中学受験社会/歴史/下巻

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中学受験社会/歴史/下巻では、中学受験社会の歴史分野について、明治時代~現在を解説します。

明治維新

西洋に学べ

明治天皇

江戸幕府がほろびてから明治時代はじめごろに行われる一連の改革を明治維新といいます。

戊辰戦争のころ、新政府は大名などに対して政治の方針をしめすため、五箇条の御誓文を出しました。

  • 政治は、会議で広く意見を聞いて政治を行う。
  • 身分の上下によらず、みんなで心を合わせて、政治や仕事を行っていく。
  • 役人から普通の人々に至るまで、みんなの願いを実現するようにしよう。
  • 昔からのわるいしきたり(幕末の攘夷(じょうい)運動のこと)は、やめよう。
  • 知識を外国からも学んでいって、日本国を発展させていこう。

一方、庶民に向けては五榜(ごぼう)掲示(けいじ)を出しましたが、内容はキリスト教を禁止したり、一揆を禁止したりと、江戸時代と変わらない内容でした[1]

1868年、新政府は「江戸」の地名を「東京」に、年号を「明治」にあらためます。元号が明治のころを明治時代といいます。そして、1869年、明治天皇は京都から東京にうつり、東京が事実上の首都になりました。

廃藩置県

江戸幕府が無くなったあとも、大名の領地のほとんどは以前の大名がおさめつづけていました。そのため、新政府が直接、税を集めることができませんでした。また、軍もそれぞれの大名に属していて、全国を統一して動ける軍がありませんでした。そのため、新政府は全ての権力を政府に集めること(中央集権)をすすめます。

1869年に、大名のおさめていた土地と人民を政府に返還させました。これを版籍奉還といいます。しかし、大名の治めていた領地のほとんどは藩としてそのままのこりました。

1871年には、すべての藩を廃止し、府と県をおきました。そして、府と県のトップである府知事や県令には政府の任命した人物がつき、大名は東京に住まわされました。これを廃藩置県(はいはん ちけん)といいます。

四民平等

江戸時代の身分制度はなくなり、百姓や町民は平民になりました。武士は士族と、公家・大名は華族となりました。平民も苗字を持つことになり、結婚が自由となり、職業や住所も自由に選べるようになりました。

えた・ひにんなどの差別をされていた人たちも平民としてあつかう解放令が出されました。しかし、差別されていた人々は、仕事や住むところの制限が続き、戸籍にも「新平民」と書かれるなどして差別は残り続けました。

一方で、士族は名字を持ち刀を差す・代々俸禄(給料)を主君からもらうなどの特権を失いました。そのため、生活が苦しくなったものが多く、慣れない商売を行って失敗してますます生活が苦しくなるということも珍しくありませんでした。そのため、士族たちの新政府への不満が高まっていきました。

富国強兵

軍制の改革

政府は、欧米の軍制に習った改革として、1873年に徴兵令(ちょうへいれい)を出し、満20才以上の男子に、3年間兵士になる、兵役(へいえき)の義務を課しました(徴兵制)。江戸時代までとちがい、徴兵制では農村などの平民にも兵役の義務がかされ、士族・平民の区別なく徴兵をされました。

ただし、当初は、一家の(あるじ)・長男・徴兵のかわりに代金を払った者などは徴兵を免除されました[2]

また、1876年には、軍人や警察官などの特定の職業以外の人が刀を持ち歩くのをやめさせる廃刀令が出されました。徴兵制と廃刀令によって特権のなくなった士族からは不満がおきました。また、徴兵によって労働力をうばわれるので、農民たちからも反発され、一揆が起こった場所もありました。

地租改正

江戸時代の年貢は米などの農産物が中心であり、政府にとっては不安定な制度でした。

このため、政府は税の制度をあらため、土地の値段(地価)の3%を土地にかかる税とした地租を地主が現金ではらう制度になりました。

この改正の結果、地域によっては税の負担が増えた地域もあり、一揆が起きた地域もありました。のちの1877年には地租の税率が引き下げられ、3%から2.5%へと税率が引き下げられました。

産業の育成

当時の富岡製糸場(とみおか せいしじょう)

工業を近代化するため、政府みずから経営する官営(かんえい)の工場を建てました。これを官営工場といいます。機械は欧米から買い、工場労働者を育成する技師も欧米からよびました。

官営工場を手本に、民間の工業を近代化させたので、官営模範工場ともいいます。代表的な官営模範工場は群馬県の富岡製糸場があります。富岡製糸場の働き手には、女性が全国からあつめられました。

教育制度の改革

1872年に、6才以上の男女に義務教育を受けさせる学制を出しました。しかし、学校の建設費の負担や授業料の負担が大きいこと、当時の子供は働き手であったので労働力を取られることからも反発がありました。このため、実際に学校に通ったのは一部の子どもだけでした。

当初の義務教育の制度は、主にフランスを手本にしたものでした。しかし、フランスの制度が、日本にあわない部分もあったので、のちにアメリカの教育制度を取り入れた教育令を1879年に出しました。

福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)。明治20年(1887年)頃の肖像

西洋の学問を学習する熱が高まっていき、それに応ずる思想も現れます。その中で、当時のベストセラーになったのが福沢諭吉の『学問のす()め』でした。

彼は、国民の一人ひとりは平等であり、自由で独立した精神を持つことが国家の独立にもつながる(「一身独立して、一国独立する」)ことを主張しました。そのために江戸時代までの身分にとらわれた道徳を批判し、西洋の新しい学問を学ぶことの必要性を説きました。

文明開化

1871年には髪型を自由にしても良いという命令(断髪令)が出されました。これによって、多くの人々が、まげを切り落とした髪型(ざんぎり頭)に変わっていきました。「ざんぎり頭を たたいてみれば 文明開化の音がする」というはやり文句も生まれました。

東京や横浜、大阪などの大きな町には、ガス灯がつきはじめました。牛肉や豚肉などをたべる習慣[3]も生まれ、牛鍋屋や洋食屋が出てきました。

いっぽう、地方の村のようすは、江戸時代とそれほど変わっていませんでした。

  • 郵便
前島密(まえじまひそか)らによって、飛脚に変わり、1871年に郵便制度が出来ました。
  • 鉄道
1872年には、新橋―横浜間に日本で最初の鉄道が開通しました。
  • 新聞・雑誌の発行
活版印刷の技術は幕末の頃より輸入されていましたが、明治になって出版活動がさかんになります。1870年には、日本初の日刊新聞である「横浜毎日新聞」が発行されました。そのあと、次々とあたらしい新聞が発行されました。
  • (こよみ)
江戸時代までの、月の運行をもとにした太陰暦(たいいんれき)から、欧米で使われている太陽暦にきりかえられました。それにともなって、一日は24時間、7日を一週間、日曜日が休日と決まりました。

自由民権運動

征韓論(せいかんろん)と士族の反乱

隣国の朝鮮は開国した日本を、欧米の圧力に負けたとみなし、日本との国交を中止しました。日本の政府の中には、日本の軍事力を背景にして強引にでも朝鮮を開国させるべき、という征韓論という考えがあり、板垣退助や江藤新平が主張していました。

また西郷隆盛が、みずからが交渉役となって、朝鮮と平和に交渉をすることを西郷は提案していました。

欧米の視察から帰国した大久保利通は、朝鮮の早急な開国には反対し、交渉が失敗した場合の日本の安全を考え、早急な朝鮮の開国を目指している西郷や板垣の提案に、大久保利通など政府メンバーの多くは反対しました。大久保の考えは、対外政策をいそぐよりも、まずは国内の近代化をすすめ国力をたくわえるべき、というような考えでした。

このような経緯から、板垣と西郷と江藤は、政府を去りました。

いっぽう、西郷が政府をさったのと同じころ、士族の間では政府に対しての不満が高まっていました。1874年ごろから九州の各地で、士族による反乱が起きます。

西南戦争での、田原坂(たばるざか)の戦い。左が官軍、右が西郷軍(「鹿児島新報田原坂激戦之図」小林永濯(こばやし えいたく)画、明治10年3月)。
士族の反乱。

そして、鹿児島では不平士族たちの指導者として西郷隆盛がかつぎだされ、1877年に大規模な反乱が鹿児島で起きました。西郷がひきいた反乱軍と政府軍の戦争が西南戦争です。

当初、西郷たちは熊本城を包囲するほどの勢力がありましたが、徐々に政府軍が有利になり、反乱から7ヶ月で西郷たちは負けました。

西南戦争以降、武力では新政府を倒したり変えたりすることができないことがはっきりしました。そして、武力ではなく言論で世の中を変えようとする動きが活発になります。

自由民権運動

板垣退助(いたがき たいすけ)。1880年ごろ(44才ごろ)

当時の日本の政治は、薩摩藩や長州藩の出身者など明治維新に影響力のあった藩の出身者たちよって政治がおこなわれていました。これを藩閥政治(はんばつ せいじ)といいます。

征韓論にやぶれて政府を去っていた板垣退助らは、1874年に高知で立志社という団体を作り、言論活動によって政府への批判を主張しはじめます。

また、同じ年の1874年に、板垣は選挙で選ばれた政治家による政治をおこなう民撰議院(みんせんぎいん)を、すぐに設立するように求め、民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)を政府に提出しました。

この民撰議院の設立の要求のように、国民が政治に参加できる社会をもとめる運動を自由民権運動と言います。自由民権運動は、はじめのうちは不平士族を中心とした運動でしたが、しだいに農民や商工業者などにも支持をされていきます。これに対して、政府は厳しく取りしまりましたが、運動はますます広がっていきました。中には政治を行う上で必要な憲法案を自ら作るグループも登場しました(私擬(しぎ)憲法)。

そのため、政府も国会を開く必要性を認めるとともに当面の政府批判をかわすため、10年以内に国会を開くことを国民に約束した 国会設立の(みことのり)を1881年にだしました。

国会開設が現実のものとなったため、1881年に板垣はフランスの政治をモデルとする自由党を結成します。また、政治の争いに敗れて政府を去っていた大隈重信が1882年にイギリスの政治をモデルとする立憲改進党を結成しました。

自由党と立憲改進党の違い
自由党 立憲改進党
1881年 設立 1882年
板垣退助(土佐出身) 党首 大隈重信(肥前出身) 
フランス式の急進的な自由主義
主権在民
普通選挙の実施
政策 イギリス式の立憲君主制
ゆるやかな改革・改良
地方の農民 支持層 都市の資本家
知識人

自由党の結成などをうけて自由民権運動はますます激しくなり、秩父事件などが起こります。その結果、運動への取り締まりが厳しくなりました。さらに、運動のリーダーたちの考え方の違いから対立が起こり、自由民権運動は一時おとろえます。

しかし、国会開設が近づくと、再び運動は活発化しました。そして、政府が約束した通り、1890年に国会にあたる帝国議会が開かれました。

立憲国家への道

大日本帝国憲法の成立

1890年の国会の開設にそなえて、政府は、議会制度に必要になる憲法を作りました。

明治時代の日本国の憲法を、大日本帝国憲法(だいにっぽんていこく けんぽう)と言います。また、この憲法のあとのころから日本の国名の言いかたで「日本」のほかに「大日本帝国」という言いかたも、されるようになりました。

伊藤博文

明治政府は、伊藤博文(いとう ひろぶみ)らを、ヨーロッパの憲法を調べさせるためヨーロッパに送り、伊藤はイギリスの法学者スペンサーやドイツの有名な法律学者のグナイストから学び、またオーストリアの法律学者のシュタインから憲法学のほか軍事学や教育学などさまざまな学問を学びました。伊藤は、天皇についての条文は、ドイツが日本と同じように皇帝をもっているのでドイツの憲法を手本にするのが良いだろう、と考えたようです。

そして、伊藤は帰国後、ドイツの憲法やアメリカ憲法など、欧米のさまざまな国の憲法を手本にして、 大日本帝国憲法を作りました。

 大日本帝国憲法の主な内容 (現代語に意訳)

第1条 大日本帝国は、永久につづく同じ家系の天皇が治める。
第3条 天皇は神聖であり、責任などを追及されない。
第4条 天皇は国家元首であり統治権をもち、この憲法の条規にそって統治する。
第5条 天皇は議会の協力で法律をつくる。
第11条 天皇が陸海軍を統帥する。
第20条 日本臣民は法律の定めるところに従い、兵役の義務を有する。
第22条 日本臣民は法律の範囲内において、居住及び移転の自由を有する。
第26条 日本臣民は法律に定める場合を除くほか、信書の秘密を侵されることはない。
第28条 日本臣民は社会の安定と秩序を妨げず、かつ、臣民としての義務に背かない限りにおいて、信教の自由を有する。
第29条 日本臣民は、法律の範囲内で、言論・集会および結社の自由を持つ。
第31条 本章に掲げた条規は、戦時又は国家事変の場合において、天皇大権の施行を妨げるものではない。

大日本帝国憲法の内容では、まず、天皇が日本を統治すると定められました。そして内閣総理大臣をはじめとした大臣はその補佐を行うとされました。

また、軍隊は天皇が統帥(とうすい)するものとされ、宣戦や講和も天皇の権限になりました。このように軍隊を統率する権限を 統帥権(とうすいけん)といい、天皇のみが統帥権を持つとされました。

国民は天皇の家臣という意味の「臣民」とされ、「臣民の権利」は法律の範囲内で保証されました。そのため、現在(2019年)の日本の権利とくらべ、当時の権利は国民にとっては制限の多いものでした。また、あくまで「臣民の権利」は天皇の恩恵によって与えられたとしています。

