トーク:学習方法/高校5教科全般

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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以下の編集を行いました。

「(ただし偏差値50以上)」「※ 偏差値のひくい高校では、高校2年や3年になっても中学レベルを復習している場合もあるので、そういう高校の場合は、けっして授業の進度を家庭学習のペースメーカーにしてはならない。」「※ 以下の記述は、偏差値50以上の平均的な高校を想定して記述している。」を除去。理由は、まず母集団を明示しない「偏差値」という概念が無意味なため。また、「偏差値のひくい高校」に入学する生徒は、高校入試の結果としてその高校に入学した生徒なのであり、その高校の学習内容が適切である可能性が高いため。

複数冊の参考書を使用することを推奨する記述を編集し、少ない冊数に絞ることを推奨するように変更。理由は、複数冊の参考書であってもきちんとやり切れるのであればよいのだが、編集前の記述では、複数冊をつまみ読みする学習法を誘発しかねないため。やり切れるなら1冊より複数冊の方がいいのは当然ですが、やり切れない生徒が多い現状に向き合った記述をすべきだと考えます。--126.27.62.185 2016年7月2日 (土) 05:32 (UTC)

公立高校入試ってのは内申点の比重が大きいので、学力そのものが問われてません。あなたは、文部省の御用学者ですか。また、参考書は、読むだけなら、時間はまったく掛かりません。もし検定教科書とかなら、もらった週のうちに読み終えることも可能だという勉強法は有名です。参考書も同様に、読むだけなら数日で読めます。「複数冊の参考書であってもきちんとやり切れるのであればよいのだが、」という記述は、問題集と参考書を混同しています。やりきるべきは1冊の問題集であり、参考書ではありません。科目にもよりますが、そもそも参考書には、練習問題じたいが無い場合すらあります。たとえば、チャート式の日本史や世界史の参考書に、練習問題はありません。あなたの主張には、オカシイところが、沢山あります。--すじにくシチュー (トーク) 2016年7月2日 (土) 18:02 (UTC)
「まず母集団を明示しない「偏差値」という概念が無意味なため。」とか、意味不明です。慣習として、世間の高校入試で「偏差値」といえば、世間ではだいたい、もし公立入試についてなら、その地区の公立高校入試の受験者が母集団なのは明白ですし、もし私立高校受験なら、市販の高校ガイドなどで紹介されてる偏差値だっていうのは、世間では明白です。あなたが教育学の論文かなんかで、母集団を明示したいなら、その論文で行ってください。wikibooksは論文投稿サイトではありません。--すじにくシチュー (トーク) 2016年7月2日 (土) 18:17 (UTC)
内申点と学力とが全然比例しないのはもちろん常識ですが、弱い相関関係はありますよ。弱い相関すら否定するのは極論です。
参考書を数日の流し読みで「読むだけ」の学習を推奨するなら、ますます私はそのような記述には反対です。そんな学習は瞬間的に記憶することができる特殊能力を持った生徒にしか役立たない学習法です。能力の低い一般の高校生にとっては、参考書はある程度の読み込みをして初めて効果を発揮するものです。練習問題があるかないかは関係ありません。
偏差値に関するお話は、まったく意味が分かりません。全中学生が受験する業者テストが廃止されたのは何十年も昔ですが、それ以降「その地区の公立高校入試の受験者が母集団」の偏差値というのはどうやったら算出できるのでしょう?「市販の高校ガイドなどで紹介されてる偏差値」というのは、ますますわかりません。それは統計的な意味の「偏差値」とどのように関係する数値なのでしょう?中学生はその数値と自分の成績をどうやって比較して活用するのでしょう?学術的な話をするまでもなく、実際に中学生が進路選択をする現場においても、そのような「偏差値」の使い勝手がいいとは思えないのですが。--126.27.62.185 2016年7月3日 (日) 14:39 (UTC)


IPユーザー 126.100.203.183 の編集への疑問[編集]

「そもそもなぜ授業の予習で訳をさせるのでしょう。それは、訳を覚えるためではありません。なにしろ、教科書に載っているのとまったく同じ文章は、(稀に不注意な大学がうっかり「やらかす」ことを除けば)受験には絶対に出ないのです。授業の予習で訳をするのは、訳をするという経験を積むことによって、次に見る文章は自分で訳せるようにそのノウハウを身につけるためです。出来上がった訳などはどうでもよく、訳を作るという経験が重要なのです。その経験をすっ飛ばしてしまう教科書ガイドは、百害あって一利なしです。赤点をとらなければそれでいい、というのであれば構いませんが、学力をつけたいと思うのであれば、次の古紙回収の日にまとめて捨ててしまいましょう。」

そもそも、なぜ予習以外で訳をしないのでしょうか? 授業で訳をすればいいじゃないですか? 数学は授業中に計算を考えるのに、なぜ英語だけ予習で考える必要があるのですかね?

