高等学校歴史総合/満州事変

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満州国の位置。Manchukuoが満州国。1939年ごろ。

満州事変[編集]

背景[編集]

1931年には、満州で万宝山事件(まんぽうざん じけん)や中村大尉事件が発生したこともあって、日本では「満蒙の危機」がさけばれ、強硬論が目立つようになってきた。(※ 実教出版や清水書院の教科書に紹介されており、高校の範囲内。)

万宝山事件とは、朝鮮から中国に入植した朝鮮人と、現地の中国人が衝突した事件。

中村大尉事件とは、参謀本部参謀の中村が満ソ国境を調査中に、中国軍(張学良軍)に殺害された事件。

満州事変[編集]

満州現地の日本軍の関東軍(かんとうぐん)は、軍閥や国民党よりも先に満州を占領しようと考えた。

石原莞爾(いしわら かんじ)
溥儀(ふぎ、プーイー)

陸軍課長であった石原莞爾(いしわら かんじ)は、満州を占領する口実をもうけようとして、満州の日本軍は自作自演(じさくじえん)の事件を起こさせた。

どういう事件かというと、1931年に奉天郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)ちかくの南満州鉄道の線路を爆破した事件である(柳条湖事件)。

日本軍である関東軍は、この柳条湖事件を中国側のしわざだとして軍事行動を開始し、奉天などの都市を占領し支配下においた。(のちに1932年に、日本軍は満州国の建国を宣言した。

このとき日本本土の若槻礼次郎(わかつき れいじろう)内閣は、英米との協調外交の方針のため、中国とは戦争をせずに外交交渉で解決しようという方針となり不拡大方針をとったが、野党からは軟弱外交だと非難された。

また、日本の世論・マスコミは、関東軍の行動を支持した。

このため、閣内の不一致により、若槻内閣は総辞職し、かわって同1931年に立憲政友会の犬養毅(いぬかい つよし)内閣が組閣された。

しかし、満州の日本人居留民への中国人からの暴力事件などがあいつぎ、日本の世論が中国と協調しようとする日本政府を弱腰だと批判したこともあり、このような背景のもと陸軍は事変を強行して満州を占領をしていき、そして清朝の最後の皇帝であった 溥儀(ふぎ) を、満州国の「執政」(しっせい)として、満州国の建国を宣言した(満州事変)。

(満州事変では、宣戦布告(せんせん ふこく)が無いので、「戦争」とは言わずに「事変」(じへん)と言う。)

(※ 範囲外: )満州国の建国当時は、溥儀はまだ「皇帝」ではない。のちに溥儀は満州国の皇帝に就任する。なので、溥儀を満州国の「皇帝」として紹介する書籍も(小学校の検定教科書などでも、溥儀は「皇帝」としている)、正しい。
(※ 範囲外: )ちなみに、満州国の皇帝になった人物の数は、溥儀の1人だけである。溥儀が生きているうちに、日本が第二次世界大戦で敗退したことにより、満州国は消失し、中国から皇帝の制度は完全に無くなったからである。


当時の中華民国は、満州国の建国をみとめずに、日本と対立した。

(※ このような満州国の正当性をめぐる対立という背景のため、中学教科書では、満州のことを「満州」あるいは「満州国」 のようにカギ括弧つきで表現する教科書出版社も多いが、高校では普通にカッコ無しで満州と記述している。ちなみに当時の中華民国は皮肉たっぷりに「新 満州国」などと言ってる。 後述するリットン調査書では原文に、「新 満州国」のような中華民国による呼び方の報告がある。 )


