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高等学校歴史総合/核兵器の脅威と核軍縮

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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 冷戦時代、ソ連を中心とした国々は核兵器を手に入れました。アメリカは世界で唯一、核兵器を使用した国でした。核兵器がどんどん作られていく中で、核兵器の脅威は世界をどのように変えていったのでしょうか。

核拡散と核兵器反対運動

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 アメリカが原爆を投下した時、多くの日本人が犠牲になりました。日本は「唯一の戦争被爆国」と言われますが、広島・長崎では国籍を問わず多くの人が犠牲になりました。その中には、日本の統治下にあった台湾や朝鮮半島の人達や連合国軍の捕虜も含まれています。放射線を浴びた人達は、今もその影響を受けています。

 第二次世界大戦後、1949年にソ連が原爆を手に入れると、1952年にイギリスも原爆を手に入れました。その結果、アメリカの核兵器独占が崩れました。1952年にアメリカが水素爆弾(水爆)の実験に成功すると、1953年にソビエト連邦も水素爆弾(水爆)の実験に成功しました。1960年代には、フランスも中国も核兵器を作りました。

 核保有国の核実験や原子力発電所の事故などで、国民が被曝したり、亡くなったりしました。このため、核兵器の脅威は世界的な問題となりました。1954年、西太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験による「死の灰」で、日本の漁船第五福竜丸の乗組員1名が死亡しました(第五福竜丸事件)。その結果、原爆や水爆といった核兵器に反対する運動はより活発になりました。

核軍縮の取り組みと課題

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 1959年、フィデル・カストロはキューバで革命を起こして、親米政権を倒しました。その後、フィデル・カストロは社会主義思想を支持しつつ、ソ連に接近しました。1962年、ソ連がキューバにミサイル基地を建設しました。このため、アメリカとソ連の間で核戦争が起こる可能性が高まりました(キューバ危機)。しかし、ソ連が譲歩したため、戦争は起こりませんでした。これを受けて、アメリカとソ連の関係は改善されました。1963年、アメリカ・イギリス・ソ連の3カ国は、部分的核実験禁止条約に調印しました。また、1968年には国連で核拡散防止条約が成立しています。1967年、日本の佐藤栄作首相は、核兵器を「持たない」「作らない」「持たせない」という非核三原則を打ち出しました。1972年、アメリカとソ連が戦略兵器削減交渉に調印しました。1980年代には戦略兵器削減交渉が進み、1987年に中距離核戦力全廃条約が調印されました。

 ソ連の崩壊後、アメリカとロシアは、戦略的核兵器の軍縮に取り組んできました。核軍縮は、国連安全保障理事会・国際原子力機関・核保有国同士が協議しながら推進してきました。一方、核軍縮に反対する動きもあります。包括的核実験禁止条約は1996年に署名されました。しかし、アメリカなどが批准していないため、まだ発効していません。北朝鮮は1993年、核拡散防止条約から脱退すると発表しました。それ以来、数回の核実験を行ったと伝えています。また、1998年にインドとパキスタンが地下核実験を行い、イスラエルも近隣のアラブ諸国と対立を続けているため、「事実上の核保有国」と呼ばれています。「核抑止論」は世界的に根強い考え方なので、核拡散が心配されます。