国語の古文漢文では、教科書に乗っているのと、同じ作品が、出題される事もあるのですが? そもそも教科書会社は、入試動向も参考にして掲載作品を決めてるのと思うんですが? 英語に関しては、教科書とまったく同じ文章が出ないのは、その通り。

「次の古紙回収の日にまとめて捨ててしまいましょう。」 言語道断。出版社への営業妨害。

まるで高校の英語教師が、単に自分の行動を正当化してるだけの編集です。--すじにくシチュー (トーク) 2017年7月1日 (土) 00:50 (UTC)

私は英語の教員ではないので憶測ですが、授業時間数が足りないのでしょうね。英語の授業で英文を読むことで生徒が学ぶのは、もちろん、その英文の訳文が何なのかではありません。英文に出会ったとき、いかにして文構造を把握し、自分にとって意味の分かる形に落とし込むか、という方法論を学ぶのです。そのために、単語を学び、文法事項を学び、それらの知識を総動員して訳文を作る、という練習をするわけです。その練習のすべてを授業時間内でした方が良いのかもしれませんが、そんな時間はない。ゆえに、練習そのものは授業時間外の学習に任せ、練習の成果の「答え合わせ」を授業で行う、ということでしょう。それなのに、練習をしていないのにその場にでっちあげられて存在している「成果」だけをいきなり手に入れるのは、練習する機会を放棄することですから、極めて不適切です。教科書ガイドを薦めることは、いわば、コーチに「速い球を投げたければ走り込みをしろ」と指導されているピッチャーに対して、横から「ピッチングマシンを買ってくればいいじゃない」と口を挟むようなものです。
数学の授業でも、授業中に計算練習をするのは時間に余裕がある場合でしょう。余裕がなければ「宿題」という形で同様に授業時間外の学習に任せるのはありふれた話です。英語の授業が予習を求めるのと、数学の授業が宿題を課すのと、私には全く同じことに思えます。
同じ文章の出題について。確かに古典について但し書きをつけなかったのは不適切でしたね。次に復帰させるときには但し書きをつけておきます。しかし、教科書ガイドの使用が不適切であるということには変わりありません。なぜなら、同じ文章が出題されることもあるが、見たことのない文章が出題されることもそれ以上にあるからです。特にセンター試験は、受験生が読んだことのないだろう作品、あるいは有名作品であっても受験生が読んだことのないだろう部分、というようにかなり慎重に題材を選んでいるように見受けられます。そのような出題に対して、教科書ガイドを利用した学習で、いったいどうやって対応するというのでしょうか。
最後の二文は全く考慮に値しない捨て台詞ですが、考慮に値しないということを明確に指摘しておきます。このガイドは生徒のためのガイドなのですから、生徒の学習を妨害するような書籍を出版する出版社の営業妨害は、むしろするべきです。また、「教師が、単に自分の行動を正当化してるだけ」という主張は、そのまま裏返して「出版社が、単に自社の出版物を宣伝してるだけ」と反論できてしまう主張であり、無意味です。(もちろん私がこのようなくだらない主張をするわけではありません。念のため)--126.100.203.183 2017年7月1日 (土) 02:57 (UTC)

「生徒の学習を妨害するような書籍を出版する出版社」の「営業妨害は、むしろするべきです。」ですか。独善的な、勝手な思い込みだと思います。あなたの口調は、形式的には客観性を装ってますが、形式だけです。結局、あなたの主張は、「なぜなら、生徒の学習を妨害するような書籍を出版する出版社であるから、よって、生徒の学習を妨害するような書籍を出版する出版社である」という類の循環論です。あなたの化けの皮が剥がれたと思います。もはや議論に値しない思考回路だと思いますので、wikibooks管理人に訴えに行きます。もしwikibooksが出版社から裁判を受けて、編集が中断させられたら迷惑ですので。--すじにくシチュー (トーク) 2017年7月1日 (土) 04:19 (UTC)

あなた、本当に教育者ですか? 教科書出版社の桐原書店は、教科書ガイドも出版してるんですが・・・? 『教科書ガイド 探求古典B 桐原』でネット検索すると出て来ると思いますが。桐原書店のサイト自身で『桐原書店版教科書ガイド 探求古典B(古文編)』として紹介されてます。

教科書ガイドで答えを見て、理解せずに写しても学力が身に付かず危険だとするような考えは、なにも教科書ガイド特有のリスクではなく、答えのついている教材一般に存在するリスクです。答えのついている教材を批判したら、そもそも解答付き問題集は市販できなくなってしまいます。

教科書ガイドにかぎらず、小学生向けの学習塾などでも「理解せず答案を丸写ししても、暗記科目でなければ、学力はつかない」と指導される事であり、なのに教科書ガイドだけを敵視するのは、やや常軌を逸していると感じます。

また、大学の教科書の例ですが、電気学会から出版されている電気学会大学講座『電気磁気学』の教科書と、その別冊解答集『電気磁気学問題演習詳解』のように、解答集が教科書と別冊で販売されている教材もあるのですが。

あなた、本当に教育者ですか?--すじにくシチュー (トーク) 2017年7月1日 (土) 05:27 (UTC)

