高等学校歴史総合/大衆の政治参加

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 第一次世界大戦前後の世界を見ると、民衆が様々な形で政治に参加していた様子が読み取れます。当時の政治・経済・文化の状況を踏まえて、大衆がどのように政治に参加したのかを考えてみましょう。

世界史上の民衆運動[編集]

 17世紀から19世紀にかけて、欧米諸国では「近代化」が進み、政治的、経済的、社会的地位が変化しました。また、工業化や都市化によって労働問題や社会問題が深刻化しました。そのため、民衆は、時には雇用者に、時には政治家に、自分達の権利を求めるようになりました。選挙権の拡大を求める運動もその一つでした。1832年の第1回選挙法改正の時、選挙権を持つのは全国民の4.6%でした。1918年の第2回選挙法改正では、この数字が50%に上がり、投票がより身近になりました。また、第一次世界大戦後、労働党は大きく活躍します。1924年になると、初めての労働党内閣が自由党と合流して連立政権を結成しました。

 第一次世界大戦で戦争に協力した一国民が、社会的な後押しを受けました。イギリスをはじめとする欧米諸国では、男性普通選挙や女性参政権による議会制政治の発展も認められました。第一次世界大戦中、ロシアで社会主義ソビエト政権が誕生したのも、世界の労働運動を盛り上げました。

大正デモクラシーと大衆の政治参加[編集]

 明治の終わりから大正の初めにかけて、日本の国際的な地位は徐々に強化されて、国民は列強の一員になったと感じ始めていました。政府は教育事業に力を入れ、就学率の向上と学習の質の向上を図りました。1902年になると、学校に行かなければならない人の90%以上が学校に行くようになりました。日本は、経済成長のために熟練労働者や兵士を集めるため、学校教育に力を入れたいと考えていました。また、様々な福祉政策や法整備を進めて、誰もが国家の一員としての自覚を持ってほしいと考えていました。

 一方、憲政擁護運動(護憲運動)は、学校で学んだ内容を利用して、憲法の精神に従いつつ、国民の意見を反映した政治にしようと考えました。これが政党政治の発展につながりました。吉野作造の民本主義の考え方は、多くの人々の心をつかみ、民主政治を実現するための運動につながりました。第一次世界大戦中、経済が好景気になると物価が上がったので、都市に住む民衆は苦しい生活を送るようになりました。賃金よりも物価の方が早く上がり、1918年にシベリア出兵が決まると、商人が買い占めたため、お米の値段が一気に上がりました。そのため、全国で米騒動が起こりました。この混乱の責任をとって内閣が辞めると、初の本格的な政党内閣が組まれました。労働運動・農民運動・部落解放運動も高まり、普通選挙を求める運動も活発になりました。大正デモクラシーとは、日露戦争後から第一次世界大戦、満州事変が始まるまでの民衆主導の民主化運動の名称です。