ほかに、国民には兵役(へいえき)の義務があることが憲法にふくまれていました。

大日本帝国憲法は1889年に、明治天皇から国民に発布されます。

このように、国民にとっては制限の有る項目が多いものの、日本は憲法を持ち憲法にもとづいた政治を行う立憲国家(りっけんこっか)となりました。

新憲法は翻訳されて、世界各国に通告されました。

帝国議会

憲法発布の翌年1890年には、国会での議員を選ぶための選挙が行われ、現在の国会である帝国議会も同じ年に開かれました。

議会の議院は衆議院貴族院との2つの議院からなる二院制で、選挙で選ばれたのは 衆議院の議員のみでした。いっぽうの貴族院の議員は、皇族や華族などの有力者や学者、高額納税者などから天皇が議員を任命しました。

衆議院の立候補者に投票できる権利である選挙権の条件は、「'直接国税15円以上を納める'満25才以上の男子」で、有権者は人口の1%ほどでした。

現在の日本のような、18才以上の日本人なら誰でも選挙権のある普通選挙(ふつうせんきょ)とはちがい、この明治時代の選挙のように年齢以外の制限がある選挙のしかたを「制限選挙(せいげんせんきょ)」といいます。

発展的事項:大津事件(おおつ じけん)

ニコライ皇太子。1891年、長崎に訪問時のニコライ皇太子(左の車上の人物がニコライ。)
児島惟謙(こじま これかた)

1891年、ロシアの皇太子のニコライ2世(ロシア語: Николай II, ラテン文字表記: Nicholai II)が日本を訪問し、日本政府はニコライを接待していた。

皇太子ニコライが滋賀県の大津町(現 大津市)を訪問中に、警備の仕事だったはずの日本人の巡査の一人に切りつけられるという事件が起きた。犯人は、その場で取り押さえられて捕まった。

この事件で、日本政府はロシアの報復をおそれて、裁判所に犯人を死刑にするように要求した。

しかし、当時の最高裁判所である大審院(だいしんいん)の院長である児島惟謙(こじま これかた)は、日本の刑法の法律にもとづくと、この場合は死刑は不可能であり、無期懲役(むきちょうえき)にするべきと主張とした。

日本の新聞などの世論は、これに注目した。日本だけでなく、欧米も、この事件の判決に関心をもった。もし、裁判所が死刑の判決を出せば、裁判所は政府のいうままで、場合によっては法律も曲げることがあることを示す。それは近代国家では決してあってはならないことである。しかし、犯人を死刑にしなければロシアとの戦争になるかもしれない。または多額の賠償金や領土を要求されるかもしれなかった。

結局、日本の裁判所は、法律にしたがって犯人を無期懲役にすることに決まった。そして、ロシアも賠償の請求や軍事行動をとることもなかった。

こうして、日本の裁判所は政府の権力から独立して判決を下せることが証明されたのだった。 (関連事項:中学受験社会/公民/政治とくらし#裁判所および中学受験社会/公民/政治とくらし#三権分立)

朝鮮・中国との国交

1871年に日本は清国と条約を結び、日清修好条規(にっしん しゅうこうじょうき)がむすばれました。これは日本と清が対等な条件で結ばれた条約でした。

1875年に、日本の軍艦が許可をえずに測量をおこない、朝鮮から砲撃を受けました。しかし、日本軍は逆に砲台を破壊・占領する江華島(カンファド)(こうかとう)事件がおこりました。その翌年1876年に朝鮮との国交の条約である日朝修好条規(にっちょう しゅうこうじょうき)がむすばれました。この条約によって、日本と朝鮮との貿易も始まりました。

こちらは日本の軍事力を背景に不平等な条約を朝鮮におしつけた条約でした。また、この条約で、日本は朝鮮を独立国として見なしました。当時の朝鮮は、清国に朝貢をしていた清の属国でしたが、日本は今後は朝鮮を清の属国としてではなく、朝鮮を独立国としてみなして、朝鮮と交渉していくことになりました。このため、朝鮮を属国とみなしていた清国とは、しだいに日本は対立をしていきます。

  1. ^ キリスト教の禁止については、外国からの反発により1873年に廃止されました。
  2. ^ 免除規定が廃止され、ほぼ全ての20才以上男子が徴兵されるようになるのは1889年のことでした。
  3. ^ 江戸時代までは、仏教の影響で牛や豚などの4本足の動物の肉を食べることは一般的ではありませんでした。

日清戦争と日露戦争

日清戦争

甲午農民戦争 (こうごのうみんせんそう)と日清戦争

朝鮮では、改革や開国の負担は、農民にまわされました。税は重税になり、農民の生活はますます苦しくなりました。このような状況によって、不満が農民たちの間で高まり、大規模な反乱が1894年に起きました。農民たちは減税、腐敗した役人の追放、日本をふくむ外国の排除を求めました。

この農民たちによる反乱を甲午農民戦争といいます。

この反乱を起こした農民たちの多くが、「東学」[1]という宗教を信仰していたので、この反乱を東学党(とうがくとう)の乱ともいいます。

反乱は大規模であるいっぽう、朝鮮政府はわずかな兵力しか持っていなかったので、清に鎮圧のための軍の派遣をたのみました。

日本も、清との条約[2]や朝鮮半島に反乱鎮圧や居留民(きょりゅうみん)の保護などを名目に日本軍を出しました。

やがて反乱はおさまりましたが、日本・清の両国とも朝鮮での自国の影響力が弱まることをおそれ、軍を引き上げませんでした。やがて両国は対立が深まっていき、ついに日本と清との戦争が起きました。「日清戦争」は朝鮮の主導権を握る戦争でした。

日清戦争のころの風刺画(ふうしが)。フランス人のビゴー筆。「魚釣り遊び」(Une partie de pêche
魚(=朝鮮)を釣り上げようとする日本と中国(清)、横どりをたくらむロシア

当初、日本よりも有力な海軍と多くの兵力を持つ清が有利だと思われましたが、日本の方が近代的な訓練が進んでいました。さらに、清軍は士気[3]が低く、各地の戦いに敗れます。戦争は日本の勝利で翌年の1895年に終わりました。

下関条約

遼東半島の位置
下関条約の調印の様子。 向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権

1895年、日清戦争の講和条約として、首相の伊藤博文や外務大臣の陸奥宗光を代表者として、下関条約が日本と清とで結ばれました。主な内容は、以下の通りです。

  • 清は、朝鮮の独立を認めること。
  • 遼東(リャオトン)半島を日本にゆずる。
  • 台湾(たいわん)を日本にゆずる。
  • 清は、賠償金の3億円を払う[4]

朝鮮が清の属国でなくなり、朝鮮が独立国となったことにより、1897年、朝鮮は国名を「大韓帝国(だいかん ていこく)」に変更しました。

また、台湾が日本の植民地となりました。日本の投資や開発によって台湾の近代化が行われていく一方、抵抗する住民への弾圧も行われました。

三国干渉

ロシアは、日本の勢力が中国にのびることで、南下政策[5]に支障が出ると考えました。そこで、ロシアは、中国の分割に関心を持つドイツとフランスと組んで、日本に遼東半島を清に返すよう、日本に要求します。

この、ロシア・ドイツ・フランスによる、リャオトン半島を清国へと返させる要求を、三国干渉(英:Triple Intervention)といいます。ロシアに対抗する力がなかった日本は、三国の要求にしたがい、しかたなく清国にリャオトン半島を返します。

この三国干渉にかんして、日本国内ではロシアに対する反発から、「臥薪嘗胆(がしん しょうたん)」という言葉が流行しました。「臥薪嘗胆」の意味は、復讐(ふくしゅう)のために、がまんすること、と言う意味です[6]

中国の分割

清は軍事力の高い強国だと思われ、「眠れる獅子(しし)」と諸外国から恐れられていました。しかし戦争が始まってみると、日本の勝利で終わりました。こうして、清の実力が大したことがないことがわかると、ヨーロッパ諸国は次々と中国大陸での勢力拡大にのり出します。

ロシア、イギリスやドイツ・フランスも、清から土地の権利などの利権を手に入れていきます。

一方、清では日本の明治維新にならって、欧米の政治制度を取り入れようとしました。そして、諸外国のろこつな中国への干渉は中国国内での民族意識を高めるきっかけとなりました。

義和団の乱(ぎわだん の らん)

このようなことから、清の民衆のあいだに、ヨーロッパに対して反発する感情が高まっていきます。 1899年には、義和団という宗教団体が欧米の勢力をしりぞけようとする暴動を起こします。この暴動を義和団の乱と言います。義和団は、「清朝をたすけて、西洋をほろぼせ」という意味の「扶清滅洋(ふしん めつよう)」という言葉を、運動の標語にしていました。そして、清の政府はこの乱を支援します。清国政府は、欧米に対して宣戦布告(せんせん ふこく)をしました。

連合軍の兵士。左から、イギリス、アメリカ、ロシア、イギリス領インド、ドイツ、フランス、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本。イギリス領インドがふくまれてるので9人いる。

欧米は、日本をふくむ8カ国[7]からなる連合軍を派遣し、義和団と清国軍と戦い、乱をしずめます。

日露戦争

日英同盟

義和団の事件のあとも、ロシアは兵力をひかず、ロシア軍は満州にいつづけました。そして、ロシアは南下政策にもとづいて、朝鮮半島や清に勢力をひろげようとしていました。義和団の乱をおさえるという名目でロシアは満州を占領しました。しかし、事件が収束した後も、ロシアは満州から撤兵しません。日本・イギリス・アメリカの3カ国がロシアに抗議して、ロシアは兵を引くことを約束しますが、じっさいにはロシアは兵をひかずにいつづけました。それどころか、ロシアは占領軍の増強をしました。

さらに当時のロシアは、ロシア国内を横断するシベリア鉄道を建設していました。もしシベリア鉄道が完成すると、軍隊の兵士や軍事物資も、すばやく送れるようになります。

いっぽう、中国大陸に利権を持つイギリスにとって、ロシアの南下政策はイギリスの利権と対立する可能性がありました。そこでイギリスは、ロシアの南下政策に対抗するため、日本とイギリスとのあいだでの同盟を1902年に結びます。この日本とイギリスの同盟を、日英同盟(英語: Anglo-Japanese Alliance(アングロ-ジャパニーズ・アライアンス))と言います。

日露戦争

1904年、日本はロシアとの開戦にふみきりました。これが日露戦争です。戦場になった場所は、朝鮮半島の周辺の海域と、満州の陸上および海域でした。

陸地での戦場では、旅順(りょじゅん)奉天(ほうてん)での戦いで、日本は苦戦のすえ、ロシアに勝ちました。

ロシア艦隊は対馬近海で連合艦隊と遭遇し、日本海南西部で撃破された。

日本海海戦では、東郷平八郎ひきいる連合艦隊[8]が、ロシアのバルチック艦隊をやぶりました。

勝敗の結果だけを見ると日本の大勝のように見えましたが、日本は大きく戦力を消耗しており、また、軍事費を使いきっていました。いっぽうのロシアでも政府に反対する革命の動きがおきはじめ、日露両国は戦争をつづけることがむずかしくなっていました。

そこで日本は状況が日本に有利なうちに講和をしようと考え、アメリカにロシアとの講和の仲立ちをしてもらい、ポーツマス条約(英語: Portsmouth Treaty)がむすばれ、日本とロシアは講和して戦争は終わりました。

小村寿太郎(こむら じゅたろう)

条約の主な内容は次のとおりです。

  1. 日本は朝鮮での優越権を認められた。
  2. 日本は南満州の鉄道の権利をえた。
  3. ロシアは樺太の南半分の領土を日本へゆずる。
  4. ロシアは旅順・大連をふくむリャオトン半島南端部の租借権(そしゃくけん)を、日本へゆずる。

しかし、この講和条約では賠償金はえられませんでした。このことが国民の反発を呼び、東京の日比谷では暴動が起きました(日比谷焼討事件)。国民からすれば、戦争で多くの負担をしたにもかかわらず、賠償金をとれないことを不満に感じていたのです。

日露戦争の前、開戦を多くの国民が支持しました。しかし、開戦に反対する意見もありました。キリスト教徒の内村鑑三、社会主義者の幸徳秋水、足尾銅山鉱毒事件の解決のために奔走(ほんそう)した田中正造がよくしられています。

与謝野晶子(よさの あきこ)

また、歌人の与謝野晶子は、戦場にいる弟を思いやる詩を書き、「君死にたまふ(たもう)こと なかれ」という詩を書き、当時の話題となりました。

「 あゝ をとうとよ 君を泣く
君 死にたもふこと なかれ
末(すえ)に 生まれし 君なれば
親の なさけは まさりしも
親は 刃(やいば)を にぎらせて
人を 殺せと をしえしや
人を 殺して 死ねよとて
二十四までを そだてしや 」

(以下省略。雑誌『明星』(みょうじょう)、明治37年(1904年)9月号『恋衣』(晶子第四歌集)所収)

韓国併合

日露戦争の勝利によって、大韓帝国でのロシアでの影響力が無くなり、韓国での日本の影響力や支配が強まりました。日本は韓国を保護国としてあつかい、朝鮮の内政や外交を指揮するための役所である統監府(とうかんふ)を置きました。初代統監には伊藤博文(いとう ひろぶみ)がつきました。

日本による韓国の保護国化にともない、さまざまな国家主権を韓国から接収したので、韓国の民族運動家からは日本はうらまれることになりました。そして、保護国化に反対する運動(義兵運動)も起こりましたが、日本は軍隊を送り、厳しく運動をおさえこみました。

そして、満州に滞在中の伊藤博文が暗殺される事件が1909年に起きました。場所は満州のハルビンで、犯人は韓国人の民族運動家である安重根(アン・ジュングン) でした。そして、1910年、日本は韓国の併合を強行し、朝鮮は日本の植民地となりました。これを韓国併合といいます。

併合により、名は「朝鮮」に変えられ、韓国統監府は「朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)」 にかわりました。