04:19 (UTC)の投稿には中身がありませんのでコメントしようがありません。05:27 (UTC)の投稿に絞ってコメントします。
市販されているからとか、教科書会社自らにより出版されているからとか、そういう理由でまともなものだと信じる態度には賛同できませんね。桐原はよい教材も出している出版社ですが、それでもやはり営利企業だから、営利目的で質の低いことをすることもあるのだな、というのが私の感想です。むろんこれはただの感想ですから、何らかの主張の根拠でもなんでもありません。
本題に移ると、あなたの主張の内容がだんだんわからなくなってきたのですが、教科書ガイドをどのように使うという話をしているのですか?「教科書ガイドで答えを見て、理解せずに写しても学力が身に付かず危険だとするような考えは、なにも教科書ガイド特有のリスクではなく」という言い方をされるということは、そうでない使い方をするという主張なのでしょうが、本文にあなたが書かれていた記述からはそれは読み取れません。それに、であれば普通の教材で普通に勉強した方が楽ですし、お金もかかりません(教科書ガイドってなんであんなに高いのでしょう)。あえてわざわざ教科書ガイドを使う長所が見えないです。
あ、蛇足ですが一応反応しておくと、わざわざ2回も「あなた、本当に教育者ですか?」という煽りを入れていらっしゃいますが、私は教育者だなどと自分で言ったことはありませんので念のため。--126.100.203.183 2017年7月1日 (土) 05:53 (UTC)


(すじにくシチューの意見) 私はIPユーザー 126.100.203.183 の文面から、断定的な物言いだと感じ、よほどの根拠があるつもりなのだろうと感じました。そして、その、よほどの根拠があるはずなのに、何一つとして、第三者の確認できる方法での客観的データが、何一つも示されていない事に、違和感を感じました。

客観データを示そうとしない理由として、てっきり私は、あなたに学校教員か塾講師などの教育関係者でもなければ体験しえないような経験でもあったのに、しかし守秘義務などで公開できないのだろうと誤解していました。

例えば、生徒側のプライバシーなどへの配慮などの理由で、あなたが教育者である事を示さないのだろう、と誤解していました。

しかし、教育者であるだろうという私の指摘に対して、あなたは随分と批判的です。

教育者でないのに、そこまで断定的に教科書ガイドの出版社を否定したりと、強気で物言いが出来る感性が分かりません。

もっとも、「私は「教員ではない」とは言ってない」とも言い返されそうですが、だとしたら、もはや屁理屈の領域です。もし、このような屁理屈を主張なさるとしたら、もうwikibooksに書き込むだけの品格に、あなたは到達してないと思いますので、早急に退場してほしいと感じます。知識の問題ではなく、品格の問題です。

また、教育者でないのなら、あなたの今までの主張には、ほとんど憶測や推測だと言う事になると思います。実際、あなたの主張には、データとなる根拠が、まったくありません。

しかし、あなたが教員である事を否定なさるという以上は、そのような教員としての体験的根拠すらない、と私は考えます。客観データを示さない以上、もはや推測・憶測でしかありません。

あなたの今までの主張の根拠は、基本的に、「自分はこういう教育法が好きだ」「自分はこう聞いた」の類です。第三者の確認できる方法での客観的データが、何一つも示されていません。

第三者の確認できる客観的データがない、客観的データを示そうとしない、という批判は、IPユーザー個人だけを批判しているのではなく、その事を注意しない管理者への批判でもあります。wikiプロジェクトは、検証可能性を重んじるプロジェクトであります。

あなたがいくら教科書ガイドを批判しようが、私からすれば、どこの誰かすら分からない人の教育理念よりかは、教科書ガイドのほうが信用できます。

自分がどういう経歴かすら明かそうとせずに、客観データも示さずに民間企業を批判する人の教育理念と比べたら、出版社としての法人登記をして営業活動を続けている桐原書店などの出版企業のほうが、よっぽど信用できます。日本の経済市場・出版市場・教育産業などは、少なくとも、その程度以上には、機能していると思いますので。あなたは「淘汰」という用語を好んで使いますが、淘汰されないものには存在価値があるという事です。--すじにくシチュー (トーク) 2017年7月2日 (日) 03:35 (UTC)

IPユーザー 126.100.203.183 が「英語の教員でないので憶測ですが」と言ってますが、その憶測で、ろくに実物の教科書ガイドも確認せずに(おそらく私の以前の編集内容から内容を推測しただけで)教科書ガイドを痛烈に断定的に批判されては困ります。批判された教材出版社が困るだけでなく、のちに記事を読むことになる人、のちの記事を編集する人、その他いろんな人が困ることになります。検証可能性の乏しい情報を、あたかも検証可能性が高いかのように振る舞わないでください。それは、他の読者や編集者への、迷惑行為です。

素性も明かさないのに、「不適切な指導をする事例がよく聞かれます。」と編集も困ります。

その上、私の「本当に教育者ですか?」質問に対して、「私は教育者だなどと自分で言ったことはありませんので念のため。」などと言うのですから、では教育者でないとしたら、一体どこから「不適切な指導」の事例を「よく」聞いたのか、さっぱり分かりません。

一度や二度ならともかく、「よく」ですからね。教育者でもない人物に、誰がそのような相談をするのでしょうか。文部科学省の高校教育の担当者の官僚でもあるまいし。また、もし大学の教育学者なら、基本的に教育者でもあるでしょう。

