小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代

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この章の概要

★時代区分:平安時代
★取り扱う年代:794年(平安遷都)から1192年(鎌倉幕府の成立)まで

貴族の政治
794年、桓武天皇は、現在の京都市に都「平安京」を造営し遷都します。これから、約400年を「平安時代」と言います。
このころになると、公地公民がくずれ出し、自分で開墾した農地は子孫に伝えてもよくなり、さらに、その農地を寺院や朝廷の有力者に寄付をし自らはそれを管理する領主となって税をのがれることができるようになりました。寺院や朝廷の有力者は、こうして、大きな土地を支配するようになり、朝廷と独立した経済力を持つようななりました。この土地を荘園(しょうえん)と言います。このような荘園を持つ、朝廷の有力者を貴族公家(くげ))と言っています。貴族を代表するのは、藤原鎌足を祖先にもつ藤原氏です。藤原氏は、娘を天皇の(きさき)にすることで、天皇家との関係を深め、摂政関白といった天皇の仕事を代行する役職についたほか、重要な役職を一族で独占し朝廷を主導しました(摂関政治)。
平安時代の文化と生活
大陸からの文化をうけいれた日本は、遣唐使の派遣が減り、ついには廃止されたこともあり、だんだん日本の風土や慣習に合わせた独自の文化をかたちづくっていきました。漢字を元にした「かな(ひらがな、かたかな)」を使用することで、日本語を自由に記述できるようになり、和歌を中心とした国文学がさかんになります。やがて、和歌の由来から物語が発達し、日記や随筆など、さまざまな分野の文学が花開きました。このような文学は、特に、藤原氏出身の(きさき)の周囲の女官(女房)が多くの作品を残しました。藤原氏が最も栄えた藤原道長の時代には、『源氏物語』を書いた紫式部や『枕草子』を書いた清少納言がいました。
奈良時代の仏教は、災いをしずめ国を守ることを目的としたり、深く経を研究するなど学問的なものでしたが、平安時代の初期に空海最澄が現れ、それぞれ、「真言宗」と「天台宗」を開きました。真言宗は日本中に布教され、庶民までに普及しました。一方、天台宗の総本山比叡山延暦寺は、僧の修行の場として現代の大学のような役割を果たし、多くの仏教指導者を生み出します。平安時代の中期頃から、末法思想が流行し、極楽往生を願う浄土信仰が盛んとなります。道長の子藤原頼道が作った宇治平等院鳳凰堂は浄土信仰による寺院の代表です。
武士の誕生
全国の農地の多くが荘園となり、税収が減ったため朝廷による治安の取り締まりは十分ではなくなりました。荘園領主らは、自ら武装したり、武装した者をやとうなどして、自衛しました。これが、武士の始まりです。平安時代の中期頃から朝廷と対立し各地で反乱が起きたりします。この反乱をしずめるのも、やはり武士でした。

貴族の政治[編集]

平安遷都[編集]