条約改正

陸奥宗光(むつ むねみつ)
小村寿太郎(こむら じゅたろう)
条約改正への流れ
おもなできごと
1858  江戸幕府が不平等な条約を結んだ
1868  (明治維新)
1871  日本の使節団が欧米を視察する
視察のさい、条約改正を訴えたが、改正してもらえなかった
1883  鹿鳴館を開き、舞踏会を行う
1886  ノルマントン号事件が起こる
1889  (大日本帝国憲法が発布される)
1894  イギリスとの間で治外法権が撤廃される
日清戦争が起こる(〜1895)
1904  日露戦争が起こる(〜1905)
1911  小村寿太郎が関税自主権の回復を達成する

ここでは少し時間を戻して、条約改正までの歴史を見てみましょう。

  • 岩倉具視(いわくら ともみ)らの視察団

1871年には、欧米諸国に視察のため送られた岩倉具視らの視察団が交渉したが、欧米は、日本の法律が近代化されていないことなどを理由にして、条約の改正をことわりました。

  • 鹿鳴館(ろくめいかん)
鹿鳴館における舞踏会を描いた浮世絵

1883年には、東京に、洋風の建物の鹿鳴館を建て、欧米人もまねいて社交のための洋風のダンス・パーティーなどもひらいてみましたが、まったく条約改正は進まず、失敗におわりました。


  • ノルマントン号事件
ノルマントン号事件の絵。ジョルジュ・ビゴー作「メンザレ号の救助」(『トバエ』9号、1887年6月)

1886年には、和歌山県の沖合いの海上で、イギリス船のノルマントン号が沈没する事件が起きました。このとき、イギリス人船長らイギリス人は、イギリス人の乗員だけをボートで助けて、日本人は助けず、日本人の乗客は、全員死亡しました。この事件の裁判は、イギリス人の領事によって、日本国内でおこなわれました。

船長は軽い罪に問われただけ[9]で、日本人の多くは、これ日本への差別的な判決ととらえ、日本では、条約改正をしようという運動が強まっていきました。この一連の事件をノルマントン号事件(英語:Normanton Incident)という。

そして、日清戦争の直前の1894年に、イギリスとのあいだで、外務大臣の陸奥宗光の交渉により、日英通商航海条約が結ばれ、治外法権をなくすことに成功しました。日清戦争で日本が勝利すると、ロシア・フランスなども治外法権をなくすことに同意しましたが、日本の関税自主権はみとめられませんでした。

そして、1911年には外務大臣の小村寿太郎の交渉によりアメリカとのあいだで日本が関税自主権を回復したのをきっかけに、アメリカ以外の各国もそれにならい、1911年に各国とのあいだの日本の関税自主権の回復に成功したのです。

  1. ^ キリスト教を「西学」とし、それに対して東洋の伝統的な価値観を「東学」といっていたことに由来します。
  2. ^ 朝鮮に出兵する場合は、お互いに事前通告を行うことなどを定めた天津条約のこと。
  3. ^ 軍のやる気のこと。
  4. ^ 当時の日本の財政収入の約3倍の金額でした。
  5. ^ ロシアは冬でも利用できる港(不凍港(ふとうこう))の確保を目指していました。そのために領土や勢力圏を南に伸ばしていました。
  6. ^ 元々は臥薪嘗胆とは、中国の古い故事に由来する熟語で、(たきぎ)の上で寝ることの痛みで屈辱(くつじょく)を思い出し(=臥薪)、にがい(きも)()めることで、屈辱を忘れないようにする(嘗胆)、ということ。高校の漢文で習う場合があります。
  7. ^ イギリス・ドイツ・ロシア・日本・アメリカ・フランス・イタリア・オーストリア。
  8. ^ 戦前の日本海軍の主力艦隊のこと。
  9. ^ 船長は禁錮刑(きんこけい)3ヶ月の判決を下されただけでした。

明治の経済の変化と文化

財閥

明治のはじめごろ、政府は工業をさかんにするため、官営の工場を経営していました。しかし、これらの工場経営は財政の負担になっていました。そこで、西南戦争後から政府は官営工場の民間の会社へ安く売り払うようになります。

この払い下げをうけた会社が、三井・三菱・古河(ふるかわ)などでした。これらの企業はいろいろな業種の会社を持つ大会社になっていきます。そして、財閥(ざいばつ)と呼ばれるようになります。

日本の産業革命

明治時代の日本の重要な輸出品は生糸や綿糸でした。それを大量に作るために、イギリスから輸入した紡績機(ぼうせきき)を導入します。イギリスの紡績機は、蒸気機関を動力として用いる、最新の紡績機でした。日本でも、紡績機を改良していきました。こうして、繊維工業を中心に、日本の軽工業は発展していきました。原料の綿などは、中国(清)やインドなどから安い値段のものが輸入され、そのため日本の農家は打撃を受けました。

1901年に、日清戦争の賠償金をもとにたてられた八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)の操業が北九州で始まります。八幡製鉄所は、日本での重工業の発展のきっかけになりました。

一方で、自分の土地をもたない小作人が増えました。主に指摘される点は以下のとおりです。

  1. 地租改正によって、現金で払う税金になり、現金収入が少ない農民は借金などで土地を手放さざるをえなくなっていった。
  2. 1880年代ごろ、農作物の値段が急落して、土地を手放さざるをえない農民が増えた。

農村の収入が少ない農民は、都市に出稼ぎに出るようになりました。貧しい農家の娘などは、紡績工場などの工場などで女工としてはたらくこともありました。女工は、12時間を越えるような長時間労働・安い賃金ではたらかされました。

日本の輸出品の生糸や綿製品などは、この女工などの、安い賃金の労働によって、ささえられていたのです。

明治時代よりも少し後ですが、1925年に細井和喜蔵(ほそいわきぞう)という機械工(きかいこう)が自らの体験をもとに書いた『女工哀史』に、このような女工たちのつらい状況が書かれています。

足尾銅山鉱毒事件

1895年頃の足尾鉱山

栃木県にある足尾銅山では、明治時代ごろには、全国の生産の3分の1の銅を生産していました。しかし、鉱石の処理の安全対策が不十分なままだったので、工場からの排水には有毒物質(鉱毒)を大量に含んでいました。これが渡良瀬川(わたらせがわ)に流れ込み、川の魚が死に、農作物などは枯れていきました。

ほかにも、工場の排煙に含まれる亜硫酸ガスによって、周辺の山の木や草は枯れていき、はげ山になりました。そのせいで洪水もおきやすくなり、鉱毒でよごれた川の水が広がっていき、ますます被害は拡大しました。さらに、人間も病気になっていった。眼病にかかったり、胃などの内臓の病気にかかっていった人がふえ、鉱毒によると思われる死者も増えました。

田中 正造

衆議院議員の田中正造(たなか しょうぞう)は、これらの原因は足尾銅山の鉱毒のせいであるとして議会でうったえました。しかし、政府は対策を行いませんでした。

田中正造は、議員を辞めて天皇に直訴しようとしましたが、天皇の近くで警官に取り押さえられました。しかし、直訴のことが新聞などに報道され、鉱毒事件が世間に広く知られるようになります。

足尾銅山鉱毒事件は日本最初の公害事件とも言われています。

明治の学問や文化の変化

自然科学

  • 医学
    • 北里 柴三郎
ペスト菌の発見。破傷風の血清療法(けっせいりょうほう)の発見[1]。破傷風という病気の治療法を開発し、そして北里の名前は世界に広まり、また、日本の医学も世界に認められていきました。また、北里は、日本で伝染病の研究所(北里研究所)をつくりました。
    • 志賀 潔
赤痢(せきり)菌の発見。
    • 野口 英世
始めヘビ毒の研究や梅毒(ばいどく)などの研究をしました。その後、野口は原因不明の黄熱病(おうねつびょう)の研究のため、その病気の発生地帯の南米のエクアドルやガーナなどに渡り、現地で研究をつづけていましたが、野口みずからが黄熱病に感染してしまい、なくなりました。

文学

明治時代になると、江戸時代までの勧善懲悪(かんぜんちょうあく)[2]ものなどにかわって、普通の人々のくらしや気持ちを描いた小説が流行ってきました。

このころに夏目漱石(なつめそうせき)樋口一葉(ひぐちいちよう)森鴎外(もりおうがい)などの小説家が登場しました。

夏目 漱石は、もともとは教員の仕事についていて、主に英語を教えていました。そのため、彼の作品も教員としての経験や英文学の知識をもとにした手法の作品が多いのが特徴です。漱石の作品としては、『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』などの作品が有名です。

樋口一葉は女性の小説家で、この時代の女性の姿をいきいきと描きました。代表作は『たけくらべ』、『にごりえ』などです。

森鴎外は陸軍軍医のかたわら、ドイツでの留学体験を元にした「舞姫」や古い説話を元にした「山椒大夫(さんしょうだゆう)」などの作品を発表しました。

俳句と短歌では、夏目漱石の友人でもあった正岡子規が活躍しました。雑誌『ホトトギス』で俳句の、評論『歌よみに与()る書』で短歌(和歌)の近代化をはかりました。

他には、与謝野晶子(代表作は『みだれ髪』「君死にたまふことなかれ」)、石川啄木(たくぼく)(代表作は『一握の砂』)などがこの時代の代表的な歌人です。

  1. ^ 治療法につかわれる「血清」(けっせい)という医学技術は、小学校の範囲外だが、学習マンガとか見れば書いてあると思うから、読者の小学生はそういう本で勉強してください。
  2. ^ 善玉が最後には栄え、悪玉は滅びるという筋書きの物語。

第一次世界大戦

ヨーロッパの参戦国 同盟国(赤紫)、連合国(薄緑)、中立国(黄)。

第一次世界大戦は、ドイツ・オーストリア・トルコなどの陣営と、イギリス・フランス・ロシアなどによる陣営との戦争です。

遅れて近代化したドイツは、急激な勢力拡大をはかりましたが、すでに広い植民地などを持っていたイギリス・フランスとの対立も激しくなりました。そこで、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国は三国同盟を結びました[1]。のちに、ドイツと協力したオーストリアやトルコなどの国々は同盟国と言われます。対してイギリス・フランス・ロシアは三国協商を結び、これらの国々は連合国と言われます。

このように、ヨーロッパの列強諸国が対立を深める中、ヨーロッパ南東部でルーマニアやギリシャなどの国々があるバルカン(Balkan)半島の支配をめぐって、オーストリアとロシアが対立するようになりました。多くの国や民族があるバルカン半島では多くの戦争や紛争があり、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と言われていました。

1914年、オーストリアの皇太子の夫妻がボスニアの首都のサラエボをおとずれていたときに、皇太子夫妻が暗殺される事件が起きました。この暗殺事件をサラエボ事件といいます。この事件の犯人はオーストリアによるボスニアの支配に反対するセルビア人の青年でした。

この事件に対する報復として、オーストリアが1914年にセルビアに宣戦布告したのが、第一次世界大戦のきっかけです。そしてオーストリアの同盟国のドイツはオーストリアを支持しました。いっぽう、ロシアはセルビアの支持をしました。ロシアと協力関係にあったフランスやイギリスも、ロシアの支持を通して、セルビアを支持しました。こうして、世界の多くの国々をまきこむ大戦となったのです。

この戦争で、毒ガス、潜水艦(せんすいかん)、戦車や飛行機が新兵器として登場し、被害をさらに大きくしていきました。

日本はイギリスと日英同盟をむすんでいたままなので、イギリス側である連合国の側に立って参戦しました。しかし、主な戦場であるヨーロッパから遠かったので、中国大陸の青島(チンタオ)にあったドイツの基地を攻撃・占領しました。

ロシア革命

世界大戦のさなか、ロシアでは革命が1917年に起きました。

ロシアでは、日露戦争のころから、ロシア皇帝の圧政に反対する運動がありましたが、第一次世界大戦による物資の不足などで国民生活が苦しくなり、ますます皇帝政治に対する反対運動が強まっていました。

そして1917年3月に、労働者の抗議などの運動が起こり、軍隊もこの運動に同調しました。もはや皇帝を守るものはなく、ロシア皇帝のニコライ2世は退位しました[2]。こうして新しい政府ができましたが、戦争は続き、労働者たちの不満は高まる一方でした。そして、11月にはレーニンを指導者とするボルシェビキが革命を起こし、政権を握ります。この一連の革命をロシア革命といいます。

1918年に革命によってできた政権はドイツ側と講和し、いち早く第一次世界大戦からぬけました。しかし、社会主義の広がりを警戒する国々が、ロシア国内の革命に反対する勢力を支援し、ロシアは内戦になりました。また、日本のように直接軍隊を送った国もありました(シベリア出兵)。

しかし、内戦は革命政権が勝利し、1922年に世界初の社会主義政権であるソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が建国されました。

アメリカの参戦と戦争の終結

1917年、アメリカがイギリスの側として参戦しました。アメリカから支援された大量の物資や武器などにより、イギリス側の連合国が有利になりました。

一方、ドイツ国内でも長引く戦争への不満が高まっていました。そして、1918年にドイツでも革命が発生し、連合国に降伏しました。こうして、アメリカ・イギリス・フランスの連合国が勝利して、第一次世界大戦は終わりました。

戦後処理

フランスの首都のパリで開かれた講和会議であるパリ講和会議で、ドイツとの間で戦後の処理のための条約として、ベルサイユ条約(フランス語:Traité de Versailles) がむすばれました。条約の主な内容は以下のとおりです。

  • ドイツは多くの賠償金をはらう。
  • ドイツが海外に持っていた植民地はすべて放棄する[3]
  • ドイツの領土の削減。
  • ドイツの軍備の厳しい制限。

