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トーク:学習方法/大学受験5教科全般

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出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
最新のコメント:4 年前 | 投稿者:すじにくシチュー

整理をしました。バイト数は減っていますが、基本的には同じ内容の繰り返しで冗長な部分と、エッセイ的な部分の除去です。合わせて節構成も整理しました。対応は、「定期テスト対策だけの勉強法だと志望校に落ちやすい」「基礎レベルの問題集が必要」→「定期テストを活用する」、「問題練習が"大量"に必要」「参考書が必要」「入試レベル用の問題集も必要」→「参考書・問題集を使った学習」、「ノートづくりを目的にしてはならない」→「ノートづくりを目的にしてはならない」「模試の使いかた」→「模試の使いかた」、「センター試験は難問である」→「センター試験対策」、「過去問は傾向の確認のために」→「過去問の使い方」、です。

「検定教科書には入試対策用と、入試非対策用がある」節は除去しました。確かにその通りなのですが、それを知ったところで受験生の役に立つわけでもないと判断したためです。--126.27.62.185 2016年7月5日 (火) 06:08 (UTC)返信

以下の編集を行いました。

「ごく一部の高偏差値の高校を除けば、ほとんどの高校では、高校卒業までに教科書の範囲が終わりません。」「学校の授業だけをペースメーカーとすると、高校3年になって受験対策をするときに全く過去問が解けず、浪人する可能性が高くなります。」を除去。これはさすがに言いすぎ。地歴は最後ぐだぐだで終わったか終わらないか微妙、程度ならよくありますが、平均的な高校ならあとは理科がギリギリ終わるぐらい、他は普通に終わります。

「社会科・理科・数学・英語では、教科書を少なくとも1回は通読してください。国語では、教科書に解説が書いてないので、参考書か教科書ガイドを、少なくとも1回は通読してください。とりあえず読むだけなので、これは1科目あたり数日間で終わります。」を除去。数日間で終わるような流し読みは無意味、また、教科書ガイドの使用は受験対策として論外なため。

国語の学習法が全体的に不適切だと感じたので、全面的に書き改めた。改稿前は、全般的な対策として「その場しのぎの学習は非効率です。最終的な目標は、けっして定期テストの問題を解けるようになることではありません。当面の中間目標として、定期テスト程度の易しい問題なら楽に解けるという状態を作ることを目指しているのです。日頃からの学習の積み重ねが物を言います。」と謳っていることと矛盾する学習法でした。国語の入試を受けようというのに、読んだことのない作品が出たらお手上げ、なのですか?そんな状態で受験に国語を使うなんて、ただのギャンブル、パチンコと同じです。

以下は疑問を感じていますが編集していません。

「さて、市販の歴史評論書や経済評論書などは、読む必要はありません。まして、テレビのニュースなどは、高校の段階では勉強に不要です。ワイドショーやゴシップやコマーシャルなどの混じったニュース番組を見るのは、学生の勉強に値しません。市販の評論書を読むのは、「テレビ番組よりかはマシ」という程度です。」「さて、テレビのニュースなどでノーベル賞などが報道される場合があるでしょうが、それらの報道を追っかける必要は、ほぼ全く、必要ありません。ワイドショーは、理科ではありません。」という記述は必要でしょうか?こんなことは自明なわけで、自明なことなら他にもいくらでもあります。ラノベを読んでも現代文の学習にはなりませんし、USJでお釣りの計算をしても数学の学習にはなりません。それら自明なことどうしのなかでこの2つだけを特筆する理由がいまいちわかりません。特に理由がないならば除去した方が適切な気がしますが、何か理由があるかもしれないと思い、残してあります。

「検定教科書には入試対策用と、入試非対策用がある」についての私の考えは前回記したとおりですが、無言で戻されてしまいました。不毛な編集合戦は望みませんのでそのままにしてありますが、この記述、必要ですか?これも、必要な理由を知りたいです。--126.27.62.185 2016年7月9日 (土) 13:39 (UTC)返信

