高等学校歴史総合/日本の大陸進出

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 詳しい内容は、高等学校世界史探究の「世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅱ」に記述されていますので、そちらをご参照ください。ここでは、簡単に記述します。

 満州事変により、日本は世界から孤立しました。当時、世界は国際協調の流れの中にありましたが、この満州事変はそれに逆行するものでした。また、国際連盟からの脱退や日中戦争も行われ、それらがなぜ支持され、また元に戻れなくなってしまったのか、その理由は何でしょうか。

満州事変[編集]

1931年、中国東北部に駐留していた日本の関東軍は、中国東北部の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破しました。この爆破を中国軍の犯行に見せかけて軍事行動を開始しました。関東軍は、パリ不戦条約が自衛権を否定していないと主張し、満州鉄道の爆破は自衛のための軍事行動であるとしました。この主張を受け入れた日本政府は軍事行動を活発化させました。こうして「満州事変」が始まりました。1932年、満州の現地住民は中国政府から離脱し、今後の方針を自分たちで決められるようになりました。こうして「満州国」が建国されました。中国政府は国際連盟に救済を求めたため、国際連盟はリットン調査団を派遣しました。調査団の報告は以下の通りです。

  • 「満州国」の建国を認めません。
  • 日本の満州に対する特別な権利と利益を認めて、中国と日本の両方の立場を尊重しながら中間点を探りなさい。

 しかし、この報告に対して、日本は強硬な態度をとって、国際連盟を脱退しました。

 こうした日本の動きは、第一次世界大戦後に高まった国際協調の世界的な流れに逆らいながらも、日本では支持されました。その背景には、不況が長引く中で、日本のマスコミや世論が「満州は帝国の生命線」などと主張し、政府の立場に共感していた側面もあります。また、政党政治への不満や社会不安から、国家改造の思想を伝えた人もいました。この思想に賛成した陸軍の青年将校が 二・二六事件 を引き起こしました。

日中戦争の泥沼化[編集]

 正式な宣戦布告なく、1937年7月、北京郊外の盧溝橋で中国軍と日本軍が交戦する形で、日中戦争は始まりました。蒋介石は南京に中国国民党(国民党)政権を立ち上げました。彼は、敵対する中国共産党との内戦を休止し、抗日民族統一戦線(国共合作)を結成して、日本軍相手に抵抗しました。1937年12月になると南京が陥落し、戦争の結果に対する日本国民の怒りを無視できなくなった日本政府は、国民政府との和平交渉を打ち切りました。これで戦争は継続されました。日本も調印したパリ不戦条約は、日本が中国での軍事活動を活発化した時点で破棄されました。これは、中国の主権と領土保全という九カ国条約への挑戦でした。アメリカとイギリスが蒋介石を支援したのは、日本の軍事力の増強に脅威を感じていたからです。そのため、戦争の結末を予測しにくくなりました。

 満州事変以来、人々は大陸の情勢に関心を持つようになり、新聞やラジオが普及しました。夫や息子が軍隊に入った家庭では、日常生活に戦況の理解も欠かせなくなりました。命を懸けて戦争に協力し、貧しい生活を送っていた人々は、戦争が上手くいくように、より大きな期待を持っていました。メディアが世論を形成するやり方も、戦争が継続される理由と大いに関係がありました。対日戦争を続けるために、国民政府は重慶に拠点を移しました。