こうして、ドイツは大幅に国力を落としてしまいます。

国際協調の流れ

国際連盟の設立

アメリカ大統領ウィルソンの提案によって、平和を目的とした国際連盟(英:League of Nations)の設立が決まり、1920年に、国際連盟が設立されました。国際連盟の本部はスイスのジュネーブに置かれました。スイスは中立国なので、国際機関の本部の場所として良いだろうと考えられ、スイスが国際連盟の場所に選ばれたのです。

国際連盟をリードする常任理事国は、イギリス・フランス・イタリア・日本となりました。

しかし、提案したアメリカは、議会の反対により、国際連盟には加盟しませんでした。また、第一次世界大戦の敗戦国であったドイツと社会主義政権のソ連は、当初は加盟を許されませんでした。そのため、世界の有力な国々の一部が欠け、その影響力は限られたものにとどまりました。

新渡戸稲造(にとべ いなぞう)

日本人の新渡戸稲造(にとべ いなぞう)が、国際連盟の事務局の次長[4]として選ばれました。

軍縮会議

ワシントン会議

第一次世界大戦の反省として、かぎりなく軍備を拡大したことが問題になりました。また、ひたすら大きくなっていく軍事費は各国の大きな負担となっていました。

そのため、各国がおたがいに軍備の保有量を減らして少なくするという軍縮(英:Disarmament)のための会議が、1921年末から1922年初までアメリカのワシントンで開かれました。この会議を ワシントン会議(Washington Naval Conference) といいます。

このワシントン会議によって、各国の海軍の軍事力をへらすことが決まりました。

具体的には、イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの軍艦の主力艦[5]の保有トン数の比が、

イギリス:アメリカ:日本:フランス:イタリア = 5 : 5 : 3 : 1.67 : 1.67

と、決まりました。しかし、中小の軍艦についての制限は決められませんでした。

他にも、日本・アメリカ・イギリス・フランスによる、太平洋における各国領土の権益を保障した四カ国条約が結ばれ、それにともなって日英同盟は廃止されました。また、交渉の結果、日本は山東省を中国(中華民国)に返還しました。

軍縮によって、軍事費の増大にこまっていた日本の政府は助かりました。しかし、日本国内の一部の強硬派には、軍縮に不満をもつ勢力もありました。

このようなワシントン会議によって決まった国際社会の体制を ワシントン体制(ワシントンたいせい、Washington Naval Treaty) といます。

参考:ロンドン会議

ワシントン会議では、補助艦[6]の保有トン数の制限については、決まっていませんでした。そのため、かえって補助艦を大量に開発・建造するようになりました。そこで、1930年のロンドン会議(英:London Naval Conference)では、補助艦の保有トン数の制限が

イギリス:アメリカ:日本 = 10 : 10 : 7[7]

の比率と決められました。

これも日本にとっては決して悪い内容ではありませんでしたが、イタリアとフランスが一部だけの参加に止まったこともあり、海軍の一部は政府の方針に不満を高めました。また、一部の政治家も「政府が軍の規模に関与するのは憲法違反だ」として、問題視しました[8]。このことが後に、軍の暴走を政府が止められなくなる原因の一つとなります。

民族自決への運動

第一次世界大戦の戦後処理で、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「民族自決」という「どの民族も、他の民族から支配されるべきではない」という思想によって、オーストリアからはハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビアが独立し、ロシアからもポーランドやフィンランドが独立しました。

しかし、この民族自決の思想は、ヨーロッパの民族にだけしか適用されず、アジアやアフリカなどは、植民地のままでした。そのため、アジアの各地で独立を求める運動が活発化しました。


  1. ^ 後にイタリアは同盟から離脱し、かわりにトルコが同盟に加わります。
  2. ^ ニコライ2世とその一族は、後のソヴィエト政権により処刑されます。こうしてロシアの帝政は終わました。
  3. ^ 大戦前にドイツが持っていた中国の山東省の権益や、太平洋の南洋諸島の権益は、日本が受け継ぐことになりました。
  4. ^ 「次長」というのは役職のひとつで、二番目ぐらいにえらい役職です。
  5. ^ ここでは戦艦と同じ意味です。戦艦は巨大な砲と硬い装甲(そうこう)で戦う、当時の海軍の主力です。
  6. ^ 巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などの中小の軍艦のことです。
  7. ^ 正確には6.97。
  8. ^ この問題は、1.軍は内閣(政府)から独立して天皇に直属している(統帥権)、2.このことは大日本帝国憲法第11・12条で定められている、3.軍の規模に内閣(政府)が関与するのは大日本帝国憲法第11・12条違反であり、統帥権を侵害するという解釈によります。このことを統帥権干犯問題といいます。詳しいことが知りたい場合にはw:統帥権#統帥権干犯問題を読んでください。

大正時代の社会の変化

世界大戦による日本の好景気

第一次世界大戦の被害を、日本とアメリカは、ほとんど受けませんでした。またヨーロッパは戦争のため、中国などのアジア市場に手が回らず、そのため日本がアジア市場を、ほぼ独占できました。

さらに軍需品や船などの需要が増え、軍事産業や造船業などの重化学工業がさかんとなりました。このため、日本の産業全体が活発化して好景気になりました。この第一次世界大戦による日本の好景気のことを、「大戦景気」といいます。重化学工業や運送の担い手の中には、急に大金持ちになるものが出てきました。彼らは、将棋で「歩」が「と金」になることにちなんで、「成金」と呼ばれました。

しかし、ヨーロッパでの世界大戦が終わり、ヨーロッパの産業が回復してくるにつれて、日本は不景気になっていきました。1920年には、多くの会社や工場が倒産しました。成金と呼ばれた人々の多くもこの時期に没落しました。

関東大震災

京橋の第一相互ビルヂング屋上より見た東京日本橋および神田方面の、ひさんな状況(じょうきょう)

1923年に、関東地方で東京と横浜を中心に大地震(だいじしん)が起きました。この地震を関東大震災(かんとう だいしんさい)といいます。死者・行方不明者は14万人以上でにのぼりました。

当時の日本は第一次世界大戦の後の不景気の最中でしたが、この地震による被害で、景気はさらに悪くなっていきした。

なお、この地震で「朝鮮人が反乱をくわだてている」という内容のデマが飛び交い、不安にかられた民衆らが、朝鮮人[1]、社会主義者、さらに地方出身者[2]を殺害する事件が起きました。

大正デモクラシー

護憲運動

1913年、これまでの薩摩・長州出身者を中心とした藩閥政治(はんばつ せいじ)を批判し、大日本帝国憲法にもとづいて選挙で選ばれた議員と彼らが所属する政党による政治を主張する運動が広がっていきました。これを主導したのが、立憲政友会の尾崎行雄(おざき ゆきお)、立憲国民党の犬養毅(いぬかい つよし)でした。これに対して、当時の首相・桂太郎は議会を開かないことで対抗しましたが、このことがかえって民衆の反発を招き、桂内閣は総辞職に追い込まれました。

この運動のことを第一次護憲運動といいます。

米騒動と政党内閣

好景気にともない、物価が上昇しました。特に戦争により米の輸入が減ったこともあり、米の価格は急上昇していきました。 米の価格が上昇すると、米の値上がりを期待して取引で(もう)けようとする商人などがあらわれはじめ米の買い占めがおこり、米の価格の上昇に歯止めがかからなくなりました。米が急に値上がりした一方、働く人々の給料はほとんど変わらなかったため、米が買えなくなりました。また、かわりの穀物(こくもつ)も、すぐにはできないので、庶民は食べ物にこまりました。

1918年には、富山県で主婦たちが米屋に安売りを要求して暴動がおきたことをきっかけに、全国で米の安売りをもとめる暴動が起きました。これら一連の米に関する騒動(そうどう)を、米騒動(こめそうどう)といいます。

当時の首相であった寺内正毅(てらうち まさたけ)は、この米騒動により議会で辞職に追い込まれました。

原敬(はら たかし)

そして、立憲政友会の総裁の原敬(はら たかし)が内閣総理大臣になります。原はこれまでの政治家とちがって爵位(しゃくい)を持っていなかったため、平民宰相(さいしょう)と呼ばれました。また、この内閣は主な大臣が原の所属する立憲政友会から選ばれ、本格的な政党内閣が始まりました。

しかし、この政党内閣は4年で終わりました。また、このころから活発になった普通選挙を求める声に対しても原は消極的でした。

普通選挙法と治安維持法

1923年に成立した内閣[3]のほぼ全ての閣僚は選挙で選ばれない貴族院議員でしめられました。そのため、再び憲法にのっとった政治を求める運動が起こります(第二次護憲運動)。

1924年に憲政会の党首だった加藤高明(かとう たかあき)が首相になります。1925年には、普通選挙法を成立させ、選挙公約であった満25才以上のすべての男子に選挙権を与えること(普通選挙)が実現しました。しかし、女子にはまだ選挙権はありません。

1928年に、第一回の普通選挙が行われました。

また、暴力的な革命運動を取り締まる目的で治安維持法(ちあん いじほう)も普通選挙法と同じ1925年に成立しました。治安維持法を制定した背景には、普通選挙によって社会主義政党が勢力をのばすことを防ぐためであったといわれています。

しかし、治安維持法は、実際には社会主義革命とは関係のない運動も取り締まるために用いられ、のちには政府に批判的な意見をした人たちを弾圧するために悪用されました。

女性の政治参加

平塚らいてう

当時、女性が政治に関わることは厳しく制限されていました。また、普通選挙法が成立したのちも、女性には選挙権は与えられませんでした。

しかし、女性の地位の向上や、女子の選挙権の獲得を目指す女性解放運動が、平塚らいてう(ちょう)などにより主張されました。

平塚らいてうは市川房江と協力して、新婦人協会をつくり、女性の地位向上の運動を進めました。

  1. ^ 当時は韓国併合後の時代だったので、日本に働きにきていた朝鮮人がいました。
  2. ^ 方言やなまりのせいで「日本人ではない」とみなされたのです。
  3. ^ 清浦内閣。中学受験ではまず出ません。

動揺する国際社会

世界恐慌

第一次世界大戦によって、イギリスやフランスなどのヨーロッパの国々が大きく力を落としました。一方、アメリカは直接戦争の影響を受けなかったうえに、ヨーロッパ諸国の代わりに様々な工業製品を作るようになり、これまでにない好景気となりました。こうして第一次世界大戦後はアメリカが世界経済や国際政治の中心地になったのです。

アメリカの金融取引所のウォール街(ウォールがい、場所はニューヨークにある)で、騒然(そうぜん)とするアメリカ人たち。

ところが、1929年、アメリカで株価が大きく下がりました[1]。この株価の大暴落(だいぼうらく)をきっかけに、世界的な不景気になり、世界中で多くの会社が倒産したり銀行が破綻(はたん)して、世界中で失業者が増えました。このアメリカの株価の暴落がきっかけになった世界の不景気を世界恐慌(せかい きょうこう)(英:world economic crisis(ワールド・エコノミック・クライシス))といいます。

日本の状況

日本では世界恐慌の前から、第一次世界大戦の好景気で急成長した会社の倒産があいつぎ、銀行も多額の不良債権[2]を抱えて経営が厳しくなっていました。そんな中で大蔵大臣[3]の失言がきっかけとなって新しい財閥の鈴木商店が倒産し、いくつもの銀行が閉鎖または休業に追い込まれました(金融恐慌)。その不景気から回復しようとしたところにアメリカで恐慌が発生し、深刻な大不況におちいります(昭和恐慌)。

立て続けに起きた二つの恐慌によって多くの会社が倒産しましたが、三菱・三井・住友などの財閥は倒産した会社の事業を吸収し、さらに巨大な企業になりました。一方で、失業者は増え、仕事に就いている労働者も生活はますます苦しくなりました。そのため、リストラや賃金カットに反対する労働運動が激しくなっていきます。

また、農村でも混乱が起きていました。1930年には、豊作で米の価格が暴落し、農家の生活がくるしくなりました。翌年の1931年には、逆に凶作となり、東北地方を中心に、農村の不況はより一層深刻となりました。食事を満足にとれない欠食児童(けっしょくじどう)がでたり、娘を身売りさせる家も出てきて社会問題となりました。小作農による小作料の引き下げなどを要求する小作争議の数も大幅に増えました。

こうした中で、政党に属する政治家たちは政争をくりひろげ、経済政策も失敗したため、政党政治に対する失望感が広がりました。

同じころ、前で説明した軍縮に一部の軍人たちが反発し、軍部からも政党を敵視する見方が強くなりました。

ドイツの状況

ドイツでは第一次大戦の賠償で国家財政が苦しくなっていました。そうした中で大恐慌がやってきたので、ドイツの貨幣の信用はいちじるしく低下し、物価がすさまじい勢いで上昇しました[4]

このような状況のため、ドイツ経済は大混乱になり、失業者があふれました。

ブロック経済

イギリスやフランスのように植民地を多く持つ国々は、本国と植民地とのあいだだけで自給自足する経済体制とするため、外国からの輸入品には高い税金(関税)をかけて、外国の輸入品を締め出そうとしました。このようにして植民地と本国だけからなるブロック内で自給自足することをブロック経済といいます。

こうなると、日本やドイツなどの、あまり大きな植民地をもたずに、貿易による輸出で収益をあげていた国は、輸出量が大きく落ち込み、経済がますます悪化していきました。

そのため、日本は満州、さらに中国に勢力をのばし、権益を広げようとしました。そして、ドイツではベルサイユ条約で厳しい条件をおしつけたイギリス・フランスに対する反感が強くなっていきました。

ソ連の状況

一方、ソビエト連邦は計画経済(五か年計画)を実行していたため、世界恐慌の影響を受けずに経済発展していきました。そのため、当時の指導者だったスターリンの神格化を進め、ソ連型社会主義への期待を高めることになりました。

