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高等学校歴史総合/西ヨーロッパ・東南アジアの地域連携

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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西ヨーロッパ統合への動き

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かつてのイギリス・フランス、オランダ・ポルトガルなどは、かなり広い範囲を支配していました。しかし、第一次世界大戦と第二次世界大戦からこのような国は疲れ果ててしまいました。第二次世界大戦後、植民地側が「私達も自由に生きたい!」と立ち上がりました。こうして1950年代から1960年代にかけて、海外の植民地が次々と独立するようになりました。ヨーロッパも東ヨーロッパと西ヨーロッパに分かれました。東ヨーロッパはソビエト連邦と仲良くなり社会主義の道を進みました。一方、西ヨーロッパはアメリカの支援を受けながら復興を進めました。そんな中、フランスは1952年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)を作りました。ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体の原加盟国はフランス・ドイツ・イタリア・ベネルクス3国でした。その後、1958年にヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)が出来ました。ヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)は1967年にまとまり、ヨーロッパ共同体(EC)になりました。1973年、イギリスもデンマークとアイルランドと一緒にヨーロッパ共同体(EC)の仲間に入りました(拡大EC)。こうして、西ヨーロッパ諸国の絆はさらに深まりました。

東南アジア諸国の動き

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第二次世界大戦後のアジア諸国は冷戦の影響と経済的な苦しさから大きな問題を抱えるようになりました。その頃、中国で共産党が政権を取ったり、朝鮮戦争が起きたり、インドシナ半島でも戦争がありました。そこで、アメリカは共産主義の拡大を防ぐために東南アジア条約機構(SEATO)を作ったり、親米政権を南ベトナムに作ったりしました。それでも、軍人・官僚が東南アジア諸国の指導者として国をまとめます。東南アジア諸国はアメリカの支援と日本の経済協力を受けたり、外国からお金を借りたり、国内資源を上手に使ったりして、国を豊かにしました。例えば、タイのサリット・タナラットとかフィリピンのフェルディナンド・マルコスとかシンガポールのリー・クアンユーとかインドネシアのスハルトなどが挙げられます。このような指導者はアメリカ側についていたのに、共産主義国の政策内容に似ていました(開発独裁)。

1967年、共産主義の広がりを防ぐために、インドネシア・マレーシア・フィリピン・シンガポール・タイが力を合わせて東南アジア諸国連合(ASEAN)を作りました。ベトナム戦争後、東南アジア諸国連合の加盟国は、経済の発展に力を入れるようになりました。東南アジア諸国連合の加盟国が豊かになっていくと、国民も「もっと自由な政治にしたい」と考えるようになりました。