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794年[1]桓武(かんむ)天皇は都を平城京から、平安京(へいあんきょう)(現在の京都市)にうつしました(平安遷都)。政治の中心地が平安京であった、これから、約400年間の時代を 平安(へいあん)時代 といいます。平安時代は、前の飛鳥時代や奈良時代の約200年間に比べて、約400年間、政治の体制もほとんどかわらず、比較的安定していた時代ですが、ゆっくりとではあっても大きく変わった時代です。
遷都の理由はよくわかっていません。以下に参考として、いくつかの説を紹介します。
  1. 遷都により人心の一新をはかった。
    770年、称徳(しょうとく)天皇(聖武(しょうむ)天皇の皇女)が亡くなると、天武(てんむ)天皇の子孫がたえて、壬申の乱以来、約100年ぶりに天智(てんち)天皇の子孫である光仁(こうにん)天皇(桓武天皇の父)が即位しました。称徳天皇の生前から天皇の地位をめぐって後継者争いや高位の貴族などの反乱がたえず、宮中の様子は不安をかかえたものになっていました。例としては、井上(いのえ/いがみ)内親王(ないしんのう)の事件[2]早良(さわら)親王(しんのう)の事件[3]があげられます。
  2. 平城京では寺の勢力が強くなりすぎたため、それからのがれようとした。
    平城京には、東大寺をはじめとして、多くの寺があり、各々の寺は広い農場(田)を持っていました。また、皇室や藤原氏などとも近く、政治に大きな影響を与えるようになっていました。桓武天皇はこれをきらったのではないかと言われています。そのためか、奈良から平安京への寺院の移転は禁止され、平安京の中には東寺と西寺のふたつしか建てられませんでした[4]
  3. その他、以下の理由をあげる人たちもいます。
    • 大仏建立により、銅などを溶かすために奈良盆地周囲の森を大量に伐採(ばっさい)し、山崩れが多発したり、金属加工時の排水や、メッキに使う水銀の汚染など環境が悪くなった。
    • 人口が増える一方で、土地の開墾(かいこん)が進まず、田を割り当てられなくなった(くわしくは、次に説明します)。


貴族の台頭・荘園の発生と拡大[編集]