中国の変化

蒋介石

同じ頃、中華民国では、孫文の死後、国民党内部で権力争いが起きました。そして、その争いに勝った蒋介石(しょう かいせき)が国民党を支配しました。蒋介石は、国民党による中国大陸の統一を目指した武力行動を行い、勢力を拡大していきました。そのため、国民党と日本とのあいだで、満州の権益をあらそうことになります。

また、ソ連の指導を受けて中国共産党も結成されました。中国共産党は、当初国民党と協力していました(国共合作)が、後に対立するようになります。

ファシズムの台頭

いっぽう、ヨーロッパでは、第一次大戦で植民地および領土を失ったドイツと、もとから植民地の少ないイタリアを中心に、イギリスやフランスなどを敵視する勢力が強くなりました。

ヒトラー

とくにドイツでは、第一次大戦による賠償金などで経済が苦しかった上に、世界恐慌により、ドイツの貨幣の価値が暴落しました。そのため、ドイツ国内ではベルサイユ条約に基づく国際秩序への不満が高まりました。こうした中で、ヒトラー(Adolf Hitler アドルフ=ヒトラー)率いるナチス(ドイツ語:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)がドイツ国民の支持をあつめて、1932年の選挙で、ナチスが政権を手にします。1934年にはドイツの憲法を無視して独裁体制をつくり、翌年1935年にはベルサイユ条約からドイツは離脱しました。ドイツの国民はヒトラーの、このような政策を支持しました。ベルサイユ条約ではドイツの軍備が規制されていましたが、条約から離脱したためドイツは再び軍備を強化していきました。

  1. ^ このアメリカでの暴落が起きた日が木曜日だったので、「暗黒の木曜日」とよばれました。
  2. ^ 返ってこない可能性が高い貸付金のこと。
  3. ^ 現在の財務大臣。
  4. ^ このように、物価の上昇が極端に激しくなる状態をハイパー・インフレ(英:Hyperinflation) といいます。

中国との戦争

満州事変

満州国の位置。Manchukuoが満州国。1939年ごろ。

中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に満州国(まんしゅうこく)が建国されます。

満州事変にいたるまで

殺された、張作霖(ちょう さくりん)

中国では、辛亥革命のあと、各地で、「自分こそが中華民国の正当な支配者である」と主張する多くの軍閥が、おたがいに、あらそっていた。

孫文のつくった国民党と、そのあとをついで国民党の支配者になった蒋介石も、当時は、そのような軍閥の一つにすぎない。中国の国民は、だれも選挙で蒋介石をえらんではいない。当時の中国に選挙の制度なんて無い。

満州を支配していた中国人は、張作霖(ちょう さくりん)という満州地方で軍閥をひきいていた人物だった。張作霖は、満州および北京を支配していた。

満州の軍閥の張作霖は、日本と協力することで日本を利用して、満州を実質的に支配していた。


いっぽう、中国大陸の南部では、国民党の蒋介石が南京を中心地に支配していた。

蒋介石は、中国の統一を目指し、張作霖ひきる北京政府を倒す戦いを始めた。この蒋介石のたたかいを 北伐(ほくばつ) と言う。

蒋介石ひきいる北伐軍が北京にせまってきたので、張作霖は北京から奉天に引き上げようとした。その列車の中で、張作霖は日本の一部の軍人の陰謀により爆殺される。張作霖が、日本のいうことを聞かなくなってきたので、かれを殺害しようとする陰謀だった。

この爆殺事件を「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりん ばくさつじけん)などと言う。

だが結果的に、陰謀は裏目にでる。張作霖の息子の張学良(ちょう がくりょう)は日本に反発し、蒋介石ひきいる国民党に合流することになる。

当時の首相の田中義一らは、この爆殺事件の犯人の日本軍人たちをきびしく処罰しようとした。 だが政府は、陸軍などの反対にあい、犯人の軍人たちを、きびしく罰することができなかった。そのせいで、のちに軍人たちが政府や議会のいうことを聞かなくなっていく。


そもそも北京から北の地方の土地である満州地方などは、歴史的には、中国の土地ではない時代が多い。中華民国の前の清の時代には、たまたま満州が清を支配していた満州族の出身地だったので、清では満州は清の領土だった。また、中華民国ができた後も、中華民国が清の領土を引きつぐことになったので、国際社会からは満州は中華民国の領土だと見なされていた。

このような背景があるので、日本は直接は満州を支配せず、張作霖などを通して満州への影響力をもっていた。

満州の実効的な支配をめぐって、日本の軍部と蒋介石と張一族などの軍閥とが、あらそった。

満州の住民は、だれも支配者を選挙で選んでいない。日本の進出が満州住民からは選挙で選ばれてない。また蒋介石の満州進出の方針も、べつに満州住民から選挙で選ばれたわけではないし、張一族も満州住民から選挙されてはいない。

日本は、はじめは、まだ満州を占領していない。そもそも満州に日本軍をおくようになったキッカケは、日露戦争の勝利によって、鉄道などの権益をロシアから日本がゆずりうけ、その権益をまもるために満州に日本の軍隊がおかれたのであった。

よって、そもそも日本政府は満州の領有をめざしていなかった。このため、満州事変をおこしたのは、けっして日本政府の命令ではなく、現地の日本軍の軍人が勝手に満州事変を行ったのである。

満州事変

満州現地の日本軍の関東軍(かんとうぐん)は、軍閥や国民党よりも先に満州を占領しようと考えた。

溥儀(ふぎ)

そのために、南満州鉄道(みなみ まんしゅう てつどう)の線路を関東軍が爆破しました。この自作自演の事件を 柳条湖事件(りょうじょうこ じけん) といいます。

関東軍は、この柳条湖事件を中国側のしわざだと断定し、奉天などの都市を占領し支配下においた。

そして1932年に、日本軍は満州国の建国を宣言した。

日本の新聞や世論は、満州国の建国を支持した。

しかし、満州は表向きは独立国とはいうものの、満州の政治は日本人がおこなっており、実際は満州は日本の領土のような状況であった。 このことから、第二次大戦後の日本の歴史教科書では、満州国のことを傀儡(かいらい)政権とか傀儡国家などと言われることが多い。傀儡(かいらい)とは、操り人形(あやつりにんぎょう)のことである。


中国との戦争中のできごと
おもなできごと
1931  満州事変
1932  満州国が成立
同じ年に、日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(五・一五事件)が起きる
1933  国際連盟、満州国の独立を認めないと決議する
日本は国際連盟を脱退する
1934  日本、満州国に皇帝・溥儀(ふぎ)を就任させる
1936  日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(二・二六事件)が起きる
1937  日中戦争が始まる
日本軍はペキンやナンキンなどを占領する
1941  日本が、アメリカ・イギリスなどを相手に戦争(太平洋戦争)を始める
1944  空襲(くうしゅう)がはげしくなり、集団疎開(しゅうだん そかい)が始まる
1945  広島と長崎に原爆が投下される
日本が敗戦(はいせん)をみとめ、戦争が終わる

このとき日本本土(ほんど・・・満州や朝鮮などの「外地」に対し、本州などを「本土」と言う。)の政府は、中国とは戦争をしない方針だった。なぜかというと、イギリスが中国を支持していたため、イギリスと戦争したくない日本政府も中国とは戦争しない方針だった。

しかし、満州の日本人居留民への中国人からの暴力事件などがあいつぎ、日本の世論が中国と協調しようとする日本政府を弱腰だと批判したこともあり、このような背景のもと陸軍は事変を強行して満州を占領をしていき、満州国の建国を宣言した。そして、清朝の最後の皇帝であった 溥儀(ふぎ) を、満州国の元首(げんしゅ)にさせた。

この一連の満州国の建国にいたるまでの事件および前後の事件を 満州事変(まんしゅう じへん) という。

満州事変では、宣戦布告(せんせん ふこく)が無いので、「戦争」とは言わずに「事変」(じへん)と言います。

政党政治の終わり

五・一五事件を報じる朝日新聞

このころ(1932年)、日本政府は満州の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。しかし1932年の5月15日、日本海軍の一部の青年将校らが総理官邸に乱入して、首相の犬養毅(いぬかい つよし)を殺す事件をおこした。この一部の海軍軍人が首相を殺害した殺人事件を五・一五事件(ご・いちご じけん) と言う。

犯人の軍人たちは、法律で処罰されることになりましたが、当時は政党の評判が悪く、世論では刑を軽くするべきだという意見が強くなりました。そのため、犯人の軍人への刑罰は軽いもので済みました。このような決定のせいで、軍人による、政治に圧力をくわえるための事件が、ふえていくことになります。

犬養毅のあとの首相は、しばらく軍人出身や官僚出身の首相がつづき、第二次世界大戦のおわりまで政党出身の首相は出なくなった。現在(2019年)の学校教科書などでは、このような理由もあり、五・一五事件で政党政治が終わった、と言われています。

リットン調査団

柳条湖付近での満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団。

中国政府は、日本の満州での行動は不法である、と国際連盟にうったえた。そして、国際連盟による調査がおこなわれることになったので、イギリス人の リットン を委員長とするリットン調査団(リットンちょうさだん、英:Lytton Commission) が満州におくられた。

そして、リットン調査団は、日本と中国の両国がうけいれられるようにと、日本の権益をまもるための警備行動をみとめつつ、中国の領土として満州を自治共和国にするという、日中両国に気を使った提案(ていあん)をした。

しかし、日本の世論および政府は、リットン報告書(リットンほうこくしょ、英:Lytton Report)の日本に有利である意図を理解せず、報告書が満州国の建国をみとめるべきでないと主張してることからリットン報告を日本に不利な内容とおもい、報告書の提案に反発しました。

日本から国際連盟におくられた全権の松岡洋介(まつおか ようすけ)は脱退に反対し、収集のための連盟での演説に努力をした。

しかし、この間にも、満州では陸軍が占領地を拡大していき、日本は国際的な信用をうしないました。、日本は国際的に孤立していき、ついに日本は1933年(昭和8年)3月に国際連盟から脱退しました。

なお、日本と中国とのあいだで、1933年5月には停戦協定がむすばれ、満州事変は、ひとまずは、おわった。

建国後の満州国は、日本からの投資もあり好景気になって経済や工業が発展していき、工業国になっていき、満州では自動車なども生産できるようになった。


日中戦争

1937年7月、北京(ペキン)にある盧溝橋(ろこうきょう)という地区で訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれ、戦闘になりました。この事件を盧溝橋事件(ろこうきょう じけん)といいます。盧溝橋事件で打ち込まれたといわれる銃弾の発砲者は、共産党軍(今の中華人民共和国、中国)だという説や、日本軍(今の日本国、日本)や中国軍(今の中華民国、台湾)だという説など、さまざまな学説が対立しており、まだ判明していません。

そして、これを口実に日本は軍をさらに送り、事実上の戦争になりましたが、当時は「北支事変」(後に支那(しな)[1]事変)と呼びました。もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいたのです(中国側も同様の理由で「事変」という語を用いませんでした)。この戦闘をもって、日中戦争(にっちゅうせんそう)の始まりと考える日本の学説や教科書もあります。

なぜ盧溝橋に日本軍がいたかというと、義和団の乱の事後処理について1901年にむすばれた北京議定書に基づいて、日本軍などの外国軍が、この盧溝橋の周辺に駐留(ちゅうりゅう)していました。

とりあえず、小学生がおぼえておくべきことは、

盧溝橋事件で日本軍へ向けて発砲が起きたこと。
日本軍は、これを中国軍による攻撃と考え、兵を動かしたこと。
結果、結果的には、日本軍と中国軍との戦闘がおきたこと。

小学校の段階では、「盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争が起きた」と覚えておけば、十分でしょう。

1940年の日中戦争での戦場。 (赤いところが日本が占領した場所。)

その後、上海でも戦闘が始まり、日本と中国とは全面的な戦争に入っていきます。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略しました。(おそらく日本は首都の南京をおとせば蒋介石が降伏するだろう、と考えていたのでしょう。)国民党の支配者の蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は、つづきました。

日本軍による南京攻略のとき、中国の民間人や捕虜が多数殺害されました(南京事件)。これは1937年12月から1938年初めごろまで続いたといわれています[2]

この日中戦争では、ソビエトやアメリカ、イギリス、フランスは、中国に軍事物資などを援助していて、中国側を支持していました。アメリカは、主に中国の国民党を援助しました。アメリカは援助にとどまり、まだ、戦闘には参加していません。

一方、ソビエトは、主に中国の共産党を援助しました。

南京攻略後には、日中のあいだでドイツを仲介(ちゅうかい)にした和平のための和平工作もありましたが、日中両国の両国内での強硬派の意見もあり和平はまとまらず、日中戦争はつづいていきました。

日本の戦時体制

日本政府は、1938年には、国会の手続きがなくても戦争に必要な物資や人が動かせるように、国家総動員法(こっか そうどういんほう)を定めました。

戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1941年からは米や日用品などは配給制(はいきゅうせい)になりました。

「ほしがりません、勝つまでは」とか「ぜいたくは敵(てき)だ」とか「石油の一滴、血の一滴」とか「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」とかの標語が、戦時下の日本では言われました。このような標語が戦時下で言われた背景には、日本は諸外国と比べ、資源に(とぼ)しいという事情があります。

  1. ^ 当時、日本は中国のことをこのように呼んでいました。現在は中国をけいべつするために使う言葉とされているので使用しません
  2. ^ 南京大虐殺(ぎゃくさつ)事件ともいいます。死傷者数をはじめとする実態については、研究者による調査や研究が続いていますが、いまだに全容は解明されていません。この事件は1938年初めごろには欧米のマスコミで報道され、日本軍にたいする非難がおこりました。当時の日本のマスコミは政府によって検閲されていたため、報道されることはなく、大多数の日本人は戦後にこの事件について知りました。

