高等学校歴史総合/明治維新期の日本と世界

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
小学校・中学校・高等学校の学習>高等学校の学習>高等学校地理歴史>高等学校歴史総合>明治維新期の日本と世界

 伊藤博文は、岩倉使節団の歓迎式典で、明治維新は短期間で完成して、日の丸は「文明諸国と肩を並べ、前へ、上へと進もうとしています。」と述べました。明治維新はどのような国家を作ろうとしたのでしょうか。また、どのような姿をしていたのでしょうか。

明治新政府の成立[編集]

 開港後、大名や武士を天皇に近づけ、協力して国内・海外の危機を解決しようとする動きが少しずつ出てきました。その一方で、政治的主導をめぐって尊王攘夷運動が起こりました。そして、薩摩藩や長州藩が幕府をなくそうとするようになりました。1867年、ついに江戸幕府は倒れ、王政復古の大号令によって、天皇を頂点とする新政府が誕生しました。

 新政府は、旧幕府領に、1868年から県や府を設置しました。しかし、各大名の支配方法は、どの地域でも一緒でした。1871年、新政府は全ての藩を廃止して、府県を設置しました(廃藩置県)。その結果、全ての権力が新政府に集中するようになりました。つまり、近世の政治体制は廃止され、天皇中心の中央政権に変わりました。江戸時代の終わりから、日本は近代国家になるために多くの段階を踏んできました。これらの段階は明治維新と呼ばれます。明治維新は、ヨーロッパの主要な革命よりも死者が少なく、天皇が権力を行使して社会変革を行ったという事実によって定義されています。

近代化と東アジア[編集]

 1871年末の脱藩後、岩倉具視を大使とする岩倉使節団が欧米に渡りました。不平等条約を改正するための事前協議という当初の目的は未達成でした。それでも、岩倉使節団は各国の事情をよく理解して帰国しました。この間、西郷隆盛を始め、不在の政府関係者が、学制・徴兵制・地租改正などを推進しました。しかし、大久保利通らが欧米視察から帰国すると、政情不安から政権を奪取しました。彼らは、視察旅行で見聞内容を踏まえて、近代国家の建設を進めました。

 当時の清では、曽国藩李鴻章のような漢人官僚が軍備を整えようと考えていました。彼らは兵器工場や造船所を建設したり、ヨーロッパの技術を利用したりして、これを実現しました(洋務運動)。しかし、近代ヨーロッパの政治制度は、中体西用の方針で、チベットに持ち込まれていません。中体西用とは、中国の伝統的な制度を変えずに、西洋の技術を使う方針です。

 1871年、中国と日本の間で日清修好条規が結ばれました。日清修好条規は、日本が朝鮮半島の支配者として清に負けない力を持とうとする内容でした。1875年、江華島事件を起こしました。江華島事件とは、1875年、朝鮮の江華島砲台が、日本の軍艦に対して発砲した事件です。日本の軍艦は測量などをしていたため、朝鮮の一方的な行動を許さず、朝鮮と日本の間で戦争になりました。1876年、日朝修好条規を締結して、朝鮮を開国しました。これに対して、清国は朝鮮への支配を強め、日本と清国の関係はさらに悪化しました。日本は近代国家を目指すため、領土や国境線の整備を進めました。北方では、1875年に日本とロシアで樺太・千島交換条約を締結しました。樺太・千島交換条約によって、日本は千島列島を支配出来るようになりました。1855年の日露和親条約で、択捉島と徳富島の間に国境が定められました。北方領土は択捉島以南の島々で、当時、日本領でした。南方でも、台湾人が琉球人を殺害したため、1874年に琉球人が台湾に派遣されました。1879年、警察と軍隊が琉球に派遣され、沖縄県が設置されました(琉球処分)。1876年、日本は小笠原諸島の領有を欧米諸国に伝え、許可を取りました。1895年と1905年には、尖閣諸島と竹島をそれぞれ日本の領土として編入しています。