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高等学校歴史総合/歴史のなかの16歳 集団就職 「金の卵」たちの時代

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戦後の労働力移動と日本社会

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森進一は昭和時代の代表歌手として知られています。戦後の日本社会の様子が彼の人生と重なります。彼は母親と一緒に様々な地域で暮らしていました。彼が中学3年生になると、鹿児島県(母親の出生地)へ引っ越しました。中学校卒業後、彼は中卒として働くようになりました。当時、数多くの若者が地方から都会へ仕事を探しに行くために集団就職列車に乗りました。この集団就職列車に彼も乗りました。彼は長い時間をかけて大阪へ向かいました。1963年、4万4千人以上の中学校卒業生が九州地方などから関西地方・関東地方の企業へ就職しました。このような若者は大切な働き手として戦後日本の経済成長を支えました。このような時代の流れから彼の人生も大きく動き出しました。

日本の高度経済成長期は1950年代後半から始まりました。当時、重化学工業・繊維工業などが大量の労働者を求めていました。大都市の中学卒業生は主に高等学校・大学に進学しました。一方、地方の中学卒業生は経済的な理由などから高等学校・大学にあまり進学出来ませんでした。地方の中学卒業生は仕事を求めて大都市へ向かいました(金の卵)。1965年の記録によると、鹿児島県男子中学卒業生のうち約7.5割が県外で仕事を探しました。鹿児島県女子中学卒業生でも約9割が県外で仕事を探しました。九州地方・中国地方・四国地方の中学卒業生は集団で大阪市・名古屋市へ鉄道・船を使って向かいました。一方、東北地方・北海道地方の中学卒業生は集団で首都圏へ鉄道・船を使って向かいました。このように、田舎と都会の違いが進路にも現れました。金の卵が日本の高度経済成長期を大きく支えました。

金の卵の苦労と支え

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高度経済成長期、金の卵は田舎から都会へ出ていきました。しかし、主な金の卵は厳しい労働条件と低賃金の会社で働いていました。例えば、有名な歌手の森進一も都会に出てから寿司屋に住み込みながら働きました。しかし、当時の給料は大学卒業生の3分の1程度しかなくかなり貧しい生活でした。それでも、森進一は家族にお金を送るために何度も仕事を変えなければなりませんでした。中学校の先生も金の卵の貧しい生活を心配していました。中学校の先生が中学校卒業生の働く職場に行って励ましたり、職場の様子を調べたりしました。また、会社も若い働き手と繋がりを深めるため、様々な工夫をしました。大阪市の長居公園「郷土の森」は集団就職者出身地の木を植えて、故郷を思い出せるようにしました。このように、家族・学校・会社が様々な形で金の卵を支えていました。しかし、主な金の卵は大変な思いをしながら働いていました。

高度経済成長期の時代、地方の若者がまとまって都市に働きに行きました(集団就職)。集団就職は、日本の工場・会社を大きく発展させました。1970年代に入ると、日本の経済成長も緩やかになりました。その結果、集団就職をしなくても労働者を賄えました。1977年、労働省が集団就職制度を終わらせました。一方、働く場所が元々少ない地域はそれ以降もまとまって首都圏・大阪市・名古屋市へ向かいました。