第二次世界大戦と太平洋戦争

第二次世界大戦

ドイツとソビエトのポーランド侵攻直後(1939年)
青いところがドイツ。
緑色が、ソビエトの勢力。
赤いところがイギリスやフランスの勢力。
ドイツのフランス占領(1940年)
青いところがドイツ。水色のところが、最終的にドイツに占領された場所。
緑色が、ソビエトの勢力。
赤いところがイギリスの勢力。

中国で日中戦争が行われているころ、ヨーロッパでは、ドイツ・イタリアと、イギリス・フランスとの間に1939年に戦争が起きた。この1939年のドイツとイギリス・フランスとの戦争に、アジア地域で行われていた日中戦争をくわえて、第二次世界大戦(だいにじ せかいたいせん,英語: World War II)と言う。

アメリカはイギリスの援助にとどまり、まだ、この1939年のときには、アメリカは戦闘には参加していない。

きっかけは、ドイツが1939年9月にポーランドに侵攻したことで、ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスが、ドイツに宣戦布告した。 こうして第二次世界大戦(だいにじ せかいたいせん)が始まった。

いっぽう、ソビエトは事前の1939年8月にドイツと独ソ不可侵条約(どくソ ふかしん じょうやく)をむすんでいた。ソ連はポーランドの東部を占領し、ドイツとソビエトでポーランドの東西を分割した。またソ連はフィンランドを侵略した。

そのあと、ドイツは、デンマークやノルウェーなどを侵略し、ヨーロッパの多くの地域を占領した。 そして、1940年にはドイツはフランスを占領した。


いっぽう、中国大陸では、日中戦争がつづいていた。

日本は、ドイツが勝利をつづけていることから、1940年にドイツとイタリアと同盟を結んだ。

すでにドイツとイタリアが同盟をむすんでいたので、これに日本も加わった日独伊三国軍事同盟(にちどくい さんごく ぐんじどうめい、独:Dreimächtepakt、伊:Patto tripartito)が1940年に結ばれたのである。日独伊三国同盟(にちどくい さんごく どうめい)とも言う。

(※ 小中高の教科書を確認したところ、「日独伊三国軍事同盟」と「日独伊三国同盟」のどちらとも用いられる。)

この日独伊三国同盟によって、イギリスは、日本の敵側になった。(フランスは、この時点ではドイツに占領されているので、はぶいた。)

また、アメリカはイギリスを支持していたので、日本とアメリカとの関係は悪くなった。


すでに1936年に、共産主義国であるソビエトに対抗するための、日独防共協定(にちどく ぼうきょうきょうてい、ドイツ語: Antikominternpakt)が日本とドイツとの間に、むすばれていた。また1937年11月にはイタリアが加入した日独伊防共協定(にちどくい ぼうきょうきょうてい)が結ばれていた。

しかし1939年にはドイツとソビエトとの間で、独ソ不可侵条約(どくソふかしん じょうやく、英: German-Soviet Nonaggression Pact)が、むすばれた。これによって、防共協定は、いったん、実効性(じっこうせい)が、なくなった。

しかし、日本とドイツはふたたび協力しあうことになり、1940年に日独伊三国軍事同盟が、むすばれたのである。

太平洋戦争

日本は、石油を輸入にたよっていた。石油がないと、軍艦などが動かせません。

しかし、日本は、油田を持つインドネシアを植民地に持つオランダとの交渉に失敗し、石油をアメリカからの輸入にたよっていた。 この当時、まだインドネシアは独立していなくて、「オランダ領東インド」(オランダ語:Nederlands-Indië、英語:Dutch East Indies)というオランダの植民地であった。

石油などの資源を確保するため、日本は東南アジアに進出しようと考え、今のベトナムやラオスやカンボジアのあたりの地である、フランス領インドシナに日本は軍をすすめました。(当時、まだベトナムやラオスやカンボジアは独立していなくて、フランスの植民地であった。)


これに対して、アメリカは、日本への石油の輸出禁止にふみきった。

アメリカにくわえ、オランダやイギリスや中国も、同様に日本への輸出を制限していたので、日本はこれを「ABCD包囲網」(エービーシーディー ほういもう)と読んだ。ABCDとはアメリカ(America)、イギリス(Britain ブリテン)、中国(China チャイナ)、オランダ(Dutch ダッチ)の4カ国のことである。

現代(2014年に記述。)では「ABCD包囲陣」(エービーシーディー ほういじん)とも言う。(英語表記は、ABCD line、または ABCD encirclement)


まだ、アメリカとは戦闘は始まってません。

日本は、アメリカと交渉をしました。しかし、アメリカからきびしい要求をつきつけられました。このときのアメリカからの要求を「ハル・ノート」(英:Hull note)と言う。アメリカの国務長官のコーデル・ハル(Cordell Hull)の名が由来。


ついに日本はアメリカとの戦争に、ふみきりました。

真珠湾攻撃で炎上中のアメリカ海軍の軍艦。戦艦(せんかん)ウェストバージニア。

日米戦争の開戦のときの日本の首相は、東条英機(とうじょう ひでき)です。

東条英機(とうじょう ひでき)
日本による占領地域の拡大(1937年から1942年)

1941年の12月8日に、日本海軍がアメリカのハワイの真珠湾(しんじゅわん、 英:Pearl Harbor パールハーバー )にあるアメリカ海軍の基地を奇襲攻撃したことで、 太平洋戦争 (たいへいよう せんそう)が始まります。真珠湾攻撃(しんじゅわん こうげき、英語:Attack on Pearl Harbor)などの、日本を中心とした太平洋方面の戦争を、太平洋戦争(たいへいよう せんそう,英語:Pacific War または Asia-Pacific War)と言う。

この真珠湾攻撃では、航空機を利用したアメリカ軍基地やアメリカ軍艦への爆撃が、大きな戦果をあげました。なので、真珠湾攻撃の以降、日米の海軍では、航空機が重視されるようになります。なお、戦争用の航空機を運ぶための軍艦のことを、空母(くうぼ、英:carrier)と言います。


この奇襲攻撃のあと、アメリカ政府は日本の外交官から日本の宣戦布告の知らせを聞いた。このため、アメリカ国内では、日本の奇襲攻撃は、だましうちだとして、アメリカで反日的な意見が強まっていった。


  • 「大東亜戦争」という、よびかたについて

当時、日本では、この太平洋方面の戦争のことを「大東亜戦争」(だいとうあ せんそう)と言ってたが、戦後になり戦勝国のアメリカが「大東亜戦争」の用語は軍国主義であると考え使用が禁止されたので、それからは太平洋戦争という表現がつかわれるようになった。

歴史学者の中には、「アジア・太平洋戦争」という用語を用いる人もいる。だが、べつに「アジア・太平洋戦争」という用語を学校の歴史の授業で用いるべきと決めたような日本国民の合意も法律も無い。

小学校のテストでは、この太平洋方面の戦争についての名前のことは「太平洋戦争」という表記を書いておけば、とくに問題はないだろう。

(※ 小中高の検定教科書を確認したところ、「太平洋戦争」(The Pacific War)と「大東亜戦争」(Great East Asia War)と「アジア太平洋戦争」のどちらとも用いられることを確認してある。2014年に記述。
第二次大戦後は「太平洋戦争」という呼びかたが一般化したので、本書では、とくに断らないかぎり「太平洋戦争」という呼びかたという呼びかたを用いる。)


  • 枢軸国(すうじくこく)と連合国(れんごうこく)

日本とドイツとイタリアの3カ国のことを枢軸国(すうじくこく、英語: Axis Powers、ドイツ語: Achsenmächte)という。いっぽうアメリカ、イギリス、フランス、ソビエト、中国の陣営を連合国(れんごうこく)と言う。

第二次世界大戦は、ドイツとイタリアと日本との枢軸国(すうじくこく)という陣営(じんえい)が、イギリスとフランスとソビエトとアメリカと中国という連合国(れんごうこく)という陣営とたたかう、戦争になった。

第二次世界大戦で、日本と戦った相手の国について、よく勘違いされやすいことがあるので、注意点をいくつか書きます。

・ 日本は、韓国とは戦争をしていません。そもそも朝鮮は日本に併合されていたので、韓国という国は当時は、ありません。朝鮮は日本の側である枢軸国の側です。戦後、韓国が日本から独立したこともあって、まぎらわしいですが、少なくとも太平洋戦争では日本と韓国とは戦争していません。
・ 日本は、台湾(タイワン)とは戦争をしていません。当時、台湾島は日本国の一部です。
・ 現代のインドネシアやベトナムやタイやミャンマーなどの、東南アジアの国は、当時はありません。当時、東南アジアは、オランダやフランスなどのヨーロッパの国の植民地でした。東南アジアの地域の先住民たちは独立を望んでいたので、植民地政策を行って先住民を支配しているオランダなどの国は、先住民たちの敵でした。
先住民と日本は、オランダやフランスなどを敵と考え利害が一致したので、先住民たちの多くは日本の側に協力しました。このことが、戦後の東南アジア各国の独立に、つながっていきます。


日米戦争の開戦のはじめごろは日本が有利だった。だが、1942年にミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん)で、日本はアメリカに負けます。このミッドウェー海戦の以降、アメリカに有利になり、日本は不利になります。

なお、日本政府では、戦局(せんきょく)の悪化にともない、首相の東条英機の指導力をうたがう意見が強くなり、マリアナ沖海戦での敗退やサイパンの敗退などがつづき、東条は議会の政治家からの支持も失い、東条内閣は総辞職に追い込まれる。 そして東条内閣のつぎには、1944年(昭和19年)7月22日から小磯國昭(こいそ くにあき)を首相とする小磯内閣(こいそないかく)が誕生し、1945年(昭和20年)4月7日まで小磯内閣がつづいた。

大東亜共栄圏

大東亜会議の出席者

日本は、資源がすくなかったので、資源を確保するために、東南アジアに日本軍が進出しました。日本軍は、東南アジア現地のオランダ軍やイギリス軍などと戦いました。

そして、東南アジアを欧米の支配から解放し、東南アジアにアジア諸民族たち自身の勢力地である 大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん) を設立するということが、戦争の表向きの目的として、かかげられました。そのため、最初は日本軍が来たことを歓迎する人も多かったのですが、日本は占領した土地でも資源をうばったり、強制労働をさせたり、日本に協力的ではない人をきびしく取りしまったりしました。やがて、そうした政策への反発から日本の支配に反対する運動がおこりました。

朝鮮半島や台湾

いっぽう、第二次世界大戦が始まったころ、朝鮮半島や台湾では、氏をつくること(創氏(そうし))を義務とし、合わせて日本風の名前を名乗ること(改名(かいめい))を勧める政策が行われました。この政策を創始改名(そうし かいめい)といいます。

また、日本国内で行われた日本人に対する徴兵(ちょうへい)により、徴兵の対象でない日本人の多くを徴用(ちょうよう)しても、それまで日本で働いていた日本人の労働者よりも少なく、労働者の数が不足したため、朝鮮半島や台湾での労働者の募集(ぼしゅう)政策を取り、国民全体の動員を図りました。

もちろん、徴用が始まる以前から働いていた日本人や、募集が始まる以前から働いていた朝鮮人や台湾人もいましたが、圧倒的に総数が足りませんでした。それほど多くの日本人が徴兵されたのです。

徴用された多くの日本人や、募集により日本に来た多くの朝鮮人や台湾人などは、日本の工場や鉱山などで働きました。きびしい労働だったと言われています。

戦争の激化により、労働環境は次第に過酷になっていきました。

日本で徴兵と徴用が行われたこのころには、朝鮮半島や台湾で、志願兵(しがんへい)の制度が作られ、志願して兵士となった若者も多くいました。戦争の終わりごろには、朝鮮半島や台湾でも徴用や徴兵制度が実行され、人々が労働者として動員されました。

志願して兵士となった人や、徴兵された人々は、日本軍の兵士として戦場に送り出されました。

日本の敗戦へ

第二次大戦の戦況は連合国に有利にすすみ、枢軸国のドイツ・イタリア・日本は不利になっていった。まず、1943年にはイタリアが降伏した。 そして、1945年5月にはドイツが降伏(こうふく)した。

  • 学徒出陣
学徒出陣(1943年(昭和18年)10月21日)

戦争で日本が不利になるにつれて、兵士が足りなくなっていった。そして1943年には、それまで徴兵(ちょうへい・・・兵士として、動員すること。)をされていなかった文科系(ぶんかけい)の大学生も、兵士として動員された。これを学徒出陣(がくと しゅつじん)という。(理科系の大学生は、徴兵されなかった。)

大阪高等商業学校(現・大阪市立大学)での軍事教練

また、学生を兵士として育てるため、小学校から中学・高校・大学まで、日本中の学校で、軍事教練(ぐんじ きょうれん)が行われました。


  • 勤労動員(きんろう どういん)


  • 空襲(くうしゅう)と疎開(そかい)

ミッドウェー海戦で日本が敗れると、戦争はアメリカに有利に進んでいきます。そしてアメリカ軍がサイパン島を占領すると、このサイパン島から飛び立ったアメリカ軍の爆撃機(ばくげきき)のB29によって、日本の各地が空襲で攻撃されるようになります。

とくに、都市が空襲の目標になることが多かったので、都市に住んでいる子どもたちは、空襲の危険からのがれるため、両親からはなれて地方へと移り住む(うつりすむ)、集団疎開(しゅうだん そかい)を させられました。


  • 東京大空襲(とうきょう だいくうしゅう)
東京大空襲で焼け野原となった東京。

1945年3月10日の東京大空襲(とうきょう だいくうしゅう、英:Bombing of Tokyo)では、約10万人の人が亡くなった。

民間人への爆撃である無差別爆撃(むさべつ ばくげき)は、戦時国際法(せんじ こくさいほう、英: Law of War)に違反している。

  • 沖縄戦(おきなわせん)