※ 満州事変の意図を、「不況解決策として植民地拡大のために満州事変が行われた。」と見なす解釈について。 
日本軍の満州事変の意図の別の解釈として、世界恐慌にともなう日本の経済危機の解決策として、「日本の軍部が大陸への経済ブロックを確立しようと、中国への権益の支配および拡大を目指して、満州事変を起こした。」というような観点での解釈もある。たとえば高校教科書の「詳説 世界史B」(山川出版社、2012年検定版)では、だいたい、そのような感じの解釈が取られている。
現在でも、この山川出版のような、不況解決策として日本軍が満州事変を起こしたと解釈を取る学者や評論家も多い。このような「満州事変は、日本の不況解決策」という解釈も通説・定説の一つであり、読者の中学生は頭の片隅(かたすみ)に入れておく必要があるだろう。
ただし、石原莞爾は中間管理職に過ぎず(陸軍課長、つまり課長)、はたして陸軍課長が海軍もふくめて軍部全体を支配できたのかとか、疑問である。石原らの大陸の陸軍が、政府および軍の幹部からの指令を無視して、まるでクーデターのように勝手に満州現地の日本軍が動いたと見るほうが自然な解釈であろう。
また、満州事変の外交上のリスクから、英米との貿易を行いづらくなる、というリスクもある。じつは「ブロック経済」といえども1932年ごろは、まだまだ日本は英米と貿易を続けている最中でもあった。もちろん英米のブロック経済が、日本に英米との協調を放棄させる原因の一つになったという側面もあるだろう。
しかし、不況解決策と言うよりも、むしろ、事件後の石原の著作『世界最終戦論』から見ると、ソ連軍および中華民国軍への対抗策や、あるいは欧米のブロック経済への対抗という発想から、満州の支配を強化しようという考えが強く見られる。石原は、のちの1940年に『世界最終戦論』と題して、日米決戦を想定した満州・モンゴルの領有を計画した著作を出版している。『世界最終戦論』出版日は、満州事件(1932年ごろ)のあとの1940年(昭和15年)9月10日出版である。(ただし、満州事変後の著作なので、事変当時の考えとは違っている可能性もある。)
おそらく日本の軍部全体としてみても、ソ連軍および中華民国軍への対抗という軍事的な観点のほうが、軍人としての視点にも合うだろう。
思うに、石原らの対ソ連戦争のための満州事変事変的なアイデアが、ちょうど経済危機の日本国にも「経済ブロック」の確保としても好都合だったので不況解決策としても期待され、日本政府は英米との外交上のリスクよりも満州確保という軍事・経済上のメリットを取るという選択を行い、日本政府は満州国建国を認めてしまったとでも、言うところか。

日本国内のテロ・クーデター[編集]

血盟団事件など[編集]

満州事変が起きると、日本のマスコミは関東軍の行動を支持し、新聞やラジオの多くは、反中国の態度をとった。

このような雰囲気のなか、陸軍内の結社の桜会(さくらかい)では一部の青年将校や右翼思想化(大川周明)があつまりクーデタが計画されたが、未遂に終わった(十月事件)。

また、不況による不満の高まりからか、1932年2月に、井上日召(いのうえ にっしょう)ひきいる右翼の血盟団員の青年が、蔵相 井上準之助(いのうえ じゅんのすけ)および三井会社理事 団琢磨(だんたくま)を暗殺した(血盟団事件)。


五・一五事件を報じる朝日新聞
犬養毅(いぬかい つよし)。犬飼は、おそってきた将校に「話せば分かる」と語ったといわれている。将校は「問答無用」(もんどうむよう)と答えてから犬飼を殺害したらしい。


さらに1932年の5月15日、日本海軍の一部の青年将校らが首相官邸および警視庁・日本銀行を襲撃し、首相の犬養毅(いぬかい つよし)を射殺した(五・一五事件)。

犯人の軍人たちは、法律で処罰されることになった。だが、当時は政党の評判がわるかったので、世論では刑を軽くするべきだという意見が強かったので、犯人の軍人への刑罰を軽くした。(このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件が、ふえていくことになる。)


首相だった犬養毅が死んでしまったので、つぎの首相を決めることになり、元老 西園寺公望(さいおんじ きんもち)の推薦により、次の首相は斎藤実(さいとう まこと)に決まった。斉藤は海軍出身だが、穏健派であった。(※ 「穏健派」であることの参考文献: 山川出版の詳説日本史B、2012年検定版)

