利用者:椎楽

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以下、書きかけの原稿。完成には至らず、未だ正式アップに至らず。

覚書1.人文学独学ガイド[編集]

独学ガイド・人文系一般

はじめに[編集]

まず、人文系の独学について定義しておこう。というのは、人文系の場合、「なにをもって独学とするのか」を決めておかなければならないからだ。例えば、『赤毛のアン』の日本語訳を読むだけならば、誰にでもできる。英語ができるなら原文のAnne of Green Gablesもいいだろう。人物伝なら小学校の図書室にさえ置いてあるのだから誰でも読める。『ソクラテスの弁明』も、読むだけならばさして難しいものではない。こうした、「既にある本を読む」ことだけ、つまり読書を人文系の独学とするならば、このガイドは不要である。自分の興味関心のある本を読んで、知識を蓄えるなり、感性を磨いていくなりすればよい。 では、英検などの資格をとるための勉強法を伝授するのがこのページかと言われたら、それも違う。これらは、基本的に高校までの勉強法を踏襲していけばいいし、それぞれの資格試験参考書・問題集に丁寧なアドバイスもあるので、そちらを読んだ方がよい。このページの出番はない。 上記のように、読書や資格対策を人文系の独学と定義するならば、一見すると誰にでもできそうで、根気さえあれば易しいことのようだ。しかし、単なる読書、資格の取得という地平から一歩でも踏み出そうとすると、呆然とさせられる。ここで初稿筆者の経験を述べさせていただきたい。初稿筆者は歴史好きなのだが、高校時代に初めて歴史の専門書を読んだときに唖然とした記憶がある。 これは個人的な例だが、実際に人文系の専門書や岩波文庫などに収録されている古典に接すると、小中高までの読書とは全く次元が違うことに戸惑いを覚えた経験が他の方々にもあるかもしれない。

だから、ここでは、大学生~大学院修士課程くらいまでの研究ができるようになることを目的としている。 ここでは基本的に大学初年くらいも視野に入れている。翻訳大国・日本では古今東西の名著が現代日本語に翻訳されて書店や図書館にならんでいる。それらを読むだけなら、何の苦はないし、この独学ガイドも不要であろう。基礎的な素養を幅広い読書で身につけることもまた、どう生きるのか・何を学ぶのかを探るためには大切なことである。 もちろん、これはこれで大変なことである。諸外国では人文科学でも英語やフランス語などを知らないと、そもそも

独学準備[編集]

数学・理科について[編集]

高校時代に「数学が苦手だから文系」という選択をした人も多いかもしれない。しかし、文系でも数学を使う機会は少なくはない。特に言語学では言語を徹底的に抽象化して、特徴を捉える。そのため、同じく抽象化した言語である数学をもって表現することもある。だから、独学には一定程度の数学の素養は問われる。他には、哲学の一分野である科学哲学は数学をはじめとした自然科学系の知識がないと理解自体が難しい。科学哲学と近い分野である自然哲学も中学・高校レベルの理科の知識がないと、文献の内容と比較して考えることはできない。論理学は数学の使用が前提である(数学の一分野でもあるので当然だが)。だから、「人文系だと数学の勉強をしなくてもいいから楽」と思っていると、思わぬところで足をすくわれる可能性が潜んでいる。

と散々脅しておいて何だが、実際には人文系で使う数学はかなり限定的である。そのため、幸い(?)人文系全体では数学そのものの復習はそれほど重要ではない。

文学:基本的に使わない。だが、統計的に

言語学:使う。

哲学:自然哲学・科学哲学・言語哲学では使う。論理学は数学必須。

倫理学:メタ倫理でない限り、数学を使う機会は少ない。むしろ、生命倫理・環境倫理などの自然科学との学際分野では高校までの理科の知識が欲しい。

心理学:分野次第だが、臨床心理学では数学を使うことはない。

民俗学・歴史学・宗教学:ほぼ使わない

何をしておけばいいとは、分野の違いもあるので一言では言いにくいが、人文系では集合・関数・統計を使う可能性がある。もし、数学を使うかもしれないというのであれば、この三つをまず重点的に復習しておくといいだろう。そのうえで、

ここからは初稿筆者の私見にすぎない。

直接使うかどうかは別にして、人文系であっても、数学は基本的な素養の一つとして習得しておいた方がいい。できれば高校の数学III(理系数学)までは。

さらなる余談だが、この逆のことは理系の人々にも言える。人文系を目の敵にする理系の人々がごく一部にいる。

文科理科という分け方自体、明治時代の名残にすぎず、。

語学について[編集]