1945年4月1日には、アメリカ軍が沖縄(おきなわ)本島(ほんとう)に上陸し、地上戦になった。 沖縄県民の10万人以上が亡くなりました。アメリカ軍は沖縄を侵略(しんりゃく)した。

  • 原子爆弾(げんしばくだん)
長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲
1945年8月9日
原爆投下後の広島のようす。

アメリカは1945年の8月6日に広島に原子爆弾(げんし ばくだん、 略して原爆(げんばく)とも言う。 )を おとした。広島の街は一瞬で破壊され、広島では10万人をこえる一般市民が亡くなった。また9日には長崎に原子爆弾がおとされた。長崎では8万人ほどが亡くなった。

  • ソ連の参戦

8月8日、ソビエトは日ソ中立条約をやぶって満州に攻め込んだ。

  • ポツダム宣言

日本は、アメリカ・イギリス・中国(中華民国)・ソビエトの代表が決めた日本の降伏の条件である ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英語: The Potsdam Declaration) を受け入れ、1945年の8月14日に、日本は降伏した。

1945年(昭和20年)の8月15日には、ラジオ放送で昭和天皇が国民に、日本の降伏を発表した。このときのラジオ放送を玉音放送(ぎょくおん ほうそう)と言う。

こうして日中戦争や太平洋戦闘をふくむ第二次世界大戦は、おわった。

  • 韓国の独立

いっぽう、かつて日本に併合されていた朝鮮半島では、1945年9月2日に、北緯(ほくい)38度線をさかいに、線の北にはソ連軍が進出してソ連に占領され、また朝鮮半島の南半分にはアメリカ軍が進出してきた。1948年に朝鮮半島で半島の南側には大韓民国(だいかん みんこく)が独立し、同じ年に半島の北側では北朝鮮(「きたちょうせん」、正式名称は朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせん みんしゅしゅぎ じんみん きょうわこく) )が独立する。

  • 満州国の消滅

満洲はソ連軍の軍政下に入り、そのあと中華民国に渡された。

  • シベリア抑留(よくりゅう)問題

ソビエトは1945年の8月8日に満州に侵攻し、ソ連軍は攻撃や略奪(りゃくだつ)をおこなった。ソビエト軍につかまった日本人は、軍人や民間人をとわず、満州にいた日本人はシベリアなどのソ連領に連行されて、奴隷(どれい)のような労働力として日本人が酷使(こくし)された。( シベリア抑留(よくりゅう)問題 )

このため、6万人以上の日本人が死亡しました。

このソ連によるシベリア抑留は、ポツダム宣言に違反した行為である。ポツダム宣言の条件文は、日本への条件だけでなく、戦勝国どうしにも条件をつけている宣言であり、その約束にソ連は違反しているのである。ポツダム宣言の第9項目では、武装解除した日本兵は日本に送りかえすことを、連合国どうしで約束しているのである。


  • 台湾

台湾は、中華民国に編入された。


  • 各国の第二次世界大戦での犠牲者(ぎせいしゃ)
中国 - 約1000万人
朝鮮 - 約20万人
ソ連 - 約2000万人
日本 - 約310万人、そのうち軍人が約230万人、民間人が約80万人、

その他、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、東南アジアなどで犠牲者が多数


アメリカ占領下の日本

アメリカ大使館でのマッカーサー(左側の人物)と昭和天皇(右側)(1945年9月27日フェレイス撮影3枚中の1枚)

1945年8月に日本が降伏し、日本は、アメリカ軍を中心とした連合国軍に占領されます。ポツダム宣言にもとづき、日本の民主化政策を実行します。

日本政府は、敗戦後も残りましたが、政府の上にアメリカ軍を中心とした連合国軍総司令部(れんごうこくぐん そうしれいぶ)・英語の略称でGHQジー・エイチ・キュー、General Headquarters ゼネラル・ヘッドクォーターズ の略)があるという、政治のしくみになりました。GHQの最高司令官はマッカッサーというアメリカ軍人です。

ただし、沖縄や奄美(あまみ)や小笠原諸島(おがさわら しょとう)では、アメリカが直接、統治することが決まっていました。

  • 東京裁判(とうきょう さいばん)

戦争を指導した人間は、戦争犯罪人(せんそうはんざいにん)として、裁判にかけられて、東条英機など7名が死刑になった。この戦争指導者への裁判を東京裁判(とうきょうさいばん)あるいは極東国際軍事裁判(きょくとう こくさい ぐんじさいばん)と言いいます。

戦後の改革と日本国憲法

当時の文部省の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での日本国憲法の三原則を表した挿し絵。
当時の文部省の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での戦争放棄の原則を表した挿し絵。
  • 日本国憲法(にほんこく けんぽう)

1946年には、あたらしい憲法の日本国憲法(にほんこく けんぽう)が交付された。 この日本国憲法はGHQがつくった憲法案を、修正して議会が採択したものである。

この新憲法の日本国憲法では、 国民主権(こくみんしゅけん) ・ 基本的人権(きほんてきじんけん)の尊重(そんちょう) ・ 平和主義(へいわしゅぎ) の3つの原則が掲げられた。

戦時中に政治犯として捕まっていた人などは釈放されるなどして、表向きは、アメリカの占領による言論の自由が、かかげられた。

民主的な政策も、占領下の改革では行われた。たとえば、以下のような改革が行われた。

・ 治安維持法の廃止。
・ 選挙権を拡大し、女性もふくむ、20才以上の男女に選挙権を与えた。
・ 家族における、家父長制(かふちょうせい)の廃止。それまでは、父親や長男が特別に強い権限を持っていた。しかし、家父長制を廃止する改革により、戦後は、夫婦の権利は平等になり、また兄弟の権利は平等になった。
・ 農地改革 
「農地解放」(のうちかいほう)と称して、農業の地主から土地の多くを取り上げ、その土地を小作人に与えられた。占領軍は、農業の地主と小作人の関係を封建的な関係と思ったようで、その封建的な関係が、軍国主義を助長した、と考えたようである。この農地解放は、政治的には、日本国民からの人気の多い政策だった。
だが、皮肉なことに、その後の時代の農業では機械化が進んでいったこともあり、大きな農地のほうが生産が有利になっていく。いっぽう、農地解放で小さな土地しかもたない農民がふえたことで、農業の生産性が低下した。
また、じつは、農地改革は戦前から日本政府が考えていた政策であった。真相は、日本政府が占領軍の権威をもちいて農地改革を実行しただけだった。
・ 国会では貴族院が廃止され、国会議員はすべて国民からの選挙で選ばれるようになり、また議院は衆議院(しゅうぎいん)と参議院(さんぎいん)の二院制になった。
  • 「経済の民主化」
・ 財閥解体(ざいばつ かいたい)
占領軍は、日本の財閥について、戦前に財閥が経済を支配しており、そして財閥による経済支配で戦争の総動員体制に協力したと考えた。なので、「経済の民主化」などと称して、財閥が複数の会社に分割させられた。
  • 「教育の民主化」
・ 軍国主義的と思われる教育が禁止された。一般の学校での軍事教練なども禁止された。
・ 教育勅語(きょういく ちょくご)の廃止により、教育の反・国家主義化が行われた。

そのほか、教育に関しては、義務教育が小学校6年・中学校3年の、9年間の義務教育になった。 また、教育基本法や学校教育法が定められた。

戦後の学校

  • 青空教室

空襲などで、学校の校舎(こうしゃ)が焼けてしまったので、終戦後には、授業を校庭などで行うことが多かった。このような、戦後の、外での授業のことを青空教室(あおぞら きょうしつ)という。

  • 墨ぬり教科書

戦後になり、戦前の教科書の記述の一部は軍国主義的であるとして、戦後の教育には不適切だと考えられたので、新しい教科書ができるまでの間、それまでの教科書の記述の一部に、墨ぬりが行われた。これを 墨ぬり教科書(すみぬりきょうかしょ) という。

戦後の生活

(未記述)


戦後の国際社会

国際連合

第二次大戦のときにあった連合国(United Nations ユナイテッド・ネイションズ)は、第二次大戦の戦後には、あらたな戦争をふせぐために国際政治を話しあう国際機関として1945年に作りかえられた。

この連合国の国際機関としての変化はアメリカのルーズベルト大統領の提案による。


その国際政治を話しあう場所に変化した連合国の機構が、現在(西暦2014年に本文を記述)の国際連合(こくさいれんごう、英:United Nations ユナイテッド・ネイションズ)である。

日本では、国際連合のことを、国連(こくれん)と略すことも多い。

国連の本部は、アメリカのニューヨークにある。


この国際連合(こくさいれんごう)は、戦前にあった国際連盟(こくさいれんめい、League of Nations)とは、べつの組織である。(たとえば、国際連盟League of Nations の本部はスイスのジュネーブにあった。)

また、主要国が国際政治をはなし合う場所を国際連合にかえたことで、前にあった国際連盟は、自然に消えた。


国際連盟の常任理事国は、第二次大戦の連合国の主要国である。国際連合の常任理事国は、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国の5か国である。

冷戦

第二次大戦後、世界の国々は、アメリカやイギリスを中心とする「西側」の陣営と、ソビエトを中心とする「東側」の陣営にわかれました。「西側」とか「東側」とは、ヨーロッパを中心とした地図での話だからです。ソビエト連邦のあったロシアはヨーロッパの東側にあるし、またヨーロッパ東部にはロシアに占領された地域が多かったので、このような呼び名になりました。

いっぽう、アメリカは、ヨーロッパから見れば大西洋をはさんで、西側にアメリカがあります。

この米英の西側陣営と、ソビエトの東側陣営との対立を「冷たい戦争」(つめたい せんそう)あるいは「冷戦」(れいせん、英:Cold War)と言います。じっさいには、アメリカとソ連とは、直接は戦争をしていません。ですが、まるで戦争中であるかのように対立しています。なので、熱戦ではなく、冷戦と言われてるわけです。

ソ連の経済の体制が、共産主義という、私有財産や私企業を認めない制度であったので、

冷戦は米英のような資本主義の陣営と、ソ連を中心とした共産主義の陣営との対立であるだろう、

というような見方をされることもあります。

1989年にソビエト連邦が崩壊してロシアなどのいくつかの国にわかれるまで、冷戦が続きました。

ソ連が崩壊したので、冷戦ではソ連が負け、アメリカが勝ちました。


中国の政変

ソビエトの支援を受けた中国共産党が、アメリカなどが支援する国民党と戦闘し、中国は内戦になった。そして共産党が勝利し、中国は、1949年に 中華人民共和国(ちゅうか じんみん きょうわこく) という国になった。 共産党の支配者は毛沢東(もう・たくとう)という人物であるので、毛沢東が中国大陸の支配者になった。

いっぽう、負けた蒋介石ひきいる国民党は台湾に、のがれた。

このため、台湾は中華民国になった。このころの中国は、「中華人民共和国」と「中華民国」との2つの中国が存在する状況になった。


朝鮮戦争

朝鮮半島では、1951年に北朝鮮が韓国に攻め込んで朝鮮戦争(ちょうせん せんそう、英:Korean War) がおきた。


アメリカ軍を主力とする国連軍が、韓国をたすけて、北朝鮮軍と戦闘。 中国は、北朝鮮をたすけて、中国は「義勇軍」(ぎゆうぐん)という名目で、じっさいには正規の部隊である中国軍をおくり、中国軍と国連軍とが戦闘した。

この国連軍と中国・北朝鮮軍との戦闘は、休戦協定が1953年にむすばれるまで、つづく。


  • 日本の再軍備
警察予備隊でのバズーカの訓練

朝鮮戦争により、アメリカ軍が苦しくなると、アメリカは、日本を西側の陣営にくわえようとしたので、日本の占領政策を変えました。

アメリカは日本に軍隊をつくらせようとしましたが、日本国憲法のしばりがあって軍隊をつくれないので、かわりに「警察予備隊」(けいさつ よびたい)という組織を日本につくらせました。

おそらく、「軍隊」とは呼べないので、かわりに「警察」と呼びたい、というわけなのでしょう。

警察予備隊の装備は、そのころの時代の軍隊の歩兵に近い銃火器を装備したり、また、警察予備隊の訓練はアメリカ軍の指導のもとにおこなわれたりなど、どう見ても軍隊としか思えない「警察予備隊」でした。

そのあと、警察予備隊は1952年に「保安隊」(ほあんたい)に発展し、さらに保安隊から1954年には「自衛隊」になりました。


日本国内では、憲法の建前上、自衛隊は軍隊ではない、ということになっていますが、外国は、そうは見てくれません。

たとえば、自衛隊の英訳は Self-Defense Forces セルフ・ディフェンス・フォース となってますが、Force フォース とは「軍隊」という意味です。


また、経済的には、日本はアメリカ軍から大量の物資の注文をうけたので、日本は好景気になった。この朝鮮戦争のときの好景気は、「特需」(とくじゅ)と言われた。

日本の独立

朝鮮戦争によって、アメリカは日本を西側の陣営に加えようとした。そのためアメリカは、米軍基地の存続を条件に、日本の独立をはやめようとした。

サンフランシスコ平和条約での署名式
吉田茂(よしだ しげる)

そのため講和会議がひらかれることになり、1951年9月にアメリカのサンフランシスコで講和会議がひらかれた。そして日本国は、西側陣営である自由主義諸国などの48カ国とのあいだに サンフランシスコ平和条約(英:Treaty of Peace with Japan) をむすんだ。 こうしてアメリカ・フランス・カナダ・オランダ・ベルギー・オーストラリアなどをふくむ48カ国と平和条約が、むすばれた。