律令制の役人の多くは、貴族であって[5]役人になると官位や役職に応じて、何十倍から何百倍もの広い農地がわりあてられ、そこからの収穫が報酬となりましたが、代々役人をつとめることで、貴族は富をたくわえていきました。
貴族には、天皇家の子孫(源氏、平氏、在原氏、清原氏など)や、大和政権からの豪族や部民の子孫(安倍氏、大伴氏、紀氏、菅原氏など)、天皇の近臣の子孫(橘氏など)がありましたが、中でも有力であったのは藤原(中臣)鎌足(ふじわら(なかとみ)のかまたり)の子孫である藤原(ふじわら)です。
班田収授法は、朝廷が管理する土地(公地)が不足して、奈良時代の初期にはすでに続けるのがむずかしくなっていました。奈良時代中期には、税を確保するために、墾田永年私財法が出されて新たに開墾(かいこん)された土地は、開墾した者の土地になることになりました。
このような開墾は、もともと豊かな貴族、大きな寺や神社(寺社)でなければできないことで、貴族や寺社は開墾を行うことで朝廷が行う田の割り当て(班田)にたよらず、農地(田)をもつことができるようになり、そこで、貴族や寺の召使い(家人(けにん))など[6]に田を耕させるようになりました。このような、農地などを荘園(しょうえん)といいます[7]
荘園が成立する一方、口分田(くぶんでん)でわりあてる土地不足の問題は解決しませんでした。また、戸籍や土地台帳の管理はむずかしく、8世紀末には、班田収授法は実施できなくなってしまいました。口分田は、そのまま、たがやしていた農民が自分のものとして、朝廷に税をおさめるようにかわりました。同時に、役人への農地のわりあてもなされなくなり、役人は朝廷からの収入だけでは豊かな生活ができなくなりました。
最初は、荘園に税がかけられない、寺社などが荘園を広げていきました[8]。その後、9世紀頃になると、役人、特に国司など地方の役人などは、荘園から朝廷に税を払って、その中から役人に報酬を払うのは無駄だということで[9]、税として朝廷に運ばず、直接役人である貴族が受け取るということができるようになり、その考え方を有力な貴族が広げて、寺社に加えて、一部の貴族の荘園からも朝廷に税をおさめなくなりました[10]
そうすると、田を持っている農民や自ら開墾した荘園を持っている地方豪族などは、自らの荘園を有力な貴族や寺社に寄付して、収穫の一部を差し出し、それよりも多い税を逃れようとします。11世紀頃には、これが進んで朝廷が税を取れる土地[11]と荘園はほぼ同じ規模となりました。また、税をおさめないと言うことは、朝廷の役人の立ち入りも必要ないであろうと言うことで、荘園に役人が入れなくなりました[12]。こうして、荘園は朝廷から独立したもののようになりました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】「名田(みょうでん)」と名字(みょうじ)(苗字)の話
上に書いたように、8世紀末には「班田収授法」は、実施できなくなっていました。では、その後の田んぼは誰がたがやしていったのでしょうか。
「班田収授法(公地公民)」は、人に田をわりあて、その収穫から税をとるという仕組みでした。そのため、朝廷は、戸籍をつくって人を管理していましたが、人口の増減に追いつくことができず、うまくいかなくなりました。朝廷は税が取れないと政治ができませんので、とにかく、税を取ろうとします。ここで、墾田永年私財法を思い出してください。開墾した土地は、朝廷に返さなくてもよいかわりに、税を払い続けるというものでした。これと同じように、今まで割り当てていた田(口分田)も、わりあてをやめて、誰がたがやしていても、その土地からきまった税(年貢(ねんぐ))を取るようになりました。このような土地(田)の大きさは、もともと口分田がわりあてられていた、家族だけでたがやす小さなもの[13]から、貴族や地方豪族の親族などで数多くの家人(けにん)などを使った大きなものまでさまざまでした。そのように税を取りまとめる土地(田)の広がりを「()が『◯○』さんという人が税をはらう土地(田)」ということで、「○○の(みょう)」というようになり、のちに、「『◯○』さん」とは関係なくなって、単に「(みょう)」または「名田(みょうでん)」というようになりました。「(みょう)」で、税をはらう責任者になっていたのが「名主(みょうしゅ)」(または、名主(なぬし))で、土地が小さければ「小名(しょうみょう)」、土地が大きければ「大名(だいみょう)」と呼ばれるようになりました。
名田(みょうでん)は、もともと朝廷の土地(公地)の仕組みでしたが、やがて、荘園にも、この仕組みがとりいれられます。荘園の多くは最初は、貴族や寺の家人(けにん)などにより開墾されましたが、その後の耕作も彼らが引きつづいておこない、朝廷への税にかえて、荘園領主への年貢をおさめるようになっており、家人(けにん)のなかから名主(みょうしゅ)と同じ役割をはたすものも出てきたのです。さらに、荘園が大きくなるときに、寄付をした農民や地方豪族が、寄付をした田を名田(みょうでん)として、自分は名主(みょうしゅ)となりました。
さて、このように公領や荘園は名田(みょうでん)という仕組みになったのですが、10世紀頃から、姓名とは別に、みずからの所領「(みょう)」に通称「(あざな)」をならべてよびかけることが広まっていきました。 例えば、武士の平良文(たいらのよしふみ)という人は、相模(さがみ)(現在の神奈川県)の村岡(むらおか)というところの名主(みょうしゅ)で、兄弟で5番目だったことから「村岡五郎(むらおかのごろう)」と自称しました。このように、おさめた土地から、つけられた名前を「名字(みょうじ)(苗字)」といい、「(せい)」とともに「(みょう)」が一族の集まりを意味するようになります。これが、今の「みょうじ」の元になっています。今は「姓」と「みょうじ」は同じものですが、昔は別のものでした。
ここで、昔の人(平安時代末期から江戸時代まで)の名前が、どのようなものであったかをみてみましょう。以下は、次の章に登場する源頼朝(みなもとのよりとも)の妻の父の名前です。
北条(ほうじょう) 四郎(しろう) (たいらの) 朝臣(あそん) 時政(ときまさ)
名字(みょうじ)
「家」「家系」の名前
通称(つうしょう)
普段呼ばれる名前
本姓(ほんせい)
出身一族
(かばね)
出身一族の位
(いみな)
本名
「名田」などに由来する「家」の名前です。 よく変わります。後の時代、役職を持つなどすると、通称で呼ぶのは失礼にあたるため、しばしば官職で呼ぶようになります。 奈良時代以前からの貴族の一族の呼び名です。
「たいら」や「ふじわら」のように「の」が入ります。
「本姓」ごとに定められた(くらい)です。 公文書に用いめったに使いません。

摂関政治[編集]

