高等学校歴史総合/帝国主義がアジア・アフリカにもたらしたもの

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
小学校・中学校・高等学校の学習>高等学校の学習>高等学校地理歴史>高等学校歴史総合>帝国主義がアジア・アフリカにもたらしたもの

 欧米列強が帝国主義によって世界を支配するようになると、アジアやアフリカに圧力がかかるようになりました。アジア・アフリカの人々はどのように生きて、どのように帝国主義に対抗しようとしたのでしょうか。

列強のアフリカ分割[編集]

 アフリカ大陸は、ヨーロッパ列強の帝国主義が一番支配していた場所でした。20世紀に入って、ヨーロッパ列強はエチオピア帝国とリベリア共和国を除くアフリカ大陸のほぼ全域を支配しました(アフリカの分割)。それまで、奴隷を連れていかれ、仕事もないアフリカが、19世紀末にはヨーロッパ資本の行き先となりました。そのため、アフリカは1つの農作物と鉱物資源しか生産しないモノカルチャー経済を採用しなければならなくなりました。

西アジア諸国の改革[編集]

 1800年代前半、オスマン帝国は他国からの圧力によって、軍隊の近代化・改革を進めました。また、中央集権的な支配体制を整えようとしました。19世紀中頃から、知識人達はますます憲法と議会を求めるようになりました。1876年、ミドハト憲法が成立しました。ミドハト憲法は、アジアで最初の憲法と考えられています。その後、露土(ロシア・トルコ)戦争が始まると、スルタンのアブデュルハミト2世は憲法作成を中止しました。1908年、ミドハト憲法を復活させるため、青年トルコ人革命運動が起こりました。イラン(カージャール朝)では、政治的・経済的にイギリスやロシアへの依存を強めていました。そのため、イギリスへ煙草の権利譲渡に反対する煙草ボイコット運動が、民族主義運動のきっかけとなりました。1905年、国王の残酷な支配に対してイラン立憲革命が起こりました。

 ジャマールッディーン・アフガーニーはイラン出身です。彼は、イスラーム世界各地のムスリムを統合して帝国主義勢力と戦うため、パン・イスラーム主義を唱えました。エジプトを中心に各地で、彼の思想に影響を受けました。

インドの近代化と反英運動[編集]

 インド大反乱後、イギリスはイギリス領インドをつくり、インドの植民地支配を開始しました。一方、インド人中産階級は高等教育を終えて、政治に関与するようになりました。その結果、1885年にインド国民会議が結成されるようになりました。成立当初の国民議会は、イギリスを支持する立場でした。しかし、バール・ガンガーダル・ティラクのように自治と独立を求める急進派が議会に参加するようになりました。そのため、イギリスの植民地支配を少しずつ批判するようになりました。

東南アジアの植民地化[編集]

 列強諸国は、東南アジアでも植民地を展開しました。列強はプランテーションを経営して、国際市場で販売出来るように、特産品の栽培を増やしました。また、自国工業のために原材料を栽培したり、採掘したりしました。この時期、フィリピンのホセ・リサールやベトナムのファン・ボイ・チャウのように、世界各地で植民地化に反対する人々が立ち上がり、植民地支配への批判と国民意識が芽生え始めました。彼らは、フランスの独立に反対する運動を起こすと、日本の有力者に支援を求めました。日本への留学を勧めたので、東遊運動と呼ばれるようになりました。しかし、日本政府に追い出されて、東遊運動は失敗しました。成功しなくても、全国で独立や自立のために民族運動を展開しました。