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高等学校歴史総合/日本の開国とその影響

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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日本の開国・開港

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アメリカはアメリカ・メキシコ戦争で勝つと、アジアに関心を持つようになりました。1853年、アメリカ艦隊総司令官のマシュー・ペリーが浦賀にやってきました。アメリカ艦隊はアメリカのノーフォークから出発します。やがて、大西洋経由でアフリカの喜望峰を回ります。そして、インド洋を通って香港に向かいました。香港に着くと香港から那覇に向かいました。このように、アメリカ艦隊は半年以上もかけて日本に渡りました。日本にやってくると、マシュー・ペリーは手紙を日本に渡して香港に戻りました。1854年、江戸幕府と話し合って日米和親条約を結びました。その結果、下田港と箱館港を開くようになりました。日本はアメリカの船に日用品と食料を届け、遭難者を助けなくてはならなくなりました。

1858年、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが日本にやってきて、日米修好通商条約を結びました。その結果、貿易は神奈川を含む5つの港で出来るようになりました。その後、オランダ・ロシア・イギリス・フランスでも似たような条約を結びました(安政の五か国条約)。1859年、横浜港・長崎港・箱館港も開くようになりました。日米修好通商条約は日本にかなり不利な内容でした。しかし、日米修好通商条約は賠償金を払わされたり、領土を取られたりしていません。

交通革命の進展と東アジア

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スエズ運河の開通

1850年代以降、船の技術が大きく変わりました。スクリューが船に付いて、蒸気で動くようになりました。その結果、世界各地へより早く行けるようになりました。日本はこの時期に鎖国をやめました。アメリカの海運会社が新しい技術を使って、太平洋横断航路を作りました。その後、スエズ運河とアメリカ大陸横断鉄道も出来ました。

日本の開港は、世界の交通手段を大きく変えました。東アジアの中でも、船の燃料を入れるために日本の開港が必要でした。日本が鎖国をやめると、世界各地の貿易も活発になりました。