年月が経ってからこの議論を読むだろう第三者に報告を申し上げますが、とりあえず、少なくとも英語科目にかんしては、教科書ガイドの記述について、IPユーザー 126.100.203.183 の記述はもう、なんの信用もおけないと判断すべきです。IPユーザー 126.100.203.183 は高校数学の教科書には若干詳しいようですが、そもそも私は別に「高校数学では、教科書ガイドを使え」とは言ってませんし。(むしろ、「高校の数学では、教科書ガイドを使ってるようでは、理系の大学への進学には向いていない」というのが、私の持論です。学習方法の記事一覧で教科書ガイドを薦めていることのある対象科目も、原則的に、いわゆる「暗記科目」(中学の国語や英語や社会、高校の国語と英語)だけです。この持論は、昔からwikibooksで私の編集を読んでる人なら知ってる情報ですので、別にこの議論のために今さっき持論を作ったのではありません。)--すじにくシチュー (トーク) 2017年7月2日 (日) 06:26 (UTC)

「消防署のほうから来ました」「警察のほうから来ました」と言う行動が詐欺師であるのと同様に、教育について一般人の知らない情報を「よく」聞くと名言しておいて、それで教育者かと疑われたら「私は教育者だなどと自分で言ったことはありません」なんて、もはや詐欺師の論法です。仮に結果的に、IPユーザー 126.100.203.183 の言う情報に、たまたま正しい知識が含まれていたとしても、それは「詐欺師でも、偶然、正しい事をいう場合もある」のと同類の現象でしかありません。このような、あたかも専門家の経歴を装うのは、経歴詐称的な行為であり(第三者が錯誤をしかねない口調や態度をしている)、wikibookでの第三者による検証可能性を大幅に損ねます。--すじにくシチュー (トーク) 2017年7月2日 (日) 06:39 (UTC)

