高等学校歴史総合/18世紀のイギリス・アジア・アフリカ

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 18世紀のイギリスでは、中国のお茶やインドの綿織物など、「アジアの豊かな産物」が人気を集めました。同時に、イギリスは大西洋三角貿易で大きく儲けました。イギリスの世界貿易は、各地でどのような変化をもたらしたのでしょうか。

ヨーロッパの世界進出と大西洋三角貿易[編集]

 15世紀後半、ポルトガルやスペインが大西洋経由でアジアへの航路を開くと、西欧諸国はアジア・アフリカ・南北アメリカ大陸へと広がっていきました。16世紀中頃、スペイン人は南アメリカのポトシ銀山を発見すると、先住民に過酷な労働をさせて銀を採掘させました。その銀は海を渡ってヨーロッパに渡りました。17世紀になると、オランダはヨーロッパ経済の拠点となりました。イギリスとフランスは、17世紀後半に北アメリカやカリブ海の西インド諸島に植民地を築きました。

 アメリカ大陸とヨーロッパを結ぶ大西洋貿易は、熱帯・亜熱帯の植民地で栽培される主食用作物が中心でした。プランテーションでは、これらの商品作物をヨーロッパ人向けに多く栽培していました。プランテーションとは、熱帯や亜熱帯で、外国に販売するために一種類の作物だけを育てている大規模な農場をいいます。18世紀に入って、西インド諸島や北アメリカ南部から、砂糖・珈琲・煙草がヨーロッパに大量に運ばれるようになりました。その結果、ヨーロッパ人の暮らしは大きく変わりました。

 先住民が初めてプランテーションで働くようになりました。しかし、過酷な労働と病気のために先住民の人口が急速に減ると、西アフリカから多くの黒人が輸入され、奴隷として働かされるようになりました。ヨーロッパの奴隷商人達は、アフリカの部族間の戦争につけこんで、敗者から奴隷を買い取りました。18世紀、ヨーロッパ・西アフリカ・アメリカ植民地を結ぶ大西洋三角貿易は、ヨーロッパ諸国の世界的貿易拠点となりました。

世界経済の覇権を握ったイギリス[編集]

 17世紀から18世紀にかけて、西ヨーロッパでは大西洋三角貿易の利益を巡って戦争が続きました。特に、イギリスとフランスは、アジアやアメリカ大陸の各地で植民地戦争を行いました。18世紀中頃、イギリスは北アメリカ大陸の北部と東部を支配するようになりました。また、インドは当時ムガル帝国が統治していましたが、ムガル帝国は名目上だけ存在していました。その後、イギリスが勝利して植民地化を進めました。

 東インド会社は、イギリスの貿易発展に役立ちました。中国から茶を、インドから綿織物(キャラコ)を購入しました。1600年、インドに貿易会社(東インド会社)が設立されました。植民地政府として、貨幣の発行権や軍隊の運営権も持っていました。しかし、中国は18世紀中頃になると、広州1港しか貿易が出来なくなったため、イギリスは徐々に自由貿易を推進するようになりました。

 18世紀に入って、イギリスは国際貿易や植民地経営で他国を大きく引き離しました。その中に、大西洋三角貿易も含まれていました。首都ロンドンは国際貿易の中心地となり、そこで儲けたお金で国内の産業を発展させて、産業革命を実現しました。こうして19世紀、イギリスは世界で最も力強い経済大国となりました。