昔読んだ書籍の『志望大 合格する参考書・ムダな参考書』だったか何かに、教科書はもらったらスグに通読するのが常識って書かれてましたけど?
書店で読んだ東大合格者の体験記とかでも、教科書をとりあえず通読するのは常識でした。
教科書の通読、よく聞く勉強法だと思うんですがねえ?
もちろん、これだけでは大学合格できませんが、それは他の勉強法だって、それ単独では合格できません。
『超 勉強法』でも、勉強では早めに全体像をつかむ事が大切と主張してると思いますし。これらの書籍の著者は、この勉強法をすすめる事で、読者に進学実績を残してるわけですよ。
古文漢文の勉強法については、受験評論家の和田秀樹も主張してるように、先に現代語訳を読むのが、もはや常識です。現代文については、思考力や読解力を鍛える方向でも間違いないですが。しかし、ではどうやったら現代文の思考力や読解力が鍛えられるのか、あなたの記述からは不明です。
あなたは、よっぽど教科書冒頭の細部を練習させるのが好きなようですが、あなたの勤務先の塾か何かの都合を押し付けられては困ります。あなたの勉強法を受験勉強のノウハウとして主張した書籍を、寡聞にして私は知りません。--すじにくシチュー (トーク) 2016年7月9日 (土) 14:07 (UTC)返信
一昔前の世間では「新聞やテレビのニュースが受験勉強に役立つ!」とか思わせ振りな、マスコミのそういう宣伝が多かったですし(「大学入試によくでる朝日新聞」的なコマーシャルとか)。社会科と理科を特別視するのが嫌なら、国語・英語・数学とまとめて説明するのもアリでしょう。数学について触れなかったのは、そういうマスコミの宣伝が無いからです。日本のマスコミ連中、数学の話題には触れたがりませんし。
そもそも、そんなに社会科と理科を特別視する記述が問題ですかね。この記事の目的は、決して、5教科の勉強法について均等な文量で説明するのが目的ではないですよ。あなたは目的がズレてます。国語・数学・英語の3教科が私立高校入試の科目になったりして、よくセットで語られるように、理科と社会科もセットで語られる事もあると思いますが。
あと、「自明」だから消したほうがいい、という発想は気にくいません。あなたにとって自明な受験勉強ノウハウでも、他人にとっては自明ではない可能性もあります。もし読者の保護者が高卒で兄や姉のいない高校生なら、その家庭が大学受験の傾向をほとんど知らない可能性もあります。教育とは、教育者にとって自明だけど、生徒にとっては自明でない知識を教える行為でしょう。「そんな事、とっくに知ってるよ! 僕にとっては自明だもん!」って知識アピールをするのは、教員の仕事ではありません。
数学の証明だって、自明だと思われる定理でも、ひとつひとつ証明していくわけです。自明すぎて証明困難な場合には公理として扱われたり。数学書とかで「自明なので証明を省略する」なんてのは、すでに類似の証明を説明してある場合を除けば、著者のサボりでしょう。
『「検定教科書には入試対策用と、入試非対策用がある」についての私の考え』「この記述、必要ですか?」。学校によっては、受験対応度の低い教科書を使う場合もあるし、そういう人がその科目を受験に使うときに困らないように、書いてあったほうが親切でしょう。歴史科目なんかだと、明らかに差があるし。歴史科目では山川の詳説シリーズが定番ですが、書店によっては店頭で市販されてない場合もあるし。山川の詳説研究シリーズだと分厚つすぎるし。この「検定教科書には入試対策用と、入試非対策用がある」って、よっぽど消すべき無駄な記述なんですかね? 記述内容が間違ってるならともかく、間違ってもないし、必要としてる読者もいるかもしれなのに、ロクな根拠も無く削除するべきだという主張する感性が、よく分かりません。この節の情報が不要な読者も居るかもしれませんが、そのような読者は、この節を読み取ばせばいいだけです。節を読む飛ばすのも簡単にできます。だれも、「この節を必ず読め」なんて読者に強制してません。
どうもあなたは、「自分にとって不要な情報は、他人にとっても不要な情報である」という錯覚をしてるようです。
以前、別のトークでも注意したけど、決してwikibooksは短文での説明を競う俳句コンテストでも短歌コンテストでもないので、いたずらに短くする事を目的にするのはお辞めください。ここは短文投稿サイトじゃないんで、趣味の押し付けはお辞めください。文量が長すぎて読者が読めないならともかく、そんなに膨大でもないし。--すじにくシチュー (トーク) 2016年7月9日 (土) 14:42 (UTC)返信
なるほど、エール出版に和田さんですか。どちらも私があまり好きではないので読んでいない書籍です。常識なところすいませんが、その学習法がなぜよいのか、もう少し詳しく引用していただけないでしょうか。現状、読書不足の私の目線からでは「水素水は体にいい。これは常識」という主張と区別がつきません。それに、最初に通読するにしたって、高校全範囲の全体像をつかもうと思ったらもうちょっとゆっくり読まないと凡人には無理だと思いますけど。目を通すだけで終わっちゃったらその数日こそ無駄な時間ですよ。