また、犬養毅のあとの首相は、しばらく軍人出身や官僚出身の首相がつづき、第二次世界大戦のおわりまで政党出身の首相は出なくなった。現在(2014年)の学校教科書などでは、このような理由もあり、五・一五事件で政党政治が終わった、と言われることが多い。

※ 検定教科書だと、なんだか斎藤実がまるで軍国主義者の悪者かのように受け取られかねない書かれ方をされてるが、しかし斉藤さんは、のちの二・二六事件で、軍国主義者の軍人たちによって殺害される側の人間である。
※ おそらく、第二次大戦後の歴史研究で、斉藤さんの経歴の海軍出身という事から、のちに軍部が軍部大臣現役仕官制を悪用した行動と 斉藤さんの首相就任が混同されたのだろう。そのため斉藤さんが、まるで軍国主義者でクーデタ支援者みたいに誤解され、高校教育でもそういう観点で教育がされたのだろう。その誤解の影響が、平成の今でも残ってる。

なお、斉藤内閣は「挙国一致内閣」といったスローガンを掲げた。

リットン調査団[編集]

中華民国の上海に到着(とうちゃく)したリットン調査団
柳条湖付近での満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団。
リットン。第2代リットン伯爵(リットンはくしゃく)、ヴィクター・ブルワー=リットン Victor Bulwer-Lytton

中国政府は、日本の満州での行動は不法である、と国際連盟にうったえた。そして、国際連盟による調査がおこなわれることになったので、イギリス人の リットン を委員長とする調査団の リットン調査団(リットンちょうさだん、英:Lytton Commission) が満州におくられた。


調査の結果、リットン調査団は、日本と中国の双方の主張を、みとめなかった。最終的にリットンの出した調停案の内容は、日本の満州事変以前の権益はほぼ認めたうえで、満州については(名目は)中国の主権下に置いて、満州国にかわる自治的政府をつくり、(実態では)満州の一部地域を日本を主とする列強の管理下に置くという内容の調停案である。(※ 実教出版や明成社の教科書で紹介されている。)

なお調査団の報告と分析は、つぎのようなものであった。

・ 調査の結果、満州族の住民による自発的(じはつてき)な独立運動では、無い。
・ よって、満州の独立は、みとめないべきである。
・ 日本は、事変以後の占領地からは、兵を引きあげるべきである。
・ しかし、日本の(鉄道権益などの)事変前からの権益は正当なものであり、保護されるべきである。
・ 日中の両国とも、国際連盟の加盟国であり、したがって両国の権利は公平に尊重されるべきである。

リットン調査団の決定は、日本の権益をまもるための通常の警備行動の正当性を、みとめたのであった。 そもそも調査団の活動内容は、満州事変の調査と混乱の解決のための提案にすぎない。なので、事変が起こる前の日中両国の行動の正当性については、リットン調査団は疑問を主張する立場にはない。(※ たしか、リットン報告書の原文(英語)に、リットン本人のこういう主張が書かれているような・・・)

そして、日本の権益が認められたということは、うらをかえせば、中国の蒋介石による日本に対する抗日運動(こうにち うんどう)などの戦闘をしかけていたという事実には不利な内容であり、日本に有利な内容であった。実際、リットン報告書では、満州での日本製品の排斥運動は、国民党の指示によるものであるとし、中国側を批判している(※ 中学の自由社の教科書に記述あり)。


そして、リットン調査団は、日本と中国の両国がうけいれられるようにと、日本の権益をまもるための警備行動をみとめつつ、中国の領土として満州を自治共和国にするという、日中両国に気を使った提案(ていあん)をした。


しかし、日本の世論および政府の斉藤首相および内田(うちだ)外務大臣などは、リットン報告書(リットンほうこくしょ、英:Lytton Report)の日本に有利である意図を理解せず、報告書が満州国の建国をみとめるべきでないと主張してることからリットン報告を日本に不利な内容とおもい、報告書の提案に反発した。