人文系で一番大変なのは語学だろう。原則として、人文系、特に文学・歴史・文化・思想・宗教あたりでは英語+研究対象の言語というのが言語習得の基準となる。とくに文学系統では当該の言語についての基礎的な力は必須である。例えば、ドイツ文学ならドイツ語の辞書とすでにある和訳本を参考にしながらでも構わないから、原文を読むことができなければならない。なぜなら、原文でないと分からない微妙な言い回しや語呂合わせ、押韻などが日本語訳では全くと言っていいほど反映されていないからだ。だから、『赤毛のアン』を日本語で読むのは、読書にはなるが、英文学の独学・研究にはならない。

このことを具体的に見てみよう。森鴎外訳の『ファウスト』と原文のFAUSTを比べてみる。場面は「夜」。ファウスト博士の嘆きである。

はてさて、己は哲学も

法学も医学も

あらずもがなの神学も

熱心に勉強して、底の底まで研究した。

そうしてここにこうしている。気の毒な、馬鹿な己だな。

そのくせなんにもしなかった昔より、ちっともえらくはなっていない。

マギステルでござるの、ドクトルでござるのと学位倒れで、

もう彼此十年が間、

弔り上げたり、引き卸したり、竪横十文字に、

学生どもの鼻柱を撮つまんで引き廻している。

では、同じ個所の原文を見てみよう。

Habe nun, ach! Philosophie,

Juristerei und Medizin,

Und leider auch Theologie

Durchaus studiert, mit heißem Bemühn.

Da steh ich nun, ich armer Tor!

Und bin so klug als wie zuvor;

Heiße Magister, heiße Doktor gar

Und ziehe schon an die zehen Jahr

Herauf, herab und quer und krumm

Meine Schüler an der Nase herum –

鴎外訳と原文の違いが分かるだろうか。原文では引用箇所の一行目と三行目(PhilosophieとTheologie)、二行目と四行目(MedizinとBemühn)で脚韻がなされている。それ以降はとなりの行同士で韻が踏まれている(Torとzuvor、garとJahr、krummとherum)。だが、鴎外訳では引用文の一~三行目にて「も」という脚韻が、なんとか踏まれているが、四行目以降では脚韻は消えている。他には「Heiße Magister, heiße Doktor gar」を「マギステルでござるの、ドクトルでござるのと学位倒れで」と、「heiße」に合わせるように「でござるの」という訳を当てて、リズムを原文になんとか合わせようとしている。

言うまでもないが、原文の韻が変更または消えているのは訳者である鴎外の責任ではない(むしろ、鴎外訳は頑張っている方だ)。日本語とドイツ語ではそもそも言語の作りが違うのだから、ドイツ語のリズムを完璧に日本語で再現するのは絶対に無理なのだ。したがって、ドイツ文学を研究・独学出来るようになるにはドイツ語ができなければ

もちろん、英語は必須である。最新の研究は分野を問わず英語で発表されていることもあるので、国文学や日本史といった、一見、英語とは無縁に見える分野でも英語での文献に当たらなければならないケースもある。ヨーロッパ文学の影響を強く受けた明治時代の文学ならばなおさらである。 各分野ごとに習得しておかなければならない言語(古典文法・漢文法含む)があるからだ。そして、原文で読むのが原則となる。


そのかわり、当該国に留学ないし調査に出向くのでなければ、会話・リスニング能力はそれほど問われない。

だから、大学(院)生ならば、よほど語学が苦手でない限り「語学や原書講読の授業に出よう」で良いのだが、そうでない場合はどうするか。主要もしくは身近な言語(英・独・仏・伊・露・西・中・朝・アラビア語)ならばNHKの語学講座を利用するのがもっとも安価だろう。

さて、これら以外の言語はどうするか。遭遇することの多い言語としては、サンスクリット語・ペルシャ語・ヘブライ語・ラテン語・古典ギリシャ語あたりか。これらは研究者も多いため、教科書の入手も難しくはない。熱意を持続させることが最も重要だろう。ただ、この中でも特に古典ギリシャ語は難しさが尋常ではないため、独学でやろうというならば相当の覚悟がいる。

古典文献と語学[編集]

古典文献を独学する際に気をつけたいのは現代語との差異である。現代日本語が分かるからといって、『源氏物語』の原文が読めるわけではないのと同様、現代語では古典が読み取れないケースがある。その場合には古語を習う必要がある。