私は全範囲をきっちりさらうべきだという記述をしているつもりですよ。参考書冒頭の細部を読ませたいのはあなたの記述のように感じます。参考書を何冊も何冊も最後まで読むのは凡人には無理です。凡人が全範囲をさらおうと思ったら1冊に絞って集中してやるしかないです。
新聞が受験の役に立つ、ってのは今でも新聞社は主張してますけど、みえみえな宣伝過ぎて誰も信じてなくないですかね?まぁ、とはいえ、ひょっとすると信じちゃう人もいるかもしれないので、絶対に除去せよと強く主張するつもりはないです。
なお、私の主張が誤解されているので訂正しておきますが、社会と理科だけという教科の偏りを気にしているわけではないです。社会にしたって、おじいちゃんに昔の話を聞いても受験勉強にはなりませんし、土器を掘りに行っても受験勉強にはなりません。理科にしたって、アマチュア無線で遠くと交信する方法を研究しても受験勉強にはなりませんし、毎日気象通報を聞いて天気図を書いても受験勉強にはなりません(最近の高校生はどっちもやりませんね(笑))。そういうことはいくらでもあるのに、その中からそれひとつだけを選んで書くのはなぜ?という主張です。
自明なことのすべてを省くべきではない、という主張はそりゃその通りなのですが、だからといって、いくらなんでもまともな頭のある人なら自然にわかるでしょ、という程度の自明なことををすべて書いていると、とんでもないことになりますよ。現状そうなっていないのは、同程度に自明なことのうちたまたま思いついたことだけを書いているからです。人に役に立たせるための文章なんだから、もうちょっと思い付きを整理してから書きませんか。あと、これは数学書ではないので、数学書で自明な命題の証明を省いたら、という話は無関係です。まぁ、実際は数学書でも本当に自明な命題は証明を省くことがありますけど。(ついでに言うと、証明困難だから公理にするってのは不正確な言い方です)
「学校によっては、受験対応度の低い教科書を使う場合もあるし、そういう人がその科目を受験に使うときに困らないように」すべきということまではわかるのですが、そういう人にとって今の情報って役に立ちます?そういう人が今の情報を読んだ後、具体的にどんなアクションを起こすことができ、それによってどのようにその人の学力が向上するのでしょう。いまいちイメージがつかめないのです。目の前にある教科書をもとに授業が進んでいくのだから、とりあえず教科書はその教科書を使い、足りない分は他の参考書で補うというのが現実解なわけで、それってレベルの高い教科書を使っていても同じじゃないですかね?まぁ、これも、別に必ず除去しなければいけないほど問題のある記述じゃないと思うので、どちらでもいいのですが。
短くすることに関しては、既にその「別のノート」で返答しています。私は短い記述を目的ではなく手段と考えています。読めるか読めないかで言ったらこんな短い文章読めるに決まってますけど、そういう問題じゃない。同じ内容でも、口述筆記のような冗長な文章と、引き締まった文章とでは、文字数は全然違います。同じ内容なら、短い方がいいに決まっています。--126.27.62.185 2016年7月9日 (土) 15:15 (UTC)返信
w:ストローマン(藁人形論法)にしか聞こえません。「参考書を何冊も何冊も最後まで読むのは凡人には無理です。」というのは、藁人形論法です。私は参考書は、社会科と理科は高々2冊まで、としか言ってません。数学は参考書1冊で充分と言ってます。唯一、国語科目のみ、参考書を多めに買う必要がある、と指摘してます。また、「最後まで読むのは凡人には無理です。」というのも、意味不明です。読むだけなら難しくないでしょう。
「それに、最初に通読するにしたって、高校全範囲の全体像をつかもうと思ったらもうちょっとゆっくり読まないと凡人には無理だと思いますけど。」。これまた、極論ですね。なんでたったの1回読んだだけで、高校の全範囲の全体像を詳細につかまなければならないのか、意味不明です。「数日」で読むというのがハイペースなら、1週〜2週間ほどでもイイですけど、読むだけなら時間は掛かりません。
「なるほど、エール出版に和田さんですか。どちらも私があまり好きではないので読んでいない書籍です。」。通説くらい、確認してから勉強法を投稿してください。少なくともどういう勉強法が通説として有名なのかは、教育者として把握すべきでしょう。
「常識なところすいませんが、その学習法がなぜよいのか、もう少し詳しく引用していただけないでしょうか。」拒否します。私はあなたの家庭教師ではありません。書店で、さきほど例にあげた書籍を買ってください。(エール出版、和田秀樹、超勉強法、東大生の勉強法など・・・)