このころの日本の首相は、吉田茂(よしだ しげる)である。日本国は吉田茂首相を全権にして、サンフランシスコ平和条約に調印した。

そして翌年の1952年には、日本は独立を回復し、主権を回復した。 この条約によって、GHQは廃止された。

しかし沖縄は、ひきつづきアメリカの統治下におかれることになった。

なお、ソ連とは、サンフランシスコ平和条約では、講和していない。ソ連と日本の国交回復は、1956年の日ソ共同宣言(にっそ きょうどうせんげん)で行われます。


また、サンフランシスコ平和条約といっしょに、日本国内のアメリカ軍基地に、ひきつづきアメリカ軍がとどまるための条約である 日米安全保障条約(にちべい あんぜん ほしょう じょうやく、英:Security Treaty Between the United States and Japan) が日本とアメリカとのあいだで、むすばれた。 略して「安保」(あんぽ)とか、「安保条約」(あんぽじょうやく)とか、「日米安保」(にちべいあんぽ)などと言う場合もあります。


  • 国際連合への日本の加盟

日本は、独立後も、しばらくは国際連合の加盟は出来ずなかった。なぜなら、常任理事国であるソ連が日本の加盟に反対していたからである。

しかし。1956年に日ソ共同宣言がむすばれて日本とソ連との国交が回復したこともあり、ソ連も日本の国連解明に反対をしなくなり、1956年に国際連合の加入を認められた。 日本では、この1956年の国連加盟をもって「国際社会へと復帰した。」という意見が多い。

アジアとアフリカの独立

欧米の植民地となっていた国々では、第二次大戦後に、次々と独立運動がおこり、独立していった。 アジアではインドネシアやベトナムやインドなどの国々が独立していった。


戦後の復興

高度経済成長と東京オリンピック

  • 高度経済成長(こうど けいざいせいちょう)

朝鮮戦争による特需による好景気もあり、日本経済は復興していき、工業は戦前の水準にまで、もどった。 1956年に政府が出した経済白書では「もはや戦後ではない。」とまで書かれている。

1950年代のなかごろから重化学工業が発達していった。

池田勇人(いけだ はやと)

1960年に、内閣の池田勇人(いけだ はやと)首相は、「所得倍増計画」(しょとくばいぞう)を目標にかかげた。 好景気により、日本人の所得は増え、1968年には所得が倍増し、目標が達成された。 この好景気は1970年代の前半まで、つづく。

「三種の神器」(さんしゅのじんぎ) 白黒テレビ・電気式洗濯機・電気式冷蔵庫の3つの製品が普及し、「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」が「三種の神器」と言われた。

この1960年〜1970年代ころの好景気による日本の経済力の成長のことを、高度経済成長(こうど けいざいせいちょう)と言う。

東京オリンピック。10,000メートルで優勝したミルズ(アメリカ)
  • 東京オリンピックと万国博覧会

アジアで最初のオリンピック(Olympic)が、1964年に東京で開かれた。(東京オリンピック)

また、東京オリンピックに合わせて新幹線(しんかんせん)もつくられ、東海道新幹線(とうかいどう しんかんせん)が開通した。

大阪での万国博覧会。

1970年には、大阪で万国博覧会(ばんこくはくらんかい、英: Universal Exposition, 仏: Exposition universelle)が、ひらかれた。

  • 沖縄返還

1972年に沖縄は日本に返還された。


  • 日中共同声明(にっちゅう きょうどう せいめい)

アメリカはソ連との冷戦を有利にすすめるため、中国大陸を支配している共産党の政府である中華人民共和国の政府と、1960年代ごろからアメリカは友好をむすんだ。

アメリカに軍事的に守られている日本も、このような国際的な流れに乗り、1972年の田中角栄(たなか かくえい)内閣のときに、日本は、それまで承認していた台湾の中華民国にかえて、中国大陸の中華人民共和国の政府を承認した。これにともない、日本は一方的に台湾の中華民国政府との国交を断絶した。

1952年に日本と国民党の中華民国とのあいだにむすばれていた日華平和条約(にっか へいわじょうやく)があったのだが、日本は一方的に、この日華平和条約を破棄(はき)したのである。

なお、2013年では、中華民国を国家承認している国家は22カ国である。

さて、1970年代の話に、もどる。 日本は台湾を無視し、人民共和国と日本とのあいだで、一方的に「日中共同声明」(にっちゅうきょうどうせいめい)を1972年に発表した。また1978年には、やはり台湾との友好を無視し、日本と中華人民共和国とは一方的に「日中平和友好条約」(にっちゅう こっこうゆうこうじょうやく)を結んだ。

日本では、これら一連の人民共和国との友好化のために台湾を見捨てた政策は、一方的に「日中国交正常化」(にっちゅう こっこう せいじょうか)とか「日中国交回復」(にっちゅう こっこう かいふく)などとして正当化された。


2014年の時点では、台湾の中華民国は、日本政府は承認していない国である。


  • 韓国との国交

朝鮮半島の大韓民国とは、1965年に日韓基本条約(にっかん きほんじょうやく) により、日本と韓国との国交が回復した。 なお、北朝鮮とは、2014年の時点では、まだ日本との国交は、むすばれていない。


現代の日本とその課題

中東戦争とオイルショック

1973年の第四次中東戦争により、原油の価格が値上がりした。これによって世界的な不景気になった。日本では、連鎖的に物価もあがっていった。このころの石油価格の上昇による不景気をオイルショック(オイルショックは和製英語、英語では石油危機 oil crisis オイル・クライシス)という。日本では、オイルショックにより、高度経済成長による好景気が終わった。

日本の製造業では、オイルショックに耐えるための省エネルギーの技術開発が進んでいった。

バブル経済

1980年代には、日本は世界の中でも経済大国になっていた。

1980年代の終わり頃には、土地の地下や株の株価の値上がりを期待して、取引が活発になっていった。やがて、地価や株価が値上がりがしすぎて、1991年ごろから地価や株価が下がり始めた。

株価などが下がり始めると、多くの証券会社が経営難におちいっていった。経営破綻した証券会社もある。また、銀行も株価や地価の値上がりを前提に融資の貸し出しをしていたので、株価が下がりはじめると、銀行の経営も苦しくなっていった。大手の銀行どうしは、合併などをしていって、この危機をのりきっていった。


直接は株取引をしていない企業も、株価や地価が高い好景気を前提にした事業計画を立てていたりしていたので、いったん株価が大きく下がり始めると、経営がくるしくなっていき、多くの会社が経営難におちいり、多くの会社が倒産していった。また倒産していない企業でも、従業員の解雇もふえていったり、事業の見直しによる事業の縮小や事業撤退や事業転換などが行われた。

こうして「平成不況」(へいせい ふきょう)と言われるになっていった。 「平成不況」といっても、けっして1991年以降は株価が下がりっぱなしだったわけではなくて、コンピューター業界の好景気によるITバブル(アイティーバブル)と言われる部分的な好景気も1990年代後半から2000年代前半あった。

日本の機械工業などの製造業は、この「平成不況」を技術開発によって乗り切ろうとしたので、すでにバブル崩壊の時点でも技術力の高かった日本の工業は、ますます技術力が上がっていき、現在(2014年に記述。)の日本は世界の中でも高度な技術を持った工業大国になっていった。 (バブルの前から、中国や韓国などの低価格な輸出品に対抗するため、日本の製造業は技術開発を重視していた。)

しかし、日本は技術力の高さが製造業などの一部の業界だけにとどまり、コンピュータ業界などの技術力はアメリカにおくれをとっているなどの問題もある。また電子工業では、日本企業は技術力は高いものの、その能力を商品販売にうまく結びつけられず、よって韓国や台湾などの新興国との競争に苦しめられ、日本の電子工業業界などの企業は経営が苦しくなっていってるという問題点もある。

冷戦の終了

1970年代ころから、冷戦では、ソビエトの工業がおくれはじめ、ソビエトは経済でも行きづまっていった。 1979年のソビエトによる アフガニスタン侵攻(Soviet war in Afghanistan) もあり、米ソでは軍事費が増大した。 アメリカはミサイル防衛計画などを発表し、巨額の軍事費を軍事の技術開発に投資した。ソビエトは経済がくるしいにもかかわらず、ソビエトも、アメリカに軍事的に対抗するため、ソビエトは予算を軍事費につぎこんだので、ソビエトの経済はますます苦しくなっていった。そして、ついに共産主義経済が、行きづまりそうになった。

そのため、ソビエトは改革をおこなって、経済を活性化することを考えた。

1985年にはソ連で当時の最高指導者のゴルバチョフ(ロシア語:Горбачёв、ラテン文字:Gorbachev) によるゴルバチョフ政権が出来て、そしてゴルバチョフは共産主義的な経済手法をあきらめ、市場経済の導入や、情報公開などの改革をおこなった。このゴルバチョフの改革を ペレストロイカ(ロシア語:перестройка、ラテン文字表記:Perestroika) と言う。ペレ・ストロイカとは、ロシア語で「再建」という意味である。

しかし、この改革により、ソ連の国内では自由化をもとめる声がつよまっていった。また、東欧ではソ連からの独立をもとめる声がつよまっていった。

そして、1989年に、ゴルバチョフとアメリカのブッシュ大統領とが地中海のマルタで会談し、ついに冷戦の終了を宣言した。 それからソ連は解体されていった。

1990年には、東西に分裂していたドイツが統一した。当時ドイツの行き来をさまたげていた ベルリンの壁(ベルリンのかべ、ドイツ語: Berliner Mauer) は、民衆たちによって壊された。

そして、1991年にはロシアやウクライナなどのソ連を構成していた国々が分離して独立した。ソ連にかわって、ロシアやウクライナなどのかつての構成国により、独立国家共同体(どくりつこっか きょうどうたい)が結成された。

湾岸戦争

中東では、1990年に、イラク共和国(Iraq)がクウェート国(Kuwait)に侵攻したことがきっかけで、湾岸危機(わんがん きき、Gulf Crisis)がおこり、その後、アメリカが報復のために1991年にイラクに攻め込んだ。この戦争を 湾岸戦争(わんがん せんそう、Gulf War) と言う。アメリカは外国にも参戦を呼びかけたので、アメリカを中心とする多国籍軍(たこくせきぐん、Coalition forces)が結成され、多国籍軍とイラクとの戦争になった。 アメリカをはじめとする国際社会は日本にも参戦をよびかけたが、日本は自国の憲法を理由に参戦せずに、かわりに財政援助によって多国籍軍を援助した。

勝利したのはアメリカ側である。イラクは敗北した。イラクの独裁者のサダム=フセインの政権は、戦後も続いた。

日本は、財政援助をしたにもかかわらず、国際社会からは、参戦しなかったことを理由にした低い評価がされた。

中国

中国大陸の中華人民共和国では、第二次大戦後に共産党が国民党から政権をうばってから、ずっと共産党による独裁がつづいている。

(※ この節では、たんに「中国」といったら、中華人民共和国のこととする。台湾の中華民国政権のことを言う場合には、この節では「台湾」や「中華民国」などと区別することにする。

1989年には、天安門で民主化をもとめる学生の抗議運動がおきたが、この運動は弾圧された。この天安門での抗議運動に関する事件を 天安門事件(てんあんもん じけん) と言う。

中国は、経済を活性化するために、市場経済の導入をおこなった。そして中国は経済大国に成長していった。こうして、中国は、経済の規模がアメリカにつぐ、経済大国になった。

しかし、中国では、あいかわらず民主化がなされずに共産党による独裁がつづいている。

また、中国は周辺国と領土問題でもめている。日本とは日本の尖閣諸島(せんかく しょとう)の領有に、中国は反対をしている。

2010年には、中国の漁船が、日本の海上保安庁の漁船に衝突する事件が起きた。

また、中国と東南アジア諸国とのあいだでは、スプラトリー諸島(Spratly Islands、 中国名:南沙(ナンシャー)諸島 )をめぐって、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイと領土問題がある。

アメリカ同時多発テロ

ハイジャックされた航空機の衝突で炎上する世界貿易センタービル

2001年、アメリカのニューヨークで、何者かによる航空旅客機のハイジャックによるテロ事件が起こり、多くの乗客が死んだ。その後すぐに、このハイジャック犯の正体は、アルカイダというイスラム系の過激派組織の一味だということが分かった。 このアメリカでの2001年のテロ事件を アメリカ同時多発テロ などと言う。

アメリカは、このアルカイダをかくまっていたアフガニスタンのタリバン政権を攻撃し、戦争になった。

イラク戦争

アフガニスタン攻撃の後のころ、イラクには大量破壊兵器を開発しているという疑惑があった。国連はこの疑惑を調べようとしたが、イラクは国連の調査に協力的でなかった。

アメリカはイラクが大量破壊兵器を開発していると判断し、2003年にアメリカはイラクを攻撃した。 これを イラク戦争と言う。

イラク戦争ではアメリカが勝利した。

ドイツやフランスなどは、イラク攻撃の理由が不十分だとして、アメリカの戦争には参加しなかった。

イラク戦争によってサダム・フセイン政権は崩壊した。しかし、イラクではフセインの独裁がなくなったことにより、それまでフセイン政権の軍事力をおそれていたテロ組織がイラクで活動するようになった。そして、イラク戦争後にイラクを占領していたアメリカ軍やアメリカ軍の協力者には、テロによる多くの死者が出た。

しかし、イラクは実は大量破壊兵器を開発しておらず、国連の調査に協力しなかったのは、イラクが大量破壊兵器を開発しているように見せかけることで、イラクの国際社会への影響力を強めようとしたフセインのウソであることが判明した。

イラク戦争が、フランスやドイツなどの大国を無視して行われたので、国際社会でのアメリカの影響力が落ちていった。

日本は2004年に、イラクの復興支援のため、自衛隊をイラクに派遣した。


関連項目