古典の中でも大体、19世紀以降ならば現代語と大差はないので、現代語の学習で間に合う。問題はルネサンスから18世紀頃までである。このあたりは中途半端に現代語と異なっていることもあるので、文語的な表現についての説明が豊富な、本格的な文法書と大きめの辞書を用意しておかなければならない。

そして、ヨーロッパの文学・文化・歴史・思想の独学のためには、基本的にルネサンス前後までは各国語よりもラテン語の学習を優先した方がいい。というのも、ヨーロッパでは長く知識人の共通語としてラテン語と古典ギリシャ語が使われてきたからである。その中でも「教会の言語」とも言うべき地位にあるだけでなく、フランス語やイタリア語などの元になったラテン語は

先の漢文法とラテン語以外の古典言語に関しては、独学での学習は極めて難しい。身も蓋もないが、これらを何の前提もなく独学するくらいならば大学入試(もしくは院試)の勉強をして、それらを扱う研究室のある大学(院)に入学してゼミなどで学んだ方がはるかに楽だろう。


基礎知識としての歴史[編集]

文学・思想・宗教・文化の独学・研究では歴史についての知識も必要となる。例えばマーク・トウェインの作品についての独学・研究では19世紀アメリカについての知識(奴隷制や南北戦争など)が必須であるし、エラスムスについて知るならルネサンスから宗教改革までの動きを知らないとお話にならない。

研究対象が日本・西欧諸国・合衆国・中国ならば高校世界史もしくは日本史のおさらいをしておけば当面は問題ない。それ以外の地域では、高校までの歴史ではやや不足である。高校生~大学生でも読める歴史のテキストは大きな図書館に行けば大抵あるので、大きな公立図書館・総合大学(特に国立)の附属図書館辺りで探すといいだろう。もう少し踏み込むならば、テーマに沿った歴史のテキストが必要になる。

研究[編集]

専門用語[編集]

さて、めでたく外国語(もしくは古典文法)をマスターしても、次の問題がある。それは専門用語である。マンガ『帝一の國』にもあった、以下の文を見てみよう。『資本論』の英語版の一節である。

A commodity is therefore a mysterious thing, simply because in it the social character of men’s labour appears to them as an objective character stamped upon the product of that labour; because the relation of the producers to the sum total of their own labour is presented to them as a social relation, existing not between themselves, but between the products of their labour. This is the reason why the products of labour become commodities, social things whose qualities are at the same time perceptible and imperceptible by the senses. In the same way the light from an object is perceived by us not as the subjective excitation of our optic nerve, but as the objective form of something outside the eye itself. But, in the act of seeing, there is at all events, an actual passage of light from one thing to another, from the external object to the eye. There is a physical relation between physical things. But it is different with commodities. There, the existence of the things quâ commodities, and the value relation between the products of labour which stamps them as commodities, have absolutely no connection with their physical properties and with the material relations arising therefrom. There it is a definite social relation between men, that assumes, in their eyes, the fantastic form of a relation between things. In order, therefore, to find an analogy, we must have recourse to the mist-enveloped regions of the religious world. In that world the productions of the human brain appear as independent beings endowed with life, and entering into relation both with one another and the human race. So it is in the world of commodities with the products of men’s hands. This I call the Fetishism which attaches itself to the products of labour, so soon as they are produced as commodities, and which is therefore inseparable from the production of commodities.

英語が得意だという人でも、これを読んですぐに何が書かれているのか理解できる人はそういないだろう。

これに関しては用語集・術語集・専門辞典を使うしかない。哲学用語なら哲学辞典、

感想は不要[編集]

例えば大学の環境倫理学のレポートで「自然環境を大切にすることの必要性をあらためて痛感した。これからは授業で学んだことを念頭において暮らしていきたい」といったことを最後に書く学生は少なくない。

はっきり言おう。

こんなことを書くくらいなら尻切れトンボで提出した方がはるかにマシである。せいぜい「今回の研究では何を明らかにしたのか」と「何が未解明のままだったか」を述べる程度のことしかできないし、する必要もない。大学のレポートであるならば

ただし、例外的に大学のレポートなら授業の感想は歓迎される場合もある。特に概論系の授業の場合、案外に教員の方も不得手ないし不勉強な範囲があったりもする。そうした場合、「今回の授業内容は難しかった。○○と××との関係についていまいち理解し難かったし(以下略)」などは有益であり、また評価もされる。 そうした感想レポートは、匿名の学生によるいちゃもんじみた授業評価よりも遥かにお互いのためになる。

[編集]

ファウスト原文 http://gutenberg.spiegel.de/buch/faust-eine-tragodie-3664/4

鴎外訳 http://www.aozora.gr.jp/cards/001025/files/50909_49238.html

資本論英語版 https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/ch01.htm

修正予定[編集]