1933年の、日本の国際連盟からの脱退を報じる新聞記事。(1933年2月25日)

日本から国際連盟におくられた全権の松岡洋介(まつおか ようすけ)は脱退に反対し、収集のための連盟での演説に努力をした。

しかし、この間にも、満州では陸軍が占領地を拡大していき(熱河作戦、ねっかさくせん)、こうして日本は国際的な信用をうしなってしまう。

国連総会では、42対1(日本)で満州国の取り消しが採択された(反対票の1票は日本が投票したぶん)。その結果、日本代表の松岡洋右は退場し、翌1933年(昭和8年)3月に国際連盟から脱退した。

なお、ドイツも翌1934年に国際連盟を脱退する。このように主要国である日本とドイツが脱退してしまったので、国際連盟は紛争の調停の場所としての役割が弱まってしまう。

ただし、日本が国際連盟から脱退したとはいっても、この時点では、アメリカやイギリスとの外交は続けており、貿易もアメリカむけを中心に日本は貿易をしていた。

※参考 国際連盟では満州国建国の自発性が否定されたとは言っても、満洲国は日本以外にも、いくつかの国家から国家として承認を受け、外交関係が結ばれた。のちにドイツやイタリアが満州国を承認(しょうにん)したほか、フィンランドやタイやクロアチア、スペインやバチカン、デンマークをはじめ20か国が満州国を承認した。
※参考 また、日本と中国とのあいだで、1933年5月には停戦協定がむすばれ、満州事変は、ひとまずは、おわった。

※参考 現代の評論家の一部には、1931年の満州事変から、1945年の第二次世界大戦の終わりまでの15年間を、「15年戦争」(じゅうごねん せんそう)などと言う評論家もいるが、実際にはこの15年間には停戦期間などもあるので、歴史学的には「15年戦争」という解釈は、あまり受け入れられていない。また、中学校教育では「15年戦争」の語は用いられない。

さて、建国後の満州国は、日本からの投資もあり好景気になって経済や工業が発展していき、工業国になっていき、満州では自動車なども生産できるようになった。当時は世界恐慌の影響がある時代だったが、日本では、国策(こくさく)による満洲関連の投資や、軍需産業への投資などが始まり、日本では、あらたに成長する新興(しんこう)の財閥(ざいばつ)があらわれた(いわゆる「新興財閥」)。 (※ 新興財閥についても、中学でも習う。中学の帝国書院の教科書にも記述あり。)

しかし農村では、ひきつづき不景気が続いていた。

日本政府は満州を「王道楽土」(おうどう らくど)「五族協和」(ごぞく きょうわ)などと宣伝した。また、満州を開拓するための満蒙開拓団などを募集したので日本から多くの移住者が満州に移り住んだ。そのほか、朝鮮や中国など周辺の地域からも多くの者が満州に移住した。


二・二六事件[編集]

二・二六事件
昭和の二・二六事件のときの、反乱軍に投降を呼びかける政府広告。

犬養の後継の首相は、軍隊出身の元・海軍大臣で対外穏健派の斉藤実(さいとう まこと)首相になったが、それでも軍隊の暴走は収まらなかった。斎藤実の政府は満州国を承認したが、それでも軍隊内の強硬派は議会への不満が収まらなかった。

斎藤実の政府は満州国を承認したが、それでも軍隊内の強硬派は議会への不満が収まらず、斎藤内閣は反対派の陰謀とも噂される疑獄事件(ぎごくじけん)により倒れ、1934年同じ海軍出身の岡田啓介(おかだ けいすけ)が首相に就任し組閣した。

そのような中、ついに陸軍の青年将校の一部が、1936年2月26日に兵数1400人ほどの部隊を率いて反乱を起こし、首相官邸や警視庁などを襲って(おそって)、大臣らを襲った。首相の岡田啓介は一命をとりとめたものの、前首相の斎藤実と蔵相の高橋是清(たかはし これきよ)は、反乱軍によって殺害された。

