高等学校歴史総合/西ヨーロッパ・東南アジアの地域連携

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 第二次世界大戦後の世界では、国や地域の安定と成長を求めて、多くの組織が協力し合ってきました。これらの組織はどういった活動をしたのでしょうか。

西ヨーロッパ統合への動き[編集]

 30年足らずの間に2度の本格的な戦争を戦ったヨーロッパ諸国は、その国力に大きな打撃を受けました。植民地が次々と独立する一方、アメリカやソ連の台頭でその地位は低下しました。第二次世界大戦後、東ヨーロッパ諸国は、ソ連を中心とした社会主義圏として復興を目指しました。一方、西ヨーロッパ諸国は、アメリカの経済に支えられて復興を遂げました。その後、フランスはドイツ(西ドイツ)と共同で、フランスの軍事力を支える資源や産業を管理するように提案しました。1952年、イタリアとベネルクスがそれぞれドイツとフランスに加わり、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)を創設しました。これを基礎に、1958年にヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)を創設して、共通市場と共通経済政策を作り上げました。1967年に上記3つが合体してヨーロッパ共同体(EC)が誕生しました。当初、イギリスをはじめとするイギリス連邦の国々は、この動きから遠ざかっていました。しかし、1973年にイギリス、デンマーク、アイルランドがヨーロッパ共同体に加盟して、ヨーロッパ協同体が大きくなり、西ヨーロッパが一つになる動きが加速しました。

東南アジア諸国の動き[編集]

 第二次世界大戦後、独立を果たしたアジア諸国は、決して順調な道を歩んできたわけではありません。その背景に、冷戦と経済問題がありました。アメリカは、中国での共産党政権の誕生、朝鮮戦争やインドシナ戦争の発生を受けて、反共産主義の安全保障体制づくりを進めました。そのため、1950年代中頃に東南アジア条約機構を組織して、南ベトナムに親アメリカ政権を樹立しました。やがて、東南アジア諸国では、軍部や官僚を背景とした政府が権力を握るようになりました。これらの政権は、外国資本の導入と国内資源の運用を計画的で強権的に進めました。そして、アメリカの支援と日本との経済協力によって、東南アジア諸国の経済を成長させようとしました。タイのサリット・タナラット、フィリピンのフェルディナンド・マルコス、シンガポールのリー・クアンユー、インドネシアのスハルトなどが開発独裁政権です。政治的には親アメリカでも、計画経済など共産主義的な手法をとる独裁者もいます。

 1960年代中頃、ベトナム戦争の悪化を受けて、タイ、フィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポールが集まり、東南アジア諸国連合(ASEAN)を結成しました。東南アジア諸国連合の目的は、東南アジアの政治的安定と経済的協力を図るためにありました。当初、東南アジア諸国連合は反共産主義を掲げていましたが、ベトナム戦争後、経済協力に重点を置くようになりました。各国の経済が発展すると、各国で民主化への動きも高まりました。