高等学校世界史B/17〜18世紀のヨーロッパの文化と社会のコラムを修正予定。専攻が近代哲学だから私もスコラ哲学には批判的だが、あまりにもこれはひどすぎる。デカルトの理解も一面的に過ぎる。

文章と文章の間の丸カッコは私椎楽のツッコミ

ベーコンとデカルト――近代的思考の芽生え

(全体的なツッコミ:『方法序説』コラムよりは誤解・誤読は少ないが、内容が錯綜としている。主執筆者の某氏自身がちゃんと理解を整理できていないのだろう)

17世紀初頭は、まだキリスト教神学の(聖書などの)古典研究的な「スコラ(哲)学」が学問体系の主流であった。スコラ学とは、11世紀ごろ確立された学問で、タテマエでは特定の思想や哲学をもたず学問的に古典などを研究しようという方法だった。しかし、当時の西欧で学問のできるところといえば教会(修道院)であり、スコラ学とキリスト教とは切り離せないものであった。それゆえに、最も重視されたのはキリスト教神学の体系化・理論化だった。そのためにギリシャ哲学は活用された。13~14世紀にはロジャー・ベーコンやオッカムといった革新的な人物が現れていたが、東西交流の伸長やルネサンスによる人間中心主義の風潮は、学問がスコラ哲学のように観念的なものからより現実的なものへと転換することをより一層進めた。

こうした学問的な流れがイギリス経験論とよばれる科学的な思考の基礎となった。そのイギリス経験論の始祖とされるのがフランシス・ベーコンである。彼は法律職や国会議員を歴任し、学者というよりも政治家だった。それが「問題なのは、ただ思索上の成功だけでなく、実は人類の実情に幸福と成果をもたらすすべての力である」(『大革新』)という宣言のもと、思弁的で霊魂や神を中心としたスコラ哲学を批判して人間や現実的なものごとについての思索と研究をすすめる動機となったのだろう。ベーコンは物事への認識の源を人間の経験にもとめた。そして、いくつもの実験結果から自然法則を見出す帰納法を科学研究に取り入れた。

[ちなみに帰納法の考え方は既に古代ギリシャのアリストテレスによって提唱されている。しかし、帰納法の考え方を科学研究に応用できることを提唱したのは、フランシス・ベーコンであった。最終的に帰納法を科学研究に用いるための原則を打ち立てたのは、ベーコンよりも100年ほど後に登場したジョン・スチュワード・ミルである。]

(↑書き換えたが、不要だろう。「倫理」の脚注に入れれば済む話か)

他方、フランスのデカルトは合理主義という、人間の理性を重んじる「学派」に分類される。彼はカトリックとプロテスタントの対立や様々な科学的な発見によってこれまでの世界観が大きく揺らいでいる中で、確実なものを求めようとした。

経験論も合理論も形式的に分類を見るだけでは不十分である。両方とも学問の改革の方法として提案されたものであり、スコラ学批判と言う両者の文脈を私たちは知る必要がある。

デカルトのような数学者からすれば、おそらく、デカルトにとっては帰納法だろうが演繹法だろうが、数学的に正しい公式さえ発見できればどちらの思考法でも良いと思っているだろう。おそらくデカルトは、単に、当時のスコラ学と数学とを、一緒にされたくなかったのだろう。感覚主義的な自称「経験主義」の自称「帰納法」なんかが数学に持ち込まれたら、デカルトは困るので、アンチテーゼとして「演繹法」を主張したにすぎないのだろう。

(↑ホントに『方法序説』を読んだのか? 読んでないだろうなぁ……)

またデカルトは著書『方法序説』(ほうほう じょせつ)で、「神の存在証明」をしてみせたと主張しているのだが、これだって別に教会やスコラ学を信奉してるのではなく、むしろ不信感を抱いてるからこそ、皮肉として、手続き的な推論によって神を証明してみせたのだろう。

(↑皮肉なんかじゃなくてデカルトにとっては切実な問題だったから『方法序説』やそのほかの著作でも「神の存在証明」に取り組んだのだが)


デカルト『方法序説」

(基本的なツッコミとして、「数学者」デカルトということばかりが極大化されている。デカルトがなぜ、数学を重視したのかが執筆者である某氏の思い入れだけで書かれている。デカルトの形而上学をちゃんと勉強してから書いてくれ。あと、時代背景も新教と旧教の対立とかもある。そういうのを理解していないから訳のわからない結論が書かれる。というか、批判的継承というのが分からないんだろうなぁ。あと、スコラ学への理解も古臭い)