あなたは、自身の主張について、何か根拠にできる文献があるんですか? 今のところ、何も参考文献が無いですよね? あなたは今のところ、自分の好みを言ってるだけでしょう。ここwikibooksは趣味アピールのサイトではありません。
「私は全範囲をきっちりさらうべきだという記述をしているつもりですよ。」 残念ですが、あなたの文章からは、そういう主張が読み取れませんでした。教科書や参考書を通読することを執拗に否定して、どうやって全範囲を確認できるのか、まったく意味不明です。
そもそも、読書による勉強は、古今東西、有名な勉強法です。だからこそ、小学校でも中学校でも、生徒に読書の習慣を薦めているわけです。そして、たいていの書籍の読書は、読むだけなら数日で終わります。読書が数日で終わるからって、あなたは小中学校での読書の勧めを否定するつもりなんですか?
『「学校によっては、受験対応度の低い教科書を使う場合もあるし、そういう人がその科目を受験に使うときに困らないように」すべきということまではわかるのですが、そういう人にとって今の情報って役に立ちます?』 ですか。受験生が受験勉強用の教科書を買うときに役立つでしょ。たとえば社会科の歴史科目では、山川出版などの検定教科書を主流に勉強するのが常識的です。なので学習参考書を扱ってる書店によっては、山川出版の検定教科書を店頭販売している場合も、よくあります。
「同じ内容なら、短い方がいいに決まっています。」。 記述を節まるごと大幅に削除したら、同じ内容ではありませんので。--すじにくシチュー (トーク) 2016年7月9日 (土) 15:50 (UTC)返信
私はあなたのお書きになった記述を批判しているつもりです。「参考書は、教科にもよりますが、内容の比較のため、理科と社会科では、出版社のことなるものを2冊以上買ってください。」「参考書の学習は、受験用の参考書なら、異なる出版社の参考書を2冊以上、入手するという方法もある。」「参考書は、出版社の異なる2冊以上があると望ましい。」これらの記述は取り下げですか?であるならば明示的にそう言ってください。また、参考書を「読むだけなら難しくないでしょう」というのは、どういうレベルでの「読む」の話をしていますか?ページをめくるだけなら数日と言わず数秒でできますけど、それでは無意味です。数日で読んだってそれと大差ない学習効果しかありません。
「なんでたったの1回読んだだけで、高校の全範囲の全体像を詳細につかまなければならないのか」って、それはあなたが「『超 勉強法』でも、勉強では早めに全体像をつかむ事が大切と主張してる」とおっしゃるからです。この主張は「早めに全体像をつかむために参考書を一読すべき」という主張だと読みましたので、それに反駁したまでです。そうでなければ『超 勉強法』に言及するのは蛇足でしょう。
「通説くらい、確認してから勉強法を投稿してください」とのことですが、お断りします。その類の怪しい「勉強法」は世の中にごまんとあふれていますが、役に立たないものがほとんどであり、人口に膾炙しているからというだけの理由で目を通すほど私は暇ではないからです。もちろん、私の記述は私の経験(個人情報なので濁しますが、受験生としての経験だけではありません)のみが根拠です。しかし、「さきほど例にあげた書籍を買ってください。」というのはw:Wikipedia:出典を明記するにそぐわない出典の提示です。つまり、あなたの記述も私の記述も「何も参考文献が無い」という点においては等価です。ですので、私とあなたが話をしているだけでは永久に議論は終わりません。あなたが出典を明確に提示するか、他の方が議論に参加をするか、どちらかがないと終わらないでしょうね。私が参考文献を挙げていないのは事実ですので、あなたが参考文献を明示するのであれば、その文献を明示的に参照する形で記述することは吝かではありません。
「教科書や参考書を通読することを執拗に否定して、どうやって全範囲を確認できるのか、まったく意味不明です。」以下の記述は、ストローマンのお手本を見せていただいたのだと理解しました。私は通読を否定していません。ただ、通読には数か月かけるべきで、数日での通読なんて意味がないからやめなさいと言っているだけです。繰り返し同じことを言っているのですが。まして読書になんて何も言及していません。ついでなので述べておきますが、読書は受験勉強のようなつまらないものの役にはまったく立たないが、もっと大きな視点で見て役に立つので、推奨されるべきだと思っています。
私は「受験生が受験勉強用の教科書を買う」こと自体が非効率だと主張していますのでよくお読みください。既にある教科書を差し置いてもう1冊教科書を買うぐらいなら、既にある教科書は教科書で使い、それとは別に参考書を買う方が能率がよいと言っているのです。
「記述を節まるごと大幅に削除したら、同じ内容ではありませんので。」無内容で無意味な節をまるごと削除しても、内容は変わりません。--126.27.62.185 2016年7月11日 (月) 15:22 (UTC)返信

