トーク:法学入門

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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混迷の時代が続いておりますが、その具体的なことのひとつとして、広く巷での言葉の乱れと表現の貧しさが感じられます(一例は、「めっちゃ」の多用やその音韻のきたなさ)。例えば、DVDで昭和30年代の喜劇などを観ますと、ちょっとした言い回しにも言葉の表現センスの良さと音韻のよさが伺えます。思い返すと、「やばい」とか「ださい」とか「せこい」とか、こんな言い方が広まりつつあった1970年代後半あたり、ちょうど、新人類世代の時期あたりからの現象でしょうか。そして、昔の人は自身で苦労しながらよく学んだと言われていますが、表現センスのよさは、このインスタントやコピペでは決してなかったことに由来するのだとつくづく思わされました。

昭和の時代には、やや冗談まじりの会話の中で「社会の窓」という言葉がよく使われました。この言葉の意味は、ボトムスのフロントジッパー部分のことを指すものでしたが、どうして、このような言葉が使われ始めたのか分かりませんが、それはさておき、法学を生態的に理解する場合、社会学とは違った意味で、生の人間社会や個々の人がどういったものであるか、真に学ぼうとするならば、また、視点を多く持ちたいならば「社会の窓」の体験は重要です。学業に支障のない程度で、例えば、レジのバイトでいろいろな人と申込・承諾の場面を体感するのは有用です。これは社会の窓のひとつですよ。(ちょこっと助言)

有難い機会とは、全くないか、または、そうそうあるものではないことは無論ですが、体験上、その機会を失った者として、これからの可能性のある人に助言をしておきましょう。先ずは、機会を与えてくれた人には、受けた者としては、必ずその時の自分の周りの状況や、特に、職場などので「自分の扱われよう」を正確に伝えておくことです。職場という「場」は、通常、外部に対して取り繕うものですから、職場特有の癖は常識的観点からは分かりようがありません。この癖というものは、機会を受けた者にとっては、端的には、その職場などでの扱われ方そのものなのですから、機会を与えてくれた人に対しては、恥ずかしがらず、戸惑うことなく伝えなければなりません。特に、その職場などから排除されている状況であれば、絶対に伝えなければなりません。なぜなら、機会を与えてくれた人に対して、その職場は、職場が自ら進んで排除していることは絶対に言いませんし、その真逆の虚言「優遇している」とさえ伝える可能が大きいからです。そして、これを若干の違和感を持ちつつも、機会を与えてくれた人がそう思ってしまった場合、その機会は、当の機会を受けた自分を抜きにして、当事者でない職場の人を中心に話が進み、当初の前向きなものとは異なった、おかしな利害の方向に行ってしまう可能性が大きいからです。私の場合は、日常的にすごいパワハラによる排除がされていたところ、機会の可能性があってからは、それが止み、しかし、何かとげの入った飯を食わされているような違和感が続く中、機会の可能性を辞退したところ、今度は四六時中、すごいセクハラ・モラハラをされて、職場を変えることになりました。恐らく、この機会によって、排除していた者に新たな利用価値を見出したところ、当てが外れて、以前よりも増してハラスメントをして、更なる、追い出しをかけたのだと思います。 ということですので、機会を与えてくれた人に迷惑をかけず、いずれ辞めなければならない職場にも気を持たせるようなことにもならないようにするため、機会を与えてくれる人に対しては、自身の周り、特に、職場などでの扱われようを正確に伝えなければなりません。その職場で機会がなければ別の職場で可能性を求めることが肝要です。(体験者より)


社会記事の読み方、もう少し広くいろいろなものごとの読み方についてひと言。記事は、書き手の限られた視点からのものであることを先ずは忘れないこと。しかし、その限られた表現の中から具体的な問題点を、読み手自身の来し方の限られた経験から想像すること。しかし、この限られている各段階を自覚することは、社会の様々なところに見られがちな単純二分的断定を吟味する上で重要であること。例えば、中学高校の漢文で字面だけ習った古代の「性善説」をその社会的背景の理解もなしに、かつての記者が流行語的に記事に使ったのをいいことに、その使い方の吟味もなしに、様々な状況下の人の評価に使うこと自体の評価をしなければ自身の判断力はないということ。また、最近、とみに扱われることの多いIT関連の不正アクセスの記事。これは、学校や職場のパソコンにファイアウォールやアンチウィルスソフトの導入の問題と断定するだけでなく、パソコンの共有化やリモートデスクトップ機能オンの際の、可罰的とまではいかない覗き見から、偵察的行為、学術論文や開発資料の剽窃・窃取まで様々なものがあることの具体性に思い及ばなければならないということ。また、一般的な世代間問題で、かつては年長者は思慮が深く・気遣いがあり、他方、若者はそうではないという、標語「今時の若い奴はなっていない」に集約される固定観念をそのまま、色眼鏡として使い、おかしな評価をしてしまっているということの多さに気づかなければならないということ。最近、見たことでは、定年を過ぎた初老の男性が、噛んだガムを複数回にわたり、人の多く通る道に吐いていたり、タバコの吸殻をそのままポイ捨てしたり、飲み終わった空き缶を専用のゴミ箱に捨てないでそこら辺に置いたりと、一見、常識がありそうな紳士?に見えるので、標語には気を付けないとと思いました。また、標語を掲げながらハラスメント行為をしてやまない者やこれに盲従し自己判断力を持てない人たちも困ったものでしょう。(何ごとも適正使用)