もう一度聞きますが、で、結局あなたは何がしたいのですか?教科書ガイドをどのように使うという記事にしたいのですか?仮定の上に仮定を重ねる文章(もう少し簡単に言うと「妄想」と言います)で私のことを攻撃されていますから、私のことが嫌いだということはよくわかりましたが、で、この記事をどうしたいのですか?主張は何で、その主張の根拠は何ですか?どうでもいい演説でバイト数を稼がれても、主張が何なのかわからないのでは反論すらできません。
これだけではあんまりでしょうからもう少し真面目にコメントしておきますが、あなたのコメントは「天に唾する」という諺を地で行くものです。「断定的な物言い」なのに「第三者の確認できる方法での客観的データが、何一つも示されていない」「どこの誰かすら分からない人の教育理念」で「主張の根拠は、基本的に、「自分はこういう教育法が好きだ」「自分はこう聞いた」の類」というのはすべて私にもあなたにも当てはまるものです。ゆえに、私の記述を排除することができるならば、同時にあなたの記述も排除できる、つまりこの記事は白紙化されるということになりますが、あなたの希望はそういうことですか?また、私が質の低い出版物を出版する出版社を批判するよりもはるかに口汚く、バカだの低能だのという表現でいろいろな人を批判する記述をしているすじにくシチューさんは、「裁判を受けて、編集が中断させられ」るリスクを作り出していることにはならないのですか?そのあたり、もう少し整合性をつけてから物を言うことをお勧めします。--126.100.203.183 2017年7月2日 (日) 07:41 (UTC)
正直、見ていられなくなってきました。横から失礼いたします。というのは、すじにくシチュー氏のお話があまりに乱暴なため、若干口出しいたします。以下、箇条書きにて、すじにくシチュー氏が03:35 (UTC)にておっしゃったことにコメントをつけていこうと思います。
  • 「何一つとして、第三者の確認できる方法での客観的データが、何一つも示されていない事に、違和感を感じました。」
→すじにくシチュー氏がこれまでなさって来た議論の中で、客観的データとやらを見た覚えがないのですが。ついでにいえば、学習法における客観的データとはなんでしょう。まさか、ご自分の経験そのものが「客観的データ」だとお思いではないでしょうね。
    • 「多くの高校生は、積分の定義を微分の逆演算とする事と、それで面積が求められる事の説明に納得がいかず、困っているのである。」→付随して積分のノートから。すじにくシチュー氏のいう「客観的データ」はこれのどこにあるのでしょう?
  • 「しかし、教育者であるだろうという私の指摘に対して、あなたは随分と批判的です。」
→細かいですが、これは「批判的」じゃなくて「否定的」ですよね。126.100.203.183氏(以下、IP126氏とさせていただきます)は「私は教育者だなどと自分で言ったことはありません」といっていますが、これは一般的に「否定」というはずです。「批判」と「否定」の区別がついていないのでは?
  • 「教育者でないのに、そこまで断定的に教科書ガイドの出版社を否定したりと、強気で物言いが出来る感性が分かりません。」
→これはダメなのでしょうか? むしろ、客観的視点のためには教育関係のことをしていない人の意見は貴重かつ重要です。そもそも、Wikiがオープンなのは専門外の方も気軽に書き込めるようにというのもあると思いますが。さらに、教育者でなくても教育に関わる仕事をすることもあるでしょう。例えば教科書会社の社員は教科書作りという点で教育に関わりますが、教育者じゃないですよね? はっきり言わせていただきますが、こういう「教育者じゃなければ口出すな(あるいは、慎まやかに意見しろ)」と言わんばかりの態度を「権威主義」というのです。
また、その理屈が通るなら、「すじにくシチュー氏の社会(およびその教育法)の教科書の執筆停止」をこれから管理室に提起しますが、よろしいでしょうか。私は学校教員ではありませんが、一応、教育学部の社会科教育卒、大学院教科教育専攻でしたし、現場の先生とも交流する機会もあります。また、それなりに指導経験もありますから。その観点からすると、すじにくシチュー氏の書かれていることには間違いや思い込みが多いと言わざるをえません。(なお、「専門家・経験者以外は口を出すな」というのは私の言いたいことではありません。念のため。私がこう述べたのは、すじにくシチュー氏のIP126氏への誹謗中傷があまりにひどいため、すじにくシチュー氏のロジックで、すじにくシチュー氏に指摘するためです)
  • 「もっとも、「私は「教員ではない」とは言ってない」とも言い返されそうですが、だとしたら、もはや屁理屈の領域です。もし、このような屁理屈を主張なさるとしたら、もうwikibooksに書き込むだけの品格に、あなたは到達してないと思いますので、早急に退場してほしいと感じます。知識の問題ではなく、品格の問題です。」
→自分の仮定を元にした罵倒。いつの間にか仮定が(すじにくシチュー氏の中で)真実にすり替わっていなっていませんか?
  • 「あなたの今までの主張の根拠は、基本的に、「自分はこういう教育法が好きだ」「自分はこう聞いた」の類です。」
→IP126氏はどこでそんなこと言っているのでしょう? あるなら、私がやっているように根拠となる個所を抜き出してみては? むしろ、「「自分はこういう教育法が好きだ」「自分はこう聞いた」の類」を振り回しているのはすじにくシチュー氏の方ではありませんか? 同時並行で問題になっている積分で「私は高校生のころ、数学IIを予習した時には、教科書に書いてある定義には納得しませんでした。高校時代の授業では、私の出身高校の教師が、検定教科書にはよらずに、区分求積法による定義で説明しました。」「大学初年級の微分積分では区分求積法で積分を定義してると思うんですが・・・? タイかどこかでは、高校でも区分求積法で教えてると聞きますし」とおっしゃっていますよね?
  • 「第三者の確認できる方法での客観的データが、何一つも示されていません。」「wikiプロジェクトは、検証可能性を重んじるプロジェクトであります。」
→すじにくシチュー氏のおっしゃる検証可能性って何でしょう? ご自分の経験のことでしょうか?
  • 「自分がどういう経歴かすら明かそうとせずに、客観データも示さずに民間企業を批判する人の教育理念と比べたら、出版社としての法人登記をして営業活動を続けている桐原書店などの出版企業のほうが、よっぽど信用できます。」
→では、すじにくシチュー氏も色々と素性を明かしたらいかがですか? ついでに指導経験歴も。
以上です。すじにくシチュー氏におかれましては、ご自分のコメントを猛省していただきたいものです。なお、06:26 (UTC)と 06:39 (UTC)のすじにくシチュー氏のコメントは、名誉棄損で訴えられても文句が言えないものであり、また他のユーザーに対しても悪影響を与えるものであって、評価以前です。よって、コメントしませんがあしからず。
--119.104.51.29 2017年7月2日 (日) 08:08 (UTC)

(すじにくシチューからの報告) 記事本文にある IPユーザー 119.104.51.29 の執筆した「よく聞かれます」の文言を含む文章について、記事本文から除去しました。この議論ページでも、IPユーザー 119.104.51.29 の検証可能性への改善態度および行動が示されなかったためです。IPユーザー 119.104.51.29 は「天に唾する」とコトワザをいいますが、しかし、IPユーザー 119.104.51.29 の書いた文章への証明責任は、IPユーザー 119.104.51.29 自身が負担を負うべきです。 --すじにくシチュー (トーク) 2017年7月2日 (日) 20:55 (UTC)

「よく聞かれます」の文言を含む文章を除去した、というのは、「塾・予備校の注意点」節への編集ですね。119.104.51.29さんではなく私が書いた文ですが、こちらの節の内容については、このノートではまったく論点になっていませんでした(私への言いがかりのネタにはなっていたかもしれませんが、まともな議論の対象ではありませんでした)。ですので、わざわざ報告せずとも自由に編集していただいて結構です。内容に問題があれば議論を提起しますが、まぁ大枠はそれほど問題ないと思いますので、私は追認します。いまだに文部省が存在しているのはちょっとありえない誤りなので修正をお勧めしますけど、わざわざ私が直すとこじれるかもしれませんから直しません。
ところで、そこではなくこのノートで論点になっている「教科書ガイドについて」節が勝手に編集されている点は問題視しています。こちらの方がノートへの報告を要する事項でしょう。こちらの節の編集についての「証明責任」とやらはすじにくシチューさんが負っています。では、よろしくお願いします。--126.100.203.183 2017年7月3日 (月) 11:16 (UTC)
119.104.51.29です。接続環境の都合からIPアドレスが変わっているので先に申告しておきます。
すじにくシチュー氏宛の昨日の意見に対して、頂いたのはまともな返信ではなく、126.100.203.183さんとの混同までなされた、「まともにコメントを読んでさえいない」ことがまるわかりの文章で、正直、呆れております(本文履歴見ればわかりますよね? それとも、私の投稿を126.100.203.183さんの偽装工作と妄想したのでしょうか)。
最後にもう一度、指摘しておきます。すじにくシチュー氏のおっしゃる「学習法」における検証可能性とは何か、きちんと説明し、なおかつ例示をして誰にでもわかるように示してください。ご自分の経験ではなく、例えばどういう文献(書籍・雑誌・投稿論文など)を参考にしたとかをもれなく紹介してください。それが検証可能性のはずです。もし「そんなの面倒くさい」というのであれば、検証可能性云々と言われる筋合いはありません。それと、まともな日本語で答えてください。以上です。
--119.104.58.230 2017年7月3日 (月) 13:58 (UTC)

