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高等学校歴史総合/敗戦後の日本とアジア

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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 敗戦後、日本は6年間も無政府状態でした。冷戦とGHQの政策によって、日本は天皇の立場を変え、軍国主義を改めて、新しい国を作ろうとしました。この大きな変化の中で、人々の心はどのように変化し、何が変わらなかったのでしょうか。

日本の戦後改革

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 敗戦後の日本は、ドイツなどのように東西陣営に分断するのではなく、連合国軍に占領されました。東京の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、アメリカ政府から指示を受けて、日本政府に提案を行いました。日本を軍国主義から民主主義にするための戦後改革が進められました。日本国憲法は、国民主権を認め、世界で初めて戦争を放棄しました。その後、新しい日本の基礎となりました。農地改革や財閥解体など、様々な分野で改革が進められました。こうして、戦後の国民生活の基礎が整えられました。

 極東国際軍事裁判(東京裁判)では、連合国が裁判官を選び、誰が戦争責任を負わなければならないかを調べ、判決を出しました。軍部・閣僚・官僚が大衆を戦争に向かわせたと責められても、天皇制は維持されました。

大衆は敗戦をどう生きたか

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 空襲で日本の各都市は破壊され、戦後になって駅前や広場に闇市が出来ました。食料品を含む色々な品物が高値で売られていました。戦時中は、両親を失う子供も続出しました。

 戦時中、日本は広い地域に進出したため、海外でも多くの戦闘に敗れました。終戦直前には中国の内戦やソ連の満州侵攻によって、帰国困難者が発生しました。ソ連軍にシベリアに連れて行かれた人達は、強制労働などで亡くなりました。帰国出来るようになったのは、日ソ共同宣言が結ばれた1956年になってからです。また、子供達も家族を失い、中国人に育てられました。その後、女性達も中国に残り、中国人と結婚しました。日本兵の中にも、東南アジアの戦争終結に貢献しており、現地の独立運動に参加しました。

冷戦と日本の独立

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 1950年に朝鮮戦争が始まると、「朝鮮特需」で国連軍に軍事物資を提供していました。このため、日本経済が回復しました。朝鮮半島の情勢が悪化すると、アメリカは日本との平和条約締結を急ぎました。1951年、サンフランシスコ講和会議が開かれました。サンフランシスコ平和条約は、ソ連と中国を除く全ての国と調印して、日本の独立を回復しました。また、日本とアメリカは日米安全保障条約を結び、アメリカ軍を日本に残しました。1954年になると、国の防衛力を高めるために自衛隊が誕生しました。さらに、沖縄と小笠原諸島はアメリカに運営を任せて、アメリカの重要な軍事基地となりました。一方、中国・ソ連との平和条約は締結されず、ソ連は北方四島を占領したままで、対中戦争の戦争責任問題も後回しになりました。

 日本は連合軍の圧倒的な力によって無条件降伏すると、占領されました。それだけではなく、アジア冷戦の影響も受けました。こうした背景から他のアジア諸国と向き合い、和解する機会を逃してしまいました。