高等学校歴史総合/日本の開国とその影響

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日本の開国・開港[編集]

 1853年、アメリカ人のマシュー・ペリーが指揮する東インド艦隊が浦賀に到着しました。マシュー・ペリー艦隊は、1852年にアメリカ東海岸のノーフォークを出航して大西洋を横断しました。その後、アフリカ大陸の喜望峰を経由してインド洋方面に出航して、香港、那覇まで半年以上かけて航海していました。1840年代、アメリカはメキシコとの戦争に勝利して、カリフォルニアなどを手に入れました。また、太平洋の向こう側にあるアジアへの関心も強まっていました。マシュー・ペリーは、日本にアメリカへの国境開放を求める大統領からの手紙を渡し、香港に向かいました。1854年、マシュー・ペリーは再び日本へ向かいました。江戸幕府と話し合い、日米和親条約を締結しました。日米和親条約の内容に下田と箱館の開港、アメリカ船への物資の供給、漂流者の救助などが盛り込まれていました。

 1858年、アメリカ総領事タウンゼント・ハリス日米修好通商条約を締結させ、神奈川を含む5港を自由貿易地域とすると宣言しました。その後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間で安政五カ国条約が結ばれました。1859年には、横浜、長崎、函館が開港しました。これらの条約は、日本にとって不公平で不利な条約でも、中国の南京条約と違って、戦争に負けた後に結んだ条約ではなく、交渉によって結ばれました。したがって、賠償金や領土の譲渡を伴わないし、外国人が日本国内を旅行するのを困難にして、日本の独自性を保っていました。

交通革命の進展と東アジア[編集]

 日本の開港は、当時の人々の世界旅行のあり方を変えて、イギリスが世界市場を作るのに大きく役立ちました。

スエズ運河の開通

 1850年代以降、スクリューとエンジンの性能向上は、蒸気船の航行性能に大きな違いを生み出しました。つまり、より遠くへ、より速く行けるようになりました。1867年、アメリカの海運会社が、マシュー・ペリーで有名な太平洋横断航路を開設しました。その結果、船は初めて世界を一周出来るようになりました。さらに1869年にはスエズ運河とアメリカ大陸横断鉄道が開通したため、世界一周がより簡単に、より速く出来るようになりました。

 そうして、アジアとの貿易が盛んになり、欧米とアジアの経済的な結びつきが強くなっていきました。その中で、かつての日本の開港は、東アジアに燃料となる石炭を大量に供給して、アジアを拠点とする定期汽船航路網を維持・発展させるために重要でした。