(すじにくシチューの意見) 以下は、読者への説明です。

IPの両者を同一人物だと混同していました。読者に混乱を与えてしまい、その点は謝罪します。しかし、IPの両者には謝罪しません。匿名である以上、そのようなリスクを許容するべきです。IP氏の編集のどちらにせよ、私は両IPの編集内容に疑問があるので、まとめた反論として、私の上記の反論とします。

「客観的データ」というのは、言い方が悪かったかもしれませんが、統計などの事ではなく、文字通り「客観的」に真偽の確認をできる「データ」(たとえ1個の情報でもデータという)そのものの事です。私はかなり理屈っぽく文章を書いてますので(「◯◯である。なぜならば〜〜だからだ。」のような論法を乱用するかのように)、いちおう、(真偽はともかく)検証可能なわけであり、しかも、根拠(「なぜならば〜〜だからだ。」の部分の論法)が書かれているので、検証作業では、その根拠とやらの部分だけを検証すれば済むので、第三者にとっては検証作業の負担が減ります。

たとえ、IP達が、そのような、すじにくシチューの検証可能なデータを見た事がないと言っても、上述のように私は検証可能(真偽はともかく、いちおう検証可能である)な情報(データ)を示しています。

私の口調は、対立を恐れずに意見をどんどん言うスタイルですので、喧嘩腰だと錯覚するのでしょう。しかし、私の投稿は検証可能性を、かならず用意しているのです。

そもそも、この学習ガイド『高校5教科全般』の大本になったwikibooks記事『高校生活ガイド』を著作したのが、ほぼ私なのですが・・・。(なお、「学習方法」そのものの企画を考えたのは私ではなくMydher氏です。Mydher氏が2009年に企画したのです。)

『高校5教科全般』の記事内容じたいも、結局、私がほとんど著作しています。IP氏たちは、単に、その一部を編集しているだけです。

私が、あらかじめ学習ガイドの記事を執筆しているので、IP氏たちは、自分の書きたいところだけを書くことが出来ているわけです。

逆にIP氏たちは、形式的には、事情を知らない外部者には一見「検証可能」なように見えてしまうかもしれないが、しかし、その文章内容は、まったく検証可能性の乏しい文章を書いているのです。しかし、IP氏たちに、その自覚はないのでしょう。なので、私の投稿に、かみつくわけです。IP者の投稿は、たとえ論理学的・教育学的な用語などを用いていたりしても、しかし両IPの論法が、まったく論理的ではないのです。

なので、あるIPの人物は教科書ガイドの出版社を不十分な情報にもとづいて執拗に攻撃したり、あるIPの人物は、素性を明かさないまま教育者のような「よく聞かれます」という体験談的な文言を根拠に自説を書いたりするわけです。

IP氏たちは、自分の嫌いな意見、自分の嫌いな論法を「検証不可能」「検証困難」だと判定してしまう、未熟な人物に陥っている人たちです。いわゆる「すっぱいブドウ」です。そして、IP氏たちに、その自覚はないのです。

このような未熟な人物たちから、私が嫌われても、むしろ光栄ですらあります。むしろ、好かれたら、困ります。

私が、彼らIP氏たちの文章をリバートする最大の理由は、そもそも投稿内容が全体的に低レベルだからです。ハッキリいうと、彼らの投稿内容のほとんどは、役に立たない情報であるからです。

たとえ彼らに、塾講師としての経験や、あるいは大学院生などとして学部生の指導などの経験があろうとも、それは、たとえば塾の経営者の能力が優れているのであったり、あるいは指導教授の能力が優れているのであり、けっして、下請け(したうけ)作業をした彼等の教育能力ではありません。

部分的に、彼らの体験談などにもとづく貴重な情報も、投稿内容の一部には、あるのかもしれませんが、しかし残念ながら、投稿文中の用語や観念だけが高尚である場合がほとんどで、肝心の内容の具体性が、まったくの低レベルだからです。そして、その貴重な情報ですら、おそらく彼らの発見・検証ではなく、彼らの上司や学生時代の指導教員などのような、彼等の周囲の人物が発見して検証しただけで、上司の責務として部下であろう彼らに教えてあげただけの情報なのでしょう。

