して、連邦の崩壊とともに激しい内戦が起こりました(ユーゴスラビア紛争)。

 西洋列強の帝国主義支配の影響を受けた旧植民地国でも、地域紛争は深刻化しました。パレスチナでは、1987年のパレスチナ人の蜂起(インティファーダ)が和平を推進しました。1993年、イスラエルとパレスチナ解放機構はパレスチナ暫定自治協定を結ぶと、1994年に自治政府を成立させました。しかし、イスラエルは占領地に集落建設を続けており、和平の進め方に不満を持つパレスチナの勢力がますます強まっています。

 冷戦終結後、反グローバリズム、反アメリカを強めた人がいます。その理由は、アメリカ中心のグローバル経済が貧富の差を大きくしたからです。2001年のアメリカ同時多発テロ事件(9.11事件)は、過激な思想や運動が結びついた代表例です。

紛争の解決と国際社会の役割[編集]

 地域紛争を終結させるために、国連決議や平和維持活動(PKO)は非常に重要な役割を果たしてきました。湾岸戦争後、1992年に日本は国連平和維持活動等協力法(PKO協力法)を制定して、自衛隊をカンボジアに派遣しました。また、アメリカ同時多発テロを受けて、テロ対策特別措置法を制定しました。海上自衛隊をインド洋に派遣し、アメリカ軍の後方支援にあたりました。2003年のイラク戦争後には、イラク復興支援特別措置法に基づいて、自衛隊がイラクに派遣されました。

 地域紛争が悪化しても、解決した場合もあります。ネルソン・マンデラは、南アフリカの抵抗運動の指導者ですが、当時の大統領と協力してアパルトヘイトの撤廃に取り組みました。アパルトヘイトを無くした理由は、国連の非難決議や経済制裁といった国際的な圧力が強まる中、黒人住民の抵抗運動があったからです。アパルトヘイト撤廃後、1994年に選挙が行われ、ネルソン・マンデラは大統領に就任しました。

 近年、地域紛争の解決のために非政府組織(NGO)や非営利団体(NPO)がどのような活動をしているのかにも注目が集まっています。また、日本での阪神・淡路大震災や東日本大震災などの災害時には、各国の人々が協力し合って、被災地の人達を助けました。一方で、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の大流行は、国際化された世界で生きる難しさを改めて教えてくれました。世界をより平和にするために、私達全員が何を出来るかが問われています。

アフガニスタンにおける日本のNGO活動
 1979年、ソ連がアフガニスタンに侵攻した時、多くの人が亡くなり、アフガニスタン人の4人に1人が母国を離れなければならなくなりました。その半数、約300万人がパキスタン北西部のペシャワール近郊に避難しました。ソビエトがアフガニスタンから撤退した後、内戦が終わり、多くの難民が故郷に帰りました。しかし、2000年に始まった旱魃によって、深刻な飢饉が発生しました。

 1983年、パキスタンの医療活動を支援するために非政府組織「ペシャワール会」を立ち上げました。このうち、中村哲医師はペシャワール会の現地代表でした。井戸の掘削や灌漑設備の建設を進め、荒れてしまった農地を復活させました。病気の原因は、常に食べ物がなく、栄養状態が悪かったからです。その結果、土地は徐々に息を吹き返しました。しかし、2019年12月、中村哲医師はアフガニスタンのジャララバードで襲撃を受けて、命を落としてしまいました。