藤原道長(ふじわらのみちなが)
藤原氏の初代藤原鎌足は、大化の改新を天智天皇(中大兄皇子)とともになしとげた、天智天皇から最も信頼の厚い家臣でした。鎌足の子の藤原不比等(ふひと)は、律令の制定や平城京遷都に大きくかかわり、また、聖武天皇の母の父で、聖武天皇の皇后光明皇后の父と言う関係にありました。不比等の孫の藤原百川(ももかわ)は、称徳天皇の死後、光仁天皇や桓武天皇の即位に力をつくしました。
このように、平安時代以前においても、藤原氏は、天皇の近くにあって、天皇をもり立ててきました。
平安時代に入ると、藤原氏は、つぎつぎと娘を天皇の(きさき)(妻)にし、この子が天皇になるなど、天皇家との関係を深めました。一方で、藤原氏以外の貴族については、様々な手段で排除され、10世紀には高位の貴族は藤原氏だけと言うことになりました。中央で役職を得られない貴族の中には、地方に荘園を開いて移住する者もいました。
藤原氏は、天皇がおさないときは摂政(せっしょう)という役で、天皇が成人してからは関白(かんぱく)という役で天皇に代わって政治を行いました。このような政治を、「摂政」と「関白」から、「摂関(せっかん)政治」といいます[14]
摂関政治の代表的な藤原氏に11世紀の人である藤原道長(ふじわらのみちなが)がいます。
道長は、娘四人を天皇の(きさき)とし、その娘が産んだ三人の孫が天皇になり、藤原氏の全盛期をきずいたと言われます。
道長は、このようなありさまを、以下のように和歌にしたと伝えられます。
「この世をば わが世とぞ思((う)) 望月(もちづき)の 欠けたることも なしと思((え))ば」
(この世は、望月(満月)のように欠けているものがなく、まるで(わたし)(道長)の物のようだ。)
しかし、道長の子頼通(よりみち)が天皇の(きさき)にした娘には男子が生まれず、天皇の祖父という立場はなくなり、それ以降、影響力を失っていきます。また、朝廷そのものが力を失っていきます。

平安時代の文化と生活[編集]

遣唐使の中止と国風文化[編集]

平安時代になっても当初は、遣唐使を派遣していました。804年の遣唐使では空海(くうかい)最澄(さいちょう)が派遣され、838年の遣唐使も多くの留学僧を運んでいます。
しかし、当時の唐は内乱が続き、王朝の力がおとろえていたこと、一方で、日本は律令について多くのことを学んでおり、さらに学ぶべきものは少ないと思われたことから、多大な費用のかかる遣唐使を危険をおかしてまで続ける必要があるかは、朝廷でも議論されていたところでした。
そのような中、894年、学問に優秀で活躍が期待されていた菅原道真(すがわらのみちざね)が遣唐使の大使に選ばれました。道真は、これらの理由から遣唐使の中止を進言し、その結果、遣唐使は中止になりました。
この遣唐使の廃止により、日本の貴族文化では、だんだん大陸の文化の影響がうすれ、それにかわって国風文化(こくふうぶんか)とよばれる日本独自の貴族文化が発展しました。


国文学の発達[編集]

