ベルサイユ体制

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ベルサイユ体制とは、第一次世界大戦後結ばれたベルサイユ条約を元に築かれた国際秩序。ドイツでのアドルフ・ヒトラーの台頭により、崩壊した。

ベルサイユ条約[編集]

ベルサイユ条約はドイツは大量の領土割譲、大量の賠償金を背負わされ、それによる社会混乱はアドルフ・ヒトラー台頭の、ひいては第二次世界大戦の遠因となった。

ベルサイユ体制下における諸条約[編集]

ベルサイユ条約締結後、ドイツではカップ一揆などが発生するも、全体的には安定はしていたが、1923年、フランスによるルール出兵によりハイパーインフレーションが発生。さらには、アドルフ・ヒトラー主導のミュンヘン一揆が発生(この一揆自体は失敗するが、これもナチスが党勢を拡大する契機となった。)したが、1924年のロンドン会議の結果ドイツの賠償問題に関し、ドーズ案が示され、1925年、フランスのドイツへの態度の強硬化を防ぎ、ドイツの拡大を防ぐべく、ロカルノ条約が締結。さらに、1926年、ドイツの国際連盟加盟が許可され、事態は一気に収束していったかのように思われた。

世界恐慌[編集]

しかし、1929年、アメリカを中心に世界恐慌が発生すると、ドーズ案の代わりに示されたヤング案すら支払いが不可能になった。また、w:1932年7月ドイツ国会選挙では、ナチスが第一党となり、1933年、アドルフ・ヒトラーがドイツ共和国の首相に任じられると、瞬く間にベルサイユ体制は崩壊。同年、全権委任法(授権法)が可決され、ナチス・ドイツの一党独裁体制はほぼ完成した。

東アジアの情勢悪化[編集]

世界恐慌にあおりを受けて1933年に成立したナチス政権が国際連盟脱退後の1935年には再軍備を宣言し、イタリアはソマリランド (当時イタリア領) との国境紛争を口実としてエチオピアを侵略するなどファシズムが台頭し始める。翌1936年、スペインでは内戦が起きるなか、ドイツはラインラントに進駐する。

アジアでは、1931年の柳条湖事件 (関東軍 (と名乗る日本軍) による鉄道爆破) に端を発した満州事変、上海事変により、中国への強硬的政策が進められ(当時の若槻内閣は不拡大方針を採るも軍部や関東軍はこれを無視)、ドイツが国際連盟を脱退した1933年、柳条湖事件以後の日本の侵略行為を正当ではないとするリットン報告書採択の際日本も脱退する。これ以降、ドイツ及び日本は世界から孤立していくこととなる。

関連項目[編集]

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