デカルトの格言とされる「われ思う、ゆえにわれあり」は、デカルト著『方法序説』に書かれているが、じつはその格言は、デカルト本人にとって、割とどうでもいい事である。

(↑ツッコミ:そんなわけがない。コギト原理と言われる、デカルトの思想の出発点だ。理系様にも分かるように言えばユークリッドの『原論』の5つの公準を「当たり前でどうでもいいこと」というのと変わらない。『省察』やその他の真っ当な解説くらいは読んでから言え)

この『方法序説』は、科学研究の方法論について書かれた書物であり、その主張内容も、

1:『明証』 (幾何学の公理のような)絶対に正しいと思えるものだけを前提に推論しなさい。
2:『分析』 問題はなるべく、分割して、単純で簡単な問題に分けて考えなさい。(現代でいう「モジュール化」)
3:『総合』 「分析」し終わってから(小分けに分割した検証し終わったら)、それら小分けにした問題を組み立てなさい。(モジュールの組み立て)
4:『枚挙』 検証を、例外なく全て(枚挙)、行いなさい。 (自分勝手に例外を設置するゴマカシは許さない。)

といったように、科学研究のための思考法の紹介である。

(↑ツッコミ:『方法序説』の目的自体を読み違えている)

背景として、おそらくデカルトの心中に「スコラ学にはこうした思考法ができていない」というスコラ学への不信感があるのだろう。

つまり、おそらくデカルトの心中に、スコラ学への疑念として、

1:『明証』 スコラ学はそもそも前提が大昔の聖書や流行した古典にもとづいており、前提がオカシイ。
2:『分析』 スコラ学は問題を小分けにしようとせず、問題を大問題のまま解決しようとする。(「モジュール化」できない)
3:『総合』 スコラ学者どもは、物事を分類しただけで、組み立てようとせず、ほったらかしに放置したりする。あるいは、2『分析』の段階で、のちに組み立てられるように分解してない。(モジュール組み立てが出来ない。)
4:『枚挙』 スコラ学者は検証の際、自分勝手な都合で例外を設置する。

という不信感があるわけだろう。

また、デカルトは、「(幾何学の公理のような)絶対に正しいと思えるものだけを前提に推論しなさい。」のような思考法に必要な知性のことを、「理性」ではなく「良識」(ボン=サンス)と言っている。

そしてデカルトは著書で、その「良識」の性質を述べた後にデカルトは数学的思考法を述べるのだから、つまり、デカルトの本音は、数学こそが良識である、というのが本音であろう。

(↑ツッコミ:どんなトンデモ本を読んだのか知らんが、せめてデカルトの定義する「良識」をまずそのまま引用した方がずっといい)

つまり、スコラ学や教会などが道徳として説いているものは、「良識」ではないだろう、という背景がある。おそらくデカルト流の「コペルニクスやガリレオを弾圧するような教会の連中なんかに、良識があるわけないだろ」という皮肉だろう。

また、デカルトは「良識」はすべての人に分配されている、と言っている。つまり、教会の説いているものは、特定の既得権益に都合のいい理念にすぎず、けして真理ではない、という教会への不信感だ。

そしてコペルニクスやガリレオを弾圧するような自分勝手な既得権益の連中は、たいてい、数学が出来ない連中ばかりである、・・・・とデカルトは感じているのだろう。

そういう視点で「われ思う、ゆえに我あり」を解釈しなおせば、本音は「わたしは神のためにあるのではなく、ましてや教会やスコラ学のために私があるのではない」という、皮肉だろう。

(↑ツッコミ:千歩譲って「そういう解釈もできるよね」とはいえるが、これは教科書だ。まずオーソドックスな理解を先に)

(ここから先は完全にただのトンデモ。あるいは只のイチャモン。削除してちゃんとしたまとめに変える必要がある。第一、このコラム自体が「モジュール化しづらい記述方法」(以下略))

そもそも、まともな文献は、分析しやすいように(課題をモジュール化しやすいように)系統立てて章立てをされたり段階的にテーマを設けて作られているし、数学の論文とかもそう記述されるし、だからモジュール化しづらい記述方法をされている文献ってのは、例外として古典の史料を除けば、そもそも学問的な価値が低い文献なんですよ。

膨大な過去の文献を読まないと全体像がつかめずに研究を始められないような学問(スコラ学みたいな三流学問)は、そもそも、価値が低いんですよ。

だから、そういう文献をありがたがってる連中(スコラ学者)は、。

デカルトの時代、もはやスコラ学は