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高等学校歴史総合/国際協調体制

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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 詳しい内容は、「世界史探究」の「」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。

ヴェルサイユ体制とワシントン体制

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パリ講和会議の会場

1918年1月、第一次世界大戦の後始末をみんなで話し合うためにパリ講和会議が開かれました。イギリス・フランス・アメリカが中心になって、これからどうやって平和な世界を作っていくか、真剣に考えました。その中でも、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領は十四か条の平和原則を提案しました。十四か条の平和原則からヴェルサイユ条約の原文も出来ました。なぜなら、イギリスとフランスは第一次世界大戦中にかなり辛い思いをしたので、ドイツに対して「もう二度と戦争なんか出来ないように厳しく制限しろ!」とアメリカ側に伝えたからです。例えば、海外の領土を全部取り上げたり、軍隊も制限されたり、賠償金を払わせたりしています。また、ウッドロウ・ウィルソン大統領は「世界の平和のために国際連盟を作りたい。」と提案しました。しかし、ドイツ・ソ連が国際連盟に入れて貰えません。これに対して、アメリカは国際連盟の仲間に入らなくなりました。その結果、新しい世界の仕組み(ヴェルサイユ体制)も、少しずつ崩れるようになりました。

日本は南の島々を手に入れたり、国際連盟でも大事な役割(常任理事国)を貰えたりしました。こうして、日本は世界で注目されるようになりました。それから、アメリカを中心にワシントンで大きな会議を開きました。この会議は、東アジアと太平洋地域の新しいルールを決めました。日本はこの会議で中国の言い分を受け入れて、山東省を中国に返しました(九か国条約)。また、四か国条約を結んで、日英同盟も終わりました。さらに、戦艦(イギリス:アメリカ:日本)の数も5:5:3と決められました。日本はそれでも外交で頑張って、アメリカの関係を悪くしないように気を付けながら、南の島々と満州の権利を守り続けました。しかし、日本人移民がアメリカで差別されるようになり、人種差別禁止を盛り込もうと意見を出しました。この意見に対して、ヨーロッパとアメリカが反対します。その結果、日本はもう欧米諸国と仲良くしたくないと考える人も増えました。

国際協調の高まり

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第一次世界大戦後、各国が「もう戦争はやめてみんなで仲良く付き合っていこう。」と考えるようになりました。その結果、世界の平和を守るために国際連盟が作られました。また、自国と相手国の国境線はきちんと守るように約束させました(ロカルノ条約)。1928年、63か国が「もう戦争で問題を解決しないようにしましょう。」とパリで約束しました(パリ不戦条約)。なお、日本もこの約束に参加しました。

第一次世界大戦が終わっても、列強は自分達の植民地を守り続けました。そして、自国は自国の民族で決めるようになると、新しい国も生まれました(民族自決)。一方、植民地は自国の民族で決めるのを列強から制限されています。各国は自国しか考えていなかったので、中々仲良くなって貰えません。そんな中でも、パリ不戦条約の考え方は、その後もずっと人々の心に残りました。第二次世界大戦が終わってから、植民地の独立と日本国憲法の戦争放棄に繋がっています。