奈良時代に、漢字を用いて日本語の音をあらわす万葉仮名が工夫されましたが、平安時代には、この工夫をさらにすすめて、ひらがなやカタカナなどのかな文字(仮名)が、発明されました。ひらがなは、漢字の形をくずして発明されました。カタカナは漢字の へん や つくり などの一部をもとに発明されました。
「かな」が発明されたことで、日本人は自由に日本語の文章を書くことができるようになりました。特に、和歌は貴族から庶民まで愛されていたので、きそって多くの和歌を作り、それを集めた古今和歌集(こきんわかしゅう)などの歌集があまれました。
また、言い伝えや和歌のいわれなどを説明した詞書(ことばがき)などから物語が発展しました。代表的作品に竹取物語(たけとりものがたり)があります。そのほか、役人で歌人でもある紀貫之(きのつらゆき)は、国司をつとめた土佐(とさ)(高知県)から都へ帰る時に見聞きし思ったことをひらがなの日記、土佐日記(とさにっき)としてのこしますが、これが、日記文学や随筆(ずいひつ)のもととなります。
大和絵『源氏物語絵巻』
源氏物語は人気作となり、絵巻物まで作られるほどになりました。この絵は、源氏物語の作品のなかの場面をえがいたものです。
宮中文学
摂関政治で説明したとおり、藤原氏は宮中に娘をおくって、天皇の(きさき)にしようとしました。藤原氏と言っても、同じ世代の兄弟おのおので、娘をおくりだしたりしています。天皇はその中から(きさき)を選ぶのですが、娘の親は、天皇が気にいるように、教養をつけさせるため、娘に文学の才能のある女官(にょかん)をつけました。この女官を女房(にょうぼう)と言い、女房の作品を女房文学と言います。
紫式部(むらさきしきぶ)は、道長の娘で一条天皇の皇后(こうごう)[15]彰子(しょうし)[16]の女官で、『源氏(げんじ)物語』を書きました。これは、貴族の「光源氏(ひかるげんじ)」という人物を主人公にした貴族の恋愛など宮中での生活の様子を書いており、後世の日本文学に大きな影響を与えます。
また、清少納言(せいしょうなごん)は、道長のライバルで兄の藤原道隆(みちたか)の娘で一条天皇の中宮(ちゅうぐう)[15]定子(ていし)[16]の女官で、日々思うことを書きしるした随筆(ずいひつ)枕草子(まくらのそうし)』を残しています。これも後世の日本文学に大きな影響を与えています。
説話文学
宮中以外の庶民においては、お寺などで、多くの人は文字が読めず、また、お経などはそのままでは大変むずかしいので、布教のため仏教の教えを物語にしたものをかたり伝えていました。これを説話(せつわ)といいます。平安時代の終わりころには、これらを文字にしてまとめた『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』などの説話集(せつわしゅう)ができました。


その他の平安時代の文化[編集]

宮中の衣服
平安時代には、貴族の衣服(正装(せいそう))が変わります。
飛鳥時代、奈良時代は中国の影響を受けたものが着用されていました。
男の貴族の服は 束帯(そくたい) になり、女の貴族の服は 十二単(じゅうにひとえ) となりました。これは、現代でも皇室に関する正式な行事などでは着用されます。また、神社の神事においても略式のものが着用されます。
建築
当時の貴族の屋敷の様式を寝殿造(しんでんづくり) と言います。現在残る寝殿造の代表的なものは、道長の子である 藤原頼通(ふじわらのよりみち) が建てた 平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう) です。これは、現在の10円玉の表面にも描かれていることで有名です。
典型的な寝殿造である東三条殿(ひがしさんじょうどの)の復元模型(もけい)(京都文化博物館)
1. 寝殿(しんでん)、2. 北対(きたのたい)、3. 細殿(ほそどの)、4. 東対(ひがしのたい)、5. 東北対(ひがしきたのたい)、6. 侍所(さむらいどころ)、7. 渡殿(わたどの)、8. 中門廊(ちゅうもんろう)、9. 釣殿(つりどの)
平等院鳳凰堂


絵画
絵画には、日本の風景などを書いた 大和絵(やまとえ) が現れ、寝殿造の屋敷(やしき)屏風(びょうぶ)や ふすま などに描かれました。上で紹介した『源氏物語絵巻(えまき)』も、大和絵のひとつです。

平安時代の仏教[編集]

奈良時代においても、仏教の信仰は盛んでした。しかし、信仰されたものは、東大寺の大仏、国分寺・国分尼寺に見られる、仏に国を守ってもらうと言う考え方や留学から帰ってきた僧がお経などを学問として深めると言ったもので、行基のように民衆へ布教を行なうことはあまりありませんでした。

空海と最澄[編集]