法的感覚は、『法学入門』等を読むことによってはじめて得られるものではなく、誰もが幼い頃に親しんだ童話や絵本がそのはじまりと言ってよいでしょう。その一例として、かつてはよく読まれていた〝PINOCCHIO〟が揚げられます。これは、現在は安価なDVDで観ることができますが、アニメの背景にある小道具などにも西洋の新旧さまざまな思想が込められていてなかなか凝っていますが、それはさておき、法解釈学的には、どうして「木の人形」なのか、そして、この「木の人形」が自活したときにどのような問題が生じたのか、最後に、この「木の人形」が「人間」になったことは何を意味するのか、条文の形式性とその解釈がどの範囲までで妥当と言えるのかということと対応させてイメージすることが大切です。というのは、特に、童話は、大人が子どものために、さまざまな社会状況および現象に、一定の解釈を施して作られたものだからです。つまり、童話とは、ひとつの壮大な解釈体系なのです。これについては、自活させられた木の人形とは、1つの法的概念であること、例えば、記された自由やさまざまな権利であることは、すぐに分かるでしょう。童話としてもう1つ揚げれば、他には、〝THE LITTLE HOUSE〟があり、こちらは、これ自体観念的に変わらない「小さい家」を通して、物事の価値が、どのようして成り立っていくのか、私法的感覚および公法的感覚の交錯が鋭く描かれています。以上の署名の無いコメントは、221.191.23.67会話/whois)さんが[2015年5月10日 (日) 05:07]に投稿したものです。

現在に至っては、情報技術(IT)の安定的運用が難しいことは周知の事実となっています。どのように対策を講じても安全性に限界のある状況において、法的感覚を体系的(構成的)に表現する能力が求められているように思います。これには、例えば、富井政章や岡田朝太郎などの古典的書物が参考になります。これらには、論調は現代ではない時代的な近代性が感じられ、読みづらいところがありますが、法的概念の構成および関連的記述には、個別的物理的な機器等に振り回されない、法的概念の安定性が志向されているように思われます。 2015年8月23日(日)以上の署名の無いコメントは、61.119.230.191会話/whois)さんが[2015年8月22日 (土) 22:59‎]に投稿したものです。

内容構成上、これ以上の内容追加は無理があるために何方かが以前に投稿されていた格調高い権威的記述を戻し当方の追加内容を削除しました。2011年10月26日(水)以上の署名の無いコメントは、60.37.94.75会話/whois)さんが[2011年10月26日 (水) 03:19]に投稿したものです。

全面的に書き直す必要がありますがーーーなら貴殿がかいたらどうか。批判なら容易である。ヘンテコナものは書かないようにするのでしょうね。--210.233.5.28 2007年4月3日 (火) 14:51 (UTC)

はじめにこのページの赤リンクを作ったのは私なので、当然そのうち書く予定でしたが、執筆の催促めいたことをされた場合は後回しにすることにしてますので、残念ですけど当分放置します。こころおきなくご執筆を。あまりおかしい内容なら記述の除去だけやるかもしれませんけどね。--倫敦橋 (Londonbashi) 2007年4月3日 (火) 14:58 (UTC)

Tomzo 氏も倫敦橋 (Londonbashi) 氏も削除するばかりでなく、加筆して盛り上げてください。あまりおかしい内容ではと恐れる事はない。--210.155.77.36 2008年1月2日 (水) 00:31 (UTC)

あなたは、大学で法学を履修したことが無いと思うので、勝手なことが書けるのでしょうが、流石に、この内容は畏れ多くて書けません。著名な著作を列挙しますので、それを読んでおいてくださいというのが、法を学んだ者としての初学者への良心です。--Tomzo 2008年1月2日 (水) 02:12 (UTC)