反乱軍は、反乱をおこなう名目として、日本の不況や国難の原因を、政党と財閥による腐敗政治だと唱え、天皇中心の革命をかかげた。だが、天皇は反乱を認めずに、正式の軍隊に反乱軍の鎮圧を命じた。

この反乱は、正式の軍隊によって鎮圧された。

しかし、国民や新聞の多くは、青年将校たちの反乱を賞賛した。不況を解決できない政党への国民の不信や、満州での様々な反日暴動などを解決できない政党への不振から、国民や新聞などは青年将校の反乱を賞賛した。このため、以降の政治では、軍部の発言力が強まっていく。

一部の政党政治家も、政争を自分たちの党に有利に進めるために、国民による軍部の支持を利用して、軍部に理解をしめしたので、議会が軍部につけこまれる原因をつくってしまった。


また、議会でも国際協調路線の政治家の発言力が弱まっていく。軍部内でも、外国に対して強硬的な方針の者の発言力が強まり、国際協調などの路線の発言力は弱まっていく。

そして、軍部に反する言論が取り締まりを受けることになっていった。

大正デモクラシーの自由主義的な風潮から一転して、昭和初期の日本では、議会の制度はあったものの、しだいに、まるで軍部の支配する国のようになっていく。

ワシントン体制の崩壊[編集]

日本は、ワシントンの軍縮条約、ロンドンの軍縮条約を、アメリカやイギリスと結んでいたが、1936年に軍縮条約が期限をむかえるのに合わせ、軍縮条約を破棄してしまう。こうして、日本は軍備を増強していく。いっぽう、英米の主導する国際社会からは、日本は孤立していく。

なお、国際連盟からは、日本とドイツはすでに脱退している。

こうして、第一次大戦後の国際体制の「ワシントン体制」は崩壊(ほうかい)していった。


範囲外: 蒋介石の外交宣伝[編集]

宋美齢(そうびれい、ソン・メイリン)

(※ 浙江財閥(せっこう ざいばつ)や宋姉妹については世界史Bの範囲。)

日本の外交は、この時期に、国際的に孤立していく。いっぽう、裏をかえせば、中華民国の国際社会での発言力が強まっていくということでもある。中華民国の外交が、たくみだったということである。たとえば蒋介石は、1928年には、キリスト教徒としての洗礼を受けている。もちろん、外交を有利に進めるためにキリスト教の洗礼をうけたにすぎない。アメリカやイギリスなど欧米の、おもな宗教はキリスト教だから、とうぜん欧米のキリスト教徒は、蒋介石への親近感が、わくことになる。しかも、蒋介石の妻(つま)の宋美齢(そうびれい、ソン・メイリン)は、おさないころからアメリカに留学しており、彼女はアメリカの名門女子大を卒業しているキリスト教徒であった。この宋美齢が、アメリカの教会で、けなげに中華民国をかばい、日本を批判する主張などをしていた。とうぜん、アメリカのキリスト教徒は中華民国に親近感が、わいていく。

日本のエリート官僚の国際会議での意見なんて、国際会議じたいが、アメリカの庶民には遠い世界の話であり、親近感がわかない。そんなのよりも、アメリカ各地の教会で外交活動をしている宋に、アメリカの庶民は親近感はわくだろう。しかし日本の外務省はそういう事に気づかず、むしろ、国際会議などの権威ある会議での活動にこそ日本外務省は専念すべきだと考えていたのだろう。

しかも、日本の国債会議での出席者は男ばかりだが、いっぽう中華民国の宋は女性である。アメリカ人の目には、もしかしたら、まるで日本が、女性を差別する国かのように、映ってるかもしれない。

中国の外交における宣伝はこのように大胆(だいたん)であり、日本の役人的な文化交流や宣伝などとは、中国は大違いであった。日本は外交宣伝の分野では、おくれをとっていた。

