高等学校歴史総合/核兵器の脅威と核軍縮
小学校・中学校・高等学校の学習>高等学校の学習>高等学校地理歴史>高等学校歴史総合>核兵器の脅威と核軍縮
核拡散と核兵器反対運動
[編集]アメリカ軍は広島と長崎に原子爆弾を落としました。日本人と様々な外国人(台湾人・朝鮮人・連合国の軍隊など)が被爆しました。今でも、被爆者は後遺症に苦しんでいます。
核兵器はアメリカ以外でも持つようになりました。1949年、ソビエト連邦が原子爆弾を作りました。1952年、イギリスも核兵器を作りました。やがて、アメリカが水素爆弾を作ると、ソビエト連邦も水素爆弾を作りました。1960年代になると、今度はフランスと中国も核兵器を持つようになりました。こうして、核保有国が増えました。
1954年、アメリカがビキニ環礁で水爆実験をしました。その時、ビキニ環礁周辺の日本の漁船(第五福竜丸)が巻き込まれました。第五福竜丸の乗組員は放射線を浴びてしまいました。日本人は第五福竜丸事件をきっかけに核兵器をなくしてほしいと声を上げました。世界でも核実験や原発事故で、数多くのの人が放射線の被害に苦しんでいます。
核軍縮の取り組みと課題
[編集]1959年、フィデル・カストロがキューバ革命を起こしました。フィデル・カストロは親米寄りの政府を倒して、キューバを社会主義国にしました。1962年、ソビエト連邦がキューバにミサイル基地を作ろうとしました。キューバ国民はアメリカとソビエト連邦の核戦争に巻き込まれないか不安になりました(キューバ危機)。やがて、ソビエト連邦はこの予定を諦めました。このような経験から、アメリカとイギリスとソビエト連邦は1963年に「もう、核実験をやめましょう。」と約束しました(部分的核実験禁止条約)。1968年、国際連合も「これ以上核兵器を増やさないようにしましょう。」と決めました(核拡散防止条約)。1967年、日本の佐藤栄作首相も「核兵器を持ちません、作りません、持ち込ませません。(非核三原則)」と海外に伝えました。その後、アメリカとソビエト連邦は核兵器を減らそうと努めました。1972年、アメリカとソビエト連邦は戦略兵器を制限しました。1980年代になると、アメリカとソビエト連邦は戦略兵器を減らすようになりました。1987年、アメリカとソビエト連邦は中距離核戦力全廃条約を結びました。
ソビエト連邦からロシアに変わると、ロシアはアメリカと核兵器を減らすようになりました。国際連合の安全保障理事会と国際原子力機関も、核兵器を減らすように世界各国に伝えました。しかし、アメリカは1996年の包括的核実験禁止条約に賛成していません。また、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)も包括的核実験禁止条約を破って、何回も核実験をしました。さらに、インドとパキスタンは1998年に地下で核実験をしました。そして、イスラエルも核兵器を持つようになりました。このように、核兵器があれば戦争を防げるような古い考え方(核抑止論)もまだまだ強く残っています。