高等学校歴史総合/女性の社会参加

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 フランスの「人権宣言」やアメリカの「独立宣言」は、自由と平等の権利について述べています。しかし、当時の女性や奴隷などには自由と平等の権利がありません。当時、女性が社会で活躍出来る機会はまだ限られていました。女性はどのようにして社会の一員になれたのでしょうか?

女性の社会進出[編集]

 女性史を見ると、欧米・日本・中国など状況は違っても、登場人物は男性と比べると意外に限られています。近代までのヨーロッパは、女性は家にいて「良妻賢母」になってほしいと期待されていました。女性もフランス革命に参加しており、やがて選挙の立候補が許されなくなりました。人権宣言は、フランス革命の時に制定されました。フランス語で「男性・男性市民の権利」を保障すると書かれています。しかし、19世紀中頃から、欧米諸国でも女性に参政権を与える取り組みが始まりました。なぜなら、教育の普及によって、女性が看護師・幼児教員・著述家などの仕事をするようになったからです。20世紀初めのイギリスでは、石を投げてまで参政権を手に入れようとする女性もいました。

 イギリス領ニュージーランドは、1893年に世界で初めて女性に選挙権を与えた国です。そのほかの国は、20世紀初めまで女性に参政権を認めていません。第一次世界大戦は本格的な戦争だったので、欧米では多くの男性が戦地に送られました。その頃、国内で働く人も限られていました。そのため、女性は兵器を作る工場で働くようになりました。以降、戦後数年間は女性史も変わりました。

 また、女性の社会進出は、衣服の変化にもつながりました。コルセットやペティコートは、ココ・シャネルのように動きやすいシンプルコーデに変わり、世界中の労働者達は着心地の良い服を求めました。

日本の大正期の女性[編集]

 日本でも自由民権運動の中で、1870年代に一部の地方議会は女性の選挙権を与えましたが、すぐに取りあげられました。社会運動が大正デモクラシーで高まり、第一次世界大戦が世界を大きく変えると、日本でも女性解放運動が始まりました。平塚らいてうはこの活動を担当しながら、雑誌『青鞜』の発刊時に、「そもそも、女性は太陽」と述べています。平塚らいてうは市川房枝らとともに新婦人協会を設立しました。より多くの女性が高等教育や政治に関われるように、取り組みました。紡績業や製糸業の工場労働者以外にも、タイピストや電話交換手として働く女性も増えました。都市部では、モダンガールと呼ばれる新しい流行も生まれました。しかし、その後の深刻な経済危機の中で、自由な流れは停滞しました。「産めよ殖やせよ」の掛け声で、女性は男子をたくさん産んで兵士に育ててもらえばいいという社会になりました。