恐ろしく権威に弱いお方ですね。まるで、封建的な100年前の世代の人の言動のような気がします。もう時代が変わってしまっているのですよ。昔はそのような態度が奨励されたと思うがもう今はそんな亡霊のような価値観を持つ必要はなくなりました。今は今で物事は対処されませんか。まだブロックがすんでいないようなので早くされたい。--210.155.26.190 2008年1月2日 (水) 05:26 (UTC)
ええ、たわごとを聞くくらいなら権威の言葉の方がありがたいです。多分、たわごとを言う人は封建時代だろうと何時だろうと言っていたと思います。あなたにあなたの嫌いな権威である孔子の「学而不思則罔、 思而不学則殆」という言葉を贈ります。もっと「学んで」下さいね。とりあえず210.155.26.190もブロックしておきます。--Tomzo 2008年1月2日 (水) 05:41 (UTC)
すじにくシチューと申します。童話の読み聞かせは小学校レベル以上の法律教育には不要でしょう。なぜなら小学校6年の社会科の公民分野ですら、衆議院や参議院の仕組みなどの、童話よりも専門的な事を習います。一方、大人による子供への童話の読み聞かせは、幼稚園や小学校1年など情操教育などとして、既に児童生徒に教育済みでしょう。また、童話中の「公的感覚」といいますが、小中高校の国語科目でならう近代文学作品や古文作品ですら、夏目漱石や平家物語とかを思えば分かるように、社会的な発想を作中で扱ってるでしょう。--すじにくシチュー (トーク) 2016年7月14日 (木) 10:35 (UTC)

『シネマで法学』って書籍が有斐閣から出版されてたようですが、たぶんIP氏は、この本を曲解したんでしょう。なお有斐閣の名誉のため捕捉しておくと、Amazonや有斐閣のウェブサイトを見た限り、当然、この著書では、法学者がきちんと専門的な解説をつけており、けっして単に映画の内容紹介だけで放ったらかしなんて事は無いようです。--すじにくシチュー (トーク) 2016年10月30日 (日) 04:50 (UTC)


法的感覚の涵養には、法学書のみならず、さまざまな分野の書物を可能な限り読み’込む’ことが大切なのは勿論ですが、一般には受け取られやすい科学の絶対性に対して、相対的で観察眼の多角性を与えてくれる書物は特に有用です。例えば、広告的には高まりませんでしたが、川崎薩男『数学の序説』(共立出版)は、グループディスカッションの意味あいでもその1つでしょう。(通りすがり より))>以上のコメントは、221.18.2.35会話/whois)さんが[2017年6月30日 (金) 03:05(UTC)]に投稿したものです(Kyubeによる付記)。

法学学習の効果について、どなたか本文にコメントしていただけないでしょうか。例えば、いろいろな考え方を知って相手を理解する寛容性とか、現代病理現象であるIT機器、特に漢字や英文等変換機能の利便性による感覚の退化に対する議論・初等的意味での自立的な作文効果とか、お願いします。なお、個人的には、学説、例えば、憲法の樋口博士・民法の星野博士を伝統的法学の最後と位置付けするのか、それとも、その後の学説のはしりと位置付けるのか。そうすると、憲法の長谷部先生(『価値の迷路』)や民法の大村先生(『生活民法』)等、実務法学とは一線を画す学術味の深いものへの系譜とか面白いと思うのですが。(通りすがり より)))>以上のコメントは、221.18.2.35会話/whois)さんが[2018年3月16日 (金) 23:38(UTC)]に投稿したものです(Kyubeによる付記)。

かつて法学の先生から当たり前と言われメモっていたことを書き込みました。う〜ん、最近、胃腸の具合が…。(生鮮食品の防腐剤の適量使用を願う者より)以上のコメントは、221.18.2.35会話/whois)さんが[2018年5月14日 (月) 05:48‎(UTC)]に投稿したものです(Kyubeによる付記)。

書籍の追記と誤字の訂正をしました。前々から周りを見ていて思ったことですが、例えば、コンビニなどでの買い物で食べ終わった後のゴミとか、ペット散歩時のフンの後始末とか、外を歩きながらガムを噛んだ後の始末とか、ほとんどの人はコンビニの分別ゴミ箱,家庭のゴミ箱,包み紙にくるんでとりあえず服のポケットに入れるとかするもので、これら多くの人はいろいろな法的な意味もいわばまともに解釈できることと思いますが、そうでない人はそもそも法的なものについてどのような感じ方をするものなのでしょうか。気になるところです。最近、そうでない人をたまたま見てしまったので・・・。あともうひとつ大切なことを言っておきましょう。一般的にみて、或る人の他の人に対する或る行為が、その他の人の本来の意思に基づいてする物ごとを害し、かつ、本来使うべき時間をいかに奪っているか、という事実を感覚的に理解できなければ、意思というものの理解は表面的なものになってしまう、ということです。さらに、その或る行為に対する法的評価ないし常識的および理念的評価は、行為者自身には概観さえ不可能であり、それが依頼されたことであっても、依頼の事実を以って評価の各段階において、正当化も免責もできるものではないということです。(生鮮食品の防腐剤の適量使用を願う者より)以上のコメントは、221.18.2.35会話/whois)さんが[2018年5月15日 (火) 05:37‎(UTC)]に投稿したものです(Kyubeによる付記)。

法学の学習ガイドと科目「法学入門」を混同してるのでは?[編集]

民法とか、商法とかの、推薦図書の紹介は、「法学学習ガイド」とかのページを別途作って、そこで紹介すべきだと思います。現在の記事内容は、法学の学習ガイドと科目「法学入門」を混同してると思います。--すじにくシチュー (トーク) 2016年10月30日 (日) 04:56 (UTC)