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高等学校歴史総合/歴史のなかの16歳 満蒙開拓青少年義勇軍

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満州農業移民

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 1936年、広田弘毅内閣によって「20年計画100万世帯派遣」が国策として決定されました。この頃から満州への農業移民が本格的に始まりました。この計画は、20年後に満州国の人口を5000万人とした場合、その1割に当たる500万人を農業移民としようという内容でした。農業で自給自足が困難な農業所得5段未満の小規模農家の半数にあたる100万世帯が20年間で満州に移住すれば、1世帯5人として満州の日本人は500万人になるという計画でした。満州に多くの日本人を移住させて、対ソ戦に使える人数を増やし、内地の農民を追い出そうと考えました。

満蒙開拓青少年義勇軍

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 しかし、1937年7月の盧溝橋事件や日中戦争が始まると、当初予定していた成年だけ移住させるという目標が難しくなりました。そこで、「満蒙開拓青少年義勇軍」が作られました。全国から16〜19歳の青年を集めて、日本の研修所で2〜3カ月、満州の青年義勇隊訓練所で3年間訓練し、現地に永住する開拓農業者となるよう指導しようという内容でした。

 各都道府県で志願兵の募集が行われました。入国管理局を担当する文部省が定めた志願者数を満たすため、各県は市町村役場や小学校、退役軍人の団体(在郷軍人会)の協力により、現在の中学3年生、高校1~2年生にあたる小学校・高校課程卒業者を懸命に探しました。教育委員会は、そのほとんどを担当していました。

 義勇軍の国内訓練場として、茨城県東茨城郡下中津村内原(現在の水戸市内原)に内原訓練所が設置されました。訓練生は「日輪兵舎」とよばれる宿舎で、60人ほどの同じ故郷の小隊と一緒に生活しました。内務訓練、農業訓練、教練、武道など様々な分野の訓練を受けました。内原は「満州移民の聖地」と呼ばれ、300棟もの「日輪紡績所」が建てられていました。

「鍬の戦士」

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 1941年、3年間志願兵になるための訓練を受けていた若者達が、初めて訓練を終えて志願兵となりました。北安や東安などの開拓地は、いずれもソ連との国境に近い場所でした。青年挺身隊は、ソ連との戦争に備えて、農業移民と「鍬の戦士」と呼ばれる準戦闘員の両方を担当しました。

 長野県、山形県、福島県、広島県、熊本県、山口県が横綱、大関、関脇を占めて、ハワイや北米など海外からの参加者も少なくありません。また、沖縄や植民地だった朝鮮半島など、各県から志願者が出ている様子も分かります。

 1945年8月の終戦まで、約10万人が内原研修所に通い、「鍬の戦士」の心構えを学びました。訓練を終えて満州に行った「鍬の戦士」はおよそ8万6500人だったそうです。