なお、宋美齢の実家は、中国最大の財閥の浙江財閥(せっこう ざいばつ)である。(※ 範囲外: )浙江財閥には宋美齢をふくめて3人の姉妹がいて、3人とも有力者に嫁いでいる。長女の宋靄齢は国民政府財政部長の孔祥煕の夫人、妹の宋慶齢は孫文夫人、宋美齢は蒋介石夫人。姉妹は3人ともキリスト教徒である。

この状況証拠からも、浙江財閥が国民党を支援していたことが分かる。そして、キリスト教徒であるという事からも予想できるように、どうやらアメリカ合衆国やイギリスなどの後ろ盾があることが予想される。

※ 上述の内容についての参考文献については、歴史評論家の故・渡辺昇一 の著作に、上述のような中華民国の外交宣伝についての文献がある。書籍名については、手元に書籍が無く、書籍名は不明。

金輸出の再禁止[編集]

(高橋是清(たかはし これきよ)は、デフレ恐慌が昭和恐慌の正体だということに気付いたのか、)(そしてその原因が金本位制への復帰だということに気付き、)1931年に成立した犬養毅(いぬかい つよし)内閣での蔵相 高橋是清は、組閣直後ただちに金輸出の再禁止をして管理通過制度(かんりつうか せいど)に移行した。これによって外国為替での円相場は下落し、またインフレーションになったが、円安となったため輸出は好調になり、そして日本は綿工業を中心として繊維工業で、世界一位となった。

イギリスなどからは、日本はソーシャル・ダンピングをしていると批判された。

「ダンピング」とは、まずは無理な安売りによって競争相手をつぶすことで自社のシェアを伸ばすなどで市場を独占・寡占した後に、そのあと価格を釣り上げるなどして暴利を得ること。(なお現代の日本では、独占禁止法などでダンピング商法を禁止している。)

また、軍需産業や恐慌対策などの予算を増やすことで、産業保護的な経済政策を行った。この効果で、日本では重化学工業が発展し、自動車工業も発展した。化学工業などでは日産(にっさん)や日窒(にっちつ)などの新興財閥が台頭し、軍部と関わって朝鮮・満州にも進出した。

また、既成財閥も競合して日本国内の重化学工業化を行った。

思想の取り締まり[編集]

この頃から、思想の取り締まりが激しくなったので、社会主義思想や共産主義思想の取り締まりが激しくなったので、社会主義者や共産主義者は、(表面上は)それまでの(社会主義などの)思想を放棄して国家主義に転向(てんこう)した。

日本共産党は非合法下で活動をつづけていたが、1933年、(転向を強制されたのか)日本共産党幹部の佐野学(さのまなぶ)や鍋山貞親(なべやまさだちか)は、獄中でソビエト連邦への批判を発表した。この後、日本共産党員から転向するものが相次いだ。

(じつは、佐野たちの転向は、共産主義をすてたのではなく、ソ連批判をしたのであり、ソ連指導下で天皇制打倒をめざすべきではなく、今後は天皇を尊重して日本独自の一国共産主義をすべきと提唱したものである。 ソ連は君主制打倒というスローガンを掲げてたが、それは日本の実情に合わないと、佐野らは主張したのである。(※ 明成社の検定教科書で紹介されている。) このため、(警察は一国共産主義が戦時下の経済統制の方針に適してると判断したのか)佐野らは減刑されて、のちの1940年代に佐野らは出獄させられた。 )

これとは別に、1933年、小説『蟹工船』の作者の小林多喜二(こばやし たきじ)が共産党のスパイ容疑で逮捕され、処刑された。 このような弾圧もあってか、プロレタリア文学は日本では衰退した。

これとは別に、京大(京都帝国大学)教授 滝川幸辰(たきがわゆきとき)は、その刑法学説が危険思想であるとして問題視され、休職処分となった(滝川事件)。京大法学部は、処分に抗議し、全教官が辞表を提出したが、教員側の敗北に終わり、滝川ら8名の教員が免職となった。