私は、数週間〜数ヶ月の時間をかけて通読する勉強法自体は否定していません。ただし、さいしょの通読は、それほど時間をかけなくてもいいので、まずは全体を読むことを優先すべきだと言ってるだけです。エール出版などの勉強法の本でも、それを主張してますし、野口悠紀雄の『超 勉強法』でも、それが主張されています。

それを、あなたが勝手に「一度たりとも、時間をかけた通読をしてはいけない」と私が主張してると解釈してるだけです。教科書をすくなくとも1回は通読すべき、という私の主張を、あたかも「教科書は、たった1回通読するだけで充分。それ以上は読んではいけない」とでも私が主張したかのように曲解し、あなたは自己弁護してるだけです。

「私は「受験生が受験勉強用の教科書を買う」こと自体が非効率だと主張していますので」。この記事で求められるのは、その論拠・証明です。証明のない主張は、単なる仮説です。あなたは、なんにも証明しておらず、「単に、受験勉強用の教科書を買うのは、ぜったいに非効率に違いない」と執拗に主張してるだけです。時と場合により、受験用にあらたに教科書を買うのが効率的な場合もあるでしょう。だからこそ、たとえば山川出版社が、市販向けに教科書を販売してるわけです。また、工業高校や商業高校など、カリキュラムが普通科高校と違う学校もあります。あなたは、そういった色んな受験生の事情を考慮せずに、ごく一部の経験にもとずいて(おそらく、あなたの勤務先での教育指導の経験でしょうか)、勝手な主張をしてるだけです。

また、わたしは、「絶対に受験用にあらたに教科書を買うべきだ」とも、いっさい主張していません。単に、もし教科書だけだと不安で(たとえば受験対応度がひくい教科書の場合)、だけど市販の参考書をいきなり読むのは文量が膨大すぎるなどしてハードすぎる場合なら、教科書を注文するという方法もあることを紹介しているだけです。

そして、あなたは相変わらず、勉強法についての参考文献を、なにひとつ、あげていません。あなたは反論されると、反論した相手を、読解力が無いから自分(=あなた)のコメントを読解できない人物なのだと批判してるだけです。--すじにくシチュー (トーク) 2016年7月16日 (土) 06:53 (UTC)返信

どんな勉強法にも、リスクはあります。たとえば学校の授業や教科書を重視する勉強法だと、もし入試に自分の通う高校で習わなかった事が出されたり、または使用している教科書に書かれていない事が入試に出されたら、とても不利です。かといって、参考書を重視する方法には、発展的な話題に時間を割いてしまって基礎がおろそかになるリスクもあります。だからこそ、いろんな勉強法を組み合わせる必要があるのです。

もしかしたら、あなたは、勉強内容が偏らないようにバランスよく勉強すべきだ、などと考えてるのかもしれませんが、しかし、あなたの投稿記事からはバランスよい勉強をするためのノウハウが感じとれません。、単に「きちんと」「理解」しながら教科書を精読すべき、と言ってるだけであり、どうやったらバランスよく勉強できるのか、残念ながら、あなたの投稿記事からは、さっぱり読み取れませんでした。

