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高等学校歴史総合/近代国家への移行と憲法の制定

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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大日本帝国憲法の制定

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大日本帝国憲法発布式

1870年代に入ると、国民が「もっと民主的な国会を作ってほしい。」と声を上げ始めました(自由民権運動)。特に、板垣退助と後藤象二郎を中心に「国会を作って欲しい。」と強く求めたので、明治政府も「国会を作ります。」と約束しました。一方、明治政府は民主主義よりも天皇の権力を大切にするような国家にしたいと考えていました。だから、伊藤博文をドイツに送りました。帰国後、伊藤博文は国の仕組みを新しくしながら、天皇に意見を言えるような枢密院を作りました。そして、明治政府は国民の権利よりも天皇の権力を大切にするような内容で大日本帝国憲法を記しました。

天皇は、議会に相談しなくても戦争を始めたり、平和条約を結んだり出来ました(天皇大権)。政府は議会より大きな力を持っていました。国の仕事(立法・行政・司法)は全て天皇の命令から動いていました。もし天皇のやり方を間違っていても、国民は天皇の家来(臣民)なので何も口を出せません。帝国議会は、貴族院衆議院の2つに分かれていて、法律や予算について話し合いました。大日本帝国憲法が定められると、日本も近代的な国家になりました。日本が日清戦争に勝つと、周辺諸国から近代化のお手本として見られるようになりました。

条約改正の実現

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これまで、欧米諸国から「日本は近代的な法律がないでしょう。」と言われて、いつも不利な条件をさせられていました。日本帝国憲法を定めると、そのような言い訳は出来なくなりました。特に、外国の裁判官を日本に入れるような不利な条件もやっと変えられるようになりました。ようやく欧米諸国と平等な立場で付き合えるようになりました。

明治時代後期になると、ロシアがアジアで力を強めようとしました。その時、イギリスは日本を大切な協力相手だと考えました。しかし、ロシアの皇太子が大津で襲われると、イギリスと日本の話し合いを一時的に中止しました。それでも、陸奥宗光がイギリスと再び話し合うようになりました。その結果、1894年に領事裁判権をなくしました。1911年に入ると、小村寿太郎がイギリスと話し合い、日本の関税を自由に決められるようにしました。これで、日本は欧米諸国と同じ立場になりました。日本は国際社会で認められるまで約50年間もかかりました。