帝国議会で、滝川らを攻撃したのは文相 鳩山一郎。(※ 高校の範囲内。実教出版の教科書に書いてある。)

1935年には、それまで定説であった美濃部達吉の天皇機関説が、貴族院で軍出身議員の菊池武勇によって反国家的であると排撃され、政治問題化した(天皇機関説事件)。

そして「国体明徴声明」(こくたい めいちょう せいめい)では、主権は天皇になると発表され、天皇機関説を否認した。

これとは別に、1937年、東京帝国大学教授の矢内原忠夫(やないはら ただお)が、政府の植民地政策を批判したとして、辞職させられ、著書も発禁となった(矢内原事件)。

これとは別に、1937年、日本無産等の鈴木茂三朗(すずき もさぶろう)ら400名以上がコミンテルンの人民戦線活動を行ったとして逮捕され、翌1938年には東京帝国大学の大内兵衛(おおうち ひょうえ)が関係者として逮捕された(人民戦線事件)。

ニ・ニ六事件[編集]

ひとくちに「軍部」といっても、けっして軍の全員が一致団結してたのではなくて、内部に対立があった。

まず、皇道派(こうどうは)と統制派(とうせいは)の対立があった。

いっぽう、一般の省庁に「革新官僚」という勢力がいて、この時代は総力戦対応のために様々な改革が必要だと考えられていたので、そのための改革を積極的に推進しようという勢力のことを革新官僚と言う。

軍部の統制派は、この革新官僚と協力して、総力戦対応を進めようとした。


で、わかりやすく言うと皇道派は実務能力のない馬鹿である。日本経済の不況などの原因を、天皇を除いた既存の支配層が悪いと考えてたので、日本でクーデタ(皇道派は「昭和維新」と呼んでた)を起こして政治家を殺して、天皇親政を実現すれば解決するだろう、という、意味のよく分からない妄想をしてた馬鹿連中が皇道派。

皇道派は、思想家の北一輝(きた いっき)の影響を受けていた。北一輝は『日本改造法案大綱』などの著作を出していた。

1936年2月26日、皇道派の一部青年軍人がクーデタを起こし、約1400名をひきいて首相官邸や警視庁を襲撃し、内大臣 斎藤実・ 蔵相 高橋是清・ 教育総監 渡辺錠太郎 などを殺害した。

(なお高橋是清は、金輸出禁止などのインフレ政策をすすめていた。なのに皇道派は昭和恐慌の米価デフレにも文句をいい、いっぽうで円安インフレにもケチをつけて、蔵相を殺害するような、インフレでもデフレでも文句をいうので、経済オンチの馬鹿連中が皇道派である。しかもコイツら皇道派は馬鹿のくせに、自分たちを改革的で優秀だ〜〜とか思ってるんで、つくづくタチの悪い馬鹿である。)

このようにタチの悪い馬鹿の皇道派どもが、よりにもよって恐慌の対策をしていた優秀な政治家たちを殺害したので、天皇はとてもお怒りになり、ニ・ニ六事件を起こした反乱軍どもに厳罰をくだせと勅命(ちょくめい)を出して、日本国は反乱軍を鎮圧した。

また事件後、北一輝は逮捕され、のちに処刑された。

事件後、軍部内部では、統制派が主導権をにぎった。

岡田内閣にかわって広田弘毅(ひろた こうき)内閣が成立した。広田内閣は、1936年に陸軍の要求にしたがって軍部大臣現役武官制を復活させた。

また広田内閣は、「国策の基準」を発表し、(陸軍の要望していた)対ソビエト戦を想定した北進論にくわえて、(海軍の要望していた)南洋に進出する南進論も決定した。日本国内では、軍備拡張が行われた。

外交では日本は、反ソビエト・反共産主義という共通点からドイツに接近し、そして1936年には日独防共協定を結んだ。(翌年にイタリアが参加し、日独伊防共協定になる。こうして日独伊の 枢軸国 が出来上がった。)