さて、もし時間をかけてジックリと教科書を読む方法だと、教科書の後半の単元を読むのが遅れてしまうので、高校時代の長い間、その後半の単元が問題練習などが出来なくなるリスクもありますし、もしペース配分を間違えれば、後半の単元が学年中に読み終わらない可能性もあります。かといって、教科書を数日で通読するだけにして教科書記載の問題練習などをしないと、問題解法の力が身につきません。なので、勉強法の組み合わせとして、ひとまず先に数日で教科書を通読して、あとから教科書を精読するなり問題練習しろなどと私は言ってるわけです。

その精読の際にも、問題集などを解きつつ、わからなかったところを教科書や参考書で読むなどして、問題集などで理解度を確認しながら読んでいくのが良いだろう、と言ってるつもりです。教科書を精読するだけで問題練習をしないと、問題練習の能力が身につきません。また、問題練習をしないと、どこを精読するべきなのかのポイントも、いまいち把握できません。たとえば、物理では細かな物性値の測定データを覚えても、入試対策にメリットがありません。社会科では、細かな統計値を覚えても、入試対策にメリットがありません。そして、高校に入学したばかりの新入生や、各学年始めの1学期などでは、どこが精読するべきポイントなのかは、学生はまだ知らないわけです。

なのに、あなたは、具体的な理解確認のノウハウも示さずに、単に「きちんと」「理解」しながら教科書を精読すべき、と言ってるだけです。

あなたの教育理論は、たんに学生に勉強法の検証の責任をおしつけてるだけです。学生が、もし教科書を重視する勉強法で入試の順位や偏差値があがったら、教育者である自分のオカゲとして、自分(=教育者の立場のあなた)の手柄として、いっぽう、もし学生が教科書を重視する勉強法でも入試の成績があまり上がらなかったら「学生が理解しないで教科書を読んでるので、理解を軽視した学生が悪いのだ」というふうに学生に責任転嫁してるだけの、御都合主義(ごつごう しゅぎ)です。

あなたが文章を削りたがるのも、読者に、行間を読む負担を押し付けてるだけです。単に、あなたが説明不足なだけなのに、もし読者が行間を補って読んだら「読解力のある読者なので、自分の立派な文章を読める」として自分の手柄にして、いっぽう読者が誤解したら「読解力のない読者が悪い」というふうに、責任転嫁してるだけでしょう。

さて、私は、今までのあなたの反論を、「検証可能性をまったく重視しておらず、議論相手に検証の負担を押し付ける」「参考文献などを出すつもりもない」「自分の周囲の教育環境だけを前提にして、他の教育環境を無視している。なのに、誤解のないように文言を足そうという気もない」「相手が誤解した場合、自分の説明不足は顧みず、相手の読解力不足の責任にする」「よって、まともな反論でない」と、私は判断しました。なので、これから管理者などに判断を求めるか、あるいはブロック依頼を出そうかと思います。残念ながら、私はもう、あなたのデタラメな反論には、メンドくさくて、いちいち関わりたくありません。--すじにくシチュー (トーク) 2016年7月16日 (土) 08:01 (UTC)返信