彼らは、彼らの上司の論理性・教育能力を、あろうことか彼ら自身の論理性・教育能力だと勘違いしてしまった人達なのです。

例えるなら大企業のサラリーマンが、所属している会社の信用を自身の能力だと錯覚してしまい、そのためリストラ後には無能なくせに尊大な労働者になってしまうのと、同じ症状なのです。--すじにくシチュー (トーク) 2017年7月3日 (月) 23:27 (UTC)

すじにくシチューさんは「「◯◯である。なぜならば~~だからだ。」のような論法」を用いた文章は検証可能である、とおっしゃっているように見えます。これはWMP一般で用いられる「検証可能性」という用語の意味とはかけ離れており、そのまま用いると紛らわしくて議論になりません。ここでは、「すじにくシチューさんの用語法による検証可能性」、長いので略して「すじ証可能性」と呼ばせてもらいます。すじにくシチューさんは、次の主張をしておられるようです。
  1. すじにくシチューさんの書いた文章は、すじ証可能である。
  2. 126.100.203.183の書いた文章は、すじ証可能でない。
  3. したがって、すじにくシチューさんの書いた文章を残し、126.100.203.183の書いた文章を排除すべきである。
しかし、この議論にはいくつかの誤りがあります。すなわち、
  1. そもそもすじ証可能性があるかどうかは掲載の可否に関係ない。つまり、すじ証可能性はどうでもいい。
  2. すじにくシチューさんの書いた文章は、すじ証可能ではあるが、検証可能ではない。
  3. 126.100.203.183の書いた文章も、すじ証可能ではあるが、検証可能ではない。
という点です。つまり、あなたも私も同じ穴の狢、検証可能性についてはどっちもどっちの低レベルな争いなのです。ですので、そこを争うことに意味はありません。現実に照らし合わせて、どちらの記述の方が適切かを議論する、あるいは、どちらの記述も残さず白紙化する、このいずれかの選択肢しかありません。
以下は余談。私は個人攻撃をされてもなんとも思わないので勝手にしてくれればいいのですが、少しアドバイス。もし私がどうしようもないつまらない人間でも、どうしようもない極悪人でも、それにより私の文章を排除すべきだという結論にはなりませんので、その類の議論は無意味ですよ。私はあなたがどんな人間であるかには興味はありませんから、あなたはきっと素晴らしい人物なんだろう、と適当に想像しておきます。でも、たとえあなたがどんなにすばらしい人物であっても、あなたの書いた文章をそのまま世に出すのは私は反対です。--126.100.203.183 2017年7月4日 (火) 15:29 (UTC)


(すじにくシチューのコメント)これは、第三者の読者への説明です。

2017年7月15日 (土) 03:28‎ 要約コメント「議論に応じてください。」とありますが、キチガイの行動パターンとして、相手が自分の要求を飲むまで、「議論」を延々と申し込みつづける、という行動パターンがあります。総会屋ヤクザと同じ行動パターンです。あいにく、私はカウンセラーではないし、ヤクザマニアでもありません。--すじにくシチュー (トーク) 2017年7月15日 (土) 04:31 (UTC)

IPからの議論に応じて反論した結果、彼らIP氏たちは、いっこうに検証可能性のある反論を出しませんでした。なので、事実上の「議事進行妨害」とみなし、IP氏たちとの議論を打ち切るべきでしょう。--すじにくシチュー (トーク) 2017年7月15日 (土) 04:35 (UTC)