私が主張していること、主張していないこと、両者が混然一体となった得体のしれない物に対する反論をされているようです。そのあたりを切り分けないと訳が分からないので、今日はそれを中心に議論します。論拠に関して詳しく書いていると論点が発散しますので、今日はとりあえず論拠は簡潔にしか述べません。ですので、それをもって「根拠のない主張だ」という無意味な反駁をしないでくださいね。必要であれば次の機会で詳しく説明します。また、私が質問したままスルーされっぱなしの案件がいくつもありますが、その件も今日は敢えてスルーします。これも必要に応じて後ほど指摘します。
「教科書をすくなくとも1回は通読すべき、という私の主張を、あたかも「教科書は、たった1回通読するだけで充分。それ以上は読んではいけない」とでも私が主張したかのように曲解し」とのことですが、違います。私は「すくなくとも1回は通読」であろうとそれは不適切であると主張しているのです。あなたの表現を借りれば、私の主張は「一度たりとも、短時間での通読をしてはいけない」という主張です。なぜなら、その通読において得られるものはほぼなく、つまりそのためにかける数日間は遊んでいるのと変わらないからです。遊んでいる暇があったらさっさと勉強を始めるべきです。参考書をじっくり読む、必要に応じて問題演習をする、といったまともな学習を、初日からちゃんとすべきだということです。
「時と場合により、受験用にあらたに教科書を買うのが効率的な場合もある」「工業高校や商業高校など、カリキュラムが普通科高校と違う学校もあ」る、とのことですが、それはどんな「時と場合」でしょうか?そして、そのような学生は受験生全体の何パーセントでしょうか?少数派を無視するのはけして適切ではありませんが、概説的記事ですべての少数派に配慮した記述をしていては焦点がぼやけてしまい、読みづらい記事になります。現状はすべての少数派に配慮してはいないのでそうはなっていないのですが、ではその特定の少数派だけに配慮するのはなぜですか?あなたが気分で思いついたからですか?そんな恣意的な基準で対象読者を選ぶよりは、一旦は少数派すべてを無視して、多数派に合わせた記事にする方がまだましである、というのが私の主張です。私はすべての学生にとって私の記述が適切であるという主張はしていません。ただ、多数派の学生にとって適切であるとは思っています。もちろん、客観的根拠はありません。私の個人的思い込みです。
「わたしは、「絶対に受験用にあらたに教科書を買うべきだ」とも、いっさい主張していません。」とのことですが、これは記事本文中の「高学年での受験勉強で使うための教科書については、入試を視野に入れたレベルの教科書を使うべきである。」「・・・などの対策が必要だろう。」という記述と矛盾するように思えます。どちらがあなたの本当の主張ですか?それがわからないと、議論をすることができません。
「勉強法についての参考文献を、なにひとつ、あげていません。」はい、その通りです。
「あなたは反論されると、反論した相手を、読解力が無いから自分(=あなた)のコメントを読解できない人物なのだと批判してるだけです。」いいえ、していません。私がそのように言った箇所を具体的にご指摘ください。
「あなたは、具体的な理解確認のノウハウも示さずに、単に「きちんと」「理解」しながら教科書を精読すべき、と言ってるだけ」「あなたの教育理論は、たんに学生に勉強法の検証の責任をおしつけてるだけ」とのことですが、これは半分あたっていて半分はずれています。私は私なりの教育理論などを記述してはいませんし、私なりの学習法を押し付けようという気はありません。学習法は人それぞれ向き不向きがあるからです。ですので、「責任をおしつけてるだけ」というのはある意味その通りです。私がしたいのは、誤った学習法が広まってしまわないように除去することだけです。それ以上は望んでいません。(より正確に言えば、それ以上のために労力をかけるだけの生活の余裕がありません)
そのあと数行の「手柄」「責任転嫁」云々の妄想は相手にする意味がないので相手にしません。もちろん、そんなことを考えていません。そもそもどうやったらIPユーザが責任を負ったり手柄を誇ったりできるのでしょうね(笑)。手柄がほしかったり責任を負いたかったりしたらwikibooksなんて触りませんてば。もしあなたがそういうことをお考えなら、悪いことは言わないからおやめなさい。wikibooksでどんなに活躍しても手柄になんかなりません。
最後の総括的段落について。「検証可能性をまったく重視しておらず、議論相手に検証の負担を押し付ける」「参考文献などを出すつもりもない」はその通りですがお互い様です。「自分の周囲の教育環境だけを前提にして、他の教育環境を無視している。なのに、誤解のないように文言を足そうという気もない」については上述の通り次善の策としてこのほうがましと考えているだけです。「相手が誤解した場合、自分の説明不足は顧みず、相手の読解力不足の責任にする」はあなたの妄想。「よって、まともな反論でない」かどうかは私が決めることではないのでノーコメントです。ブロック依頼を出したければ出してください。コミュニティの判断に従います(管理者には判断する権限はないと思いますけど)。私に言わせればあなたの反論の方がでたらめですが、私は付き合いますよ。本文がでたらめになることの方が耐えられませんので。--126.27.62.185 2016年7月16日 (土) 13:36 (UTC)返信


(すじにくシチューの意見)2020年の時点で、私は市販の学習ノウハウ本の内容を出典を追加し、refタグなどでまとめていますが、一方、この時点までIP氏が自身の主張を出典として追加する編集を見ていません。--すじにくシチュー (トーク) 2020年9月12日 (土) 04:51 (UTC)返信