119.104.58.230 です。すじにくシチュー氏が反論をするでもなく、別の記事の執筆をはじめてここから逃走。かとおもいきや、リバートされると編集合戦。もはやあきれてものも言えません。そもそも「第三者の読者への説明」などと言っている段階で「対話に応じる意志無し」と判断されても仕方ありません。「対話している」というならば、126.100.203.183氏の「すじ証可能性」について、何か有効な反論はされましたか? IP126氏の指摘(および、同様の議論が別ページでも行われていますよね? 忘れたわけではありますまい)にどうすり合わせをしようとしたんですか? 議論の場というものは相手を打ち負かすのが目的ではなく、提起したことに対して反論しつつ落としどころを探るのが目的ではないのですか? すじにくシチュー氏はWMPの検証可能性独自研究は載せない中立的な観点をもう一度、隅から隅まで熟読すべきでしょう。
どんなに「『高校5教科全般』の記事内容じたいも、結局、私がほとんど著作しています。IP氏たちは、単に、その一部を編集しているだけです。私が、あらかじめ学習ガイドの記事を執筆しているので、IP氏たちは、自分の書きたいところだけを書くことが出来ているわけです。」と威張ってみせても、登録・非登録を問わずに他の読者から「それ、おかしいのでは?」という人がいれば修正が入るのがwikiです。(どうも、すじにくシチュー氏はIPアドレス編集者に対して妙な優越意識を持っているような気もしますが(根拠)。電話番号認証などをしないここでは、コテハンを持っているのとIPユーザーも所詮は同じ穴の狢ですよ。)
さて。こう言った以上、私もすじにくシチュー氏の反論(?)とやらに指摘しましょうかね。IP126氏が的確な指摘をしていたので、蛇足とは思いましたが。
  • 「「客観的データ」というのは、言い方が悪かったかもしれませんが、統計などの事ではなく、文字通り「客観的」に真偽の確認をできる「データ」(たとえ1個の情報でもデータという)そのものの事です。私はかなり理屈っぽく文章を書いてますので(「◯◯である。なぜならば〜〜だからだ。」のような論法を乱用するかのように)、いちおう、(真偽はともかく)検証可能なわけであり、しかも、根拠(「なぜならば〜〜だからだ。」の部分の論法)が書かれているので、検証作業では、その根拠とやらの部分だけを検証すれば済むので、第三者にとっては検証作業の負担が減ります。たとえ、IP達が、そのような、すじにくシチューの検証可能なデータを見た事がないと言っても、上述のように私は検証可能(真偽はともかく、いちおう検証可能である)な情報(データ)を示しています。」
→「理屈っほく書いているから検証可能だ」という話にはひっくり返りそうになりました。そもそも「信頼できる情報源を元にして、出典を明記」したものが、一般的に「検証可能性を満たしている」といえます。真偽を判定できるか、理屈っぽいかではないのです。もし、「理屈っほく書いているから検証可能」という理屈がまかり通るならばどんな文章でも論理的な形式さえ満たしていれば「検証可能」ということになってしまいます。
例えていいましょう。「タヌキ×キツネは大入道だ。なぜならばタヌキもキツネも哺乳類だからだ」というのは、論理形式は正しい文ですし、「なぜならば」が正しいので「すじ証可能性」も満たしてはいるでしょう。だからと言って、こんな文ばかりが載っているサイトがアテになると思いますか? そして、そんなのがあれば即座に、誰でも修正できるのがwikiです。
そして、ここは確認。「自分の書いたもの自体がデータ」だとおっしゃるのでしょうか? ということは、すじにくシチュー氏の言う「データ」=「自作の記事」なのでしょうか。そういう理解で問題ないですか。
  • 「そもそも、この学習ガイド『高校5教科全般』の大本になったwikibooks記事『高校生活ガイド』を著作したのが、ほぼ私なのですが・・・。(なお、「学習方法」そのものの企画を考えたのは私ではなくMydher氏です。Mydher氏が2009年に企画したのです。)『高校5教科全般』の記事内容じたいも、結局、私がほとんど著作しています。IP氏たちは、単に、その一部を編集しているだけです。私が、あらかじめ学習ガイドの記事を執筆しているので、IP氏たちは、自分の書きたいところだけを書くことが出来ているわけです。」
→「だから?」としか言えません。いくらすじにくシチュー氏が先に書いたからと言っても、おかしいと思ったら誰でも修正できるのがwikiです。ここはすじにくシチュー氏の個人サイトやブログではありません。そういうことは別の場所でどうぞ。
  • 「しかし、その文章内容は、まったく検証可能性の乏しい文章を書いているのです。しかし、IP氏たちに、その自覚はないのでしょう。なので、私の投稿に、かみつくわけです。IP者の投稿は、たとえ論理学的・教育学的な用語などを用いていたりしても、しかし両IPの論法が、まったく論理的ではないのです。」
→私はかなり、すじにくシチュー氏ご自身のコメントに沿って指摘していますよ?
  • 「あるIPの人物は、素性を明かさないまま教育者のような「よく聞かれます」という体験談的な文言を根拠に自説を書いたりするわけです。」
→もう一方がIP126氏を指していると思いますので、こっちは私だと思います。が、記事本文はずっとすじにくシチュー氏とIP126氏だけが編集していますよね?[根拠] 私はここでコメント投下はしていますが。履歴くらいちゃんと読んでください。履歴を読んでいるなら日本語を正しく使ってください。
(いい機会なので言わせていただきますが、私、相当、すじにくシチュー氏の記事の話し言葉や常体敬体混合文を直してきました。頼みますから、日本語表現をそろそろ覚えてください。)
  • 「部分的に、彼らの体験談などにもとづく貴重な情報も、投稿内容の一部には、あるのかもしれませんが、しかし残念ながら、投稿文中の用語や観念だけが高尚である場合がほとんどで、肝心の内容の具体性が、まったくの低レベルだからです。そして、その貴重な情報ですら、おそらく彼らの発見・検証ではなく、彼らの上司や学生時代の指導教員などのような、彼等の周囲の人物が発見して検証しただけで、上司の責務として部下であろう彼らに教えてあげただけの情報なのでしょう。」
独自研究は載せないという観点からすれば大変「光栄」です。私も初稿記事を書いたことも他に訂正したこともありますが、いくつもの先行研究に当たりました。客観性・検証可能性(≠すじ証可能性)を満たすならば当然だからです。私やIP126氏も遠く及ばない、オリジナルの素晴らしい教育理論がおありでしたら、ここでグダグダと演説するのではなく、ぜひ単著を出すなり論文投稿なりして下さい。くり返しますが、ここは独自理論を開陳するところではありません
すじにくシチュー氏の文に反論する形をとりましたので、長文、失礼いたしました。--203.136.196.34 2017年7月15日 (土) 06:35 (UTC)