このようななか、平安時代の初期に空海(くうかい)最澄(さいちょう)があらわれます。
空海の肖像
空海(弘法大師)
空海は、遣唐使の一人として唐にむかい、当時の最新の仏教である密教(みっきょう)を日本に持ち込みました。また、空海は唐から仏教に関するものだけでなく、土木技術も学び、溜池を建設するなどして、民衆の生活にも深くかかわり、教えを広めました。嵯峨(さが)天皇は空海を大変信頼し、平安京でみとめられた二つの寺の一つである東寺(とうじ)を空海にあたえました。空海は、京都から離れた紀州(和歌山県)高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を開き、真言宗(しんごんしゅう)という信者のあつまり(宗派)をまとめました。空海は「弘法大師(こうぼうだいし)」とも呼ばれ、全国に伝説を残しています。


最澄像(国宝)
最澄
最澄も、平安京遷都の前から近江(滋賀県)の比叡山(ひえいざん)で修行し、有名な僧でしたが、さらに研究しようと、空海と同じ遣唐使で唐にむかい、多くのお経などを持ち帰りました。その後、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を建てます。最澄は空海ほど仏教の布教に熱心ではありませんでしたが、延暦寺には多くのお経などが伝えられ、僧にとって大学のような寺となり、後世、ここから多くの仏教指導者が生まれます。また、平安京に近いこともあり比叡山延暦寺は、その後大きな力を持つようになります。最澄の開いた宗派を天台宗(てんだいしゅう)といい、やはり密教の宗派になります。


末法思想と浄土信仰[編集]

仏教に、釈迦の教えが絶えて、世の中が乱れると言う「末法思想(まっぽうしそう)」の予言があり、それは、11世紀半ばに来るとされていました。当時、世の中が乱れ始めていたこともあって、貴族も庶民もこれをおそれました。このような中で、広まったのが、阿弥陀仏(あみだぶつ)に救いをもとめる浄土信仰(じょうどしんこう)です。先にあげた藤原頼通による平等院の建設も浄土信仰によるものです。庶民においては、阿弥陀仏(あみだぶつ)をたたえることば「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」をとなえることで、阿弥陀仏の救いを得ようとする念仏(ねんぶつ)が普及し始めました。


武士の誕生[編集]

平安時代のなかば10世紀頃には、班田収授法ができなくなり、また荘園が広がってきたことで、朝廷の税収が減り、全国特に地方の安全を守ることが難しくなっていました[17]。また、荘園には朝廷の役人が入れないところもあり治安(ちあん)に不安がありました。そこで、荘園領主などは武装したものをやとって、または、農民とともに自ら武装して、治安を守るようになりました。これが武士(ぶし)の始まりと考えられています。
武士は、集団である方が有利であるので、有力な武士を中心に集まり武士団(ぶしだん)をつくります。武士団の長には、都を捨ててやってきた貴族[18]がなる例も少なくありませんでした。
やがて、各地の武士は朝廷の政治に不満をいだいて反乱を起こすようになります。939年関東の武士平将門(たいらのまさかど)[18]は朝廷に対して関東で反乱を起こします。同時期に、それと独立して藤原純友(ふじわらのすみとも)が瀬戸内地方から北部九州で反乱を起こします。朝廷は、自分の軍隊を出すことはできず、他の武士団に命じてようやくこれをしずめることができました。
このように、10世紀以降にあっては、武士の力がなくては地方の治安は維持できないようになってきており、やがて、平安京や宮中の警護においても武士にたよるようになってきました。
また、大きな寺や神社には、「僧兵(そうへい)」「神人(じにん)」と呼ばれる、武装した僧や神官がいて、武士同様寺社領の警護などを行なっていました。


脚注[編集]

以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。

  1. ^ 有名な年代暗記の語呂合わせに「鳴くよ(794)ウグイス平安京」「泣くよ(794)坊さん」平安京」があります。
  2. ^ 光仁天皇の皇后井上内親王は聖武天皇の娘(内親王)であり、皇太子他戸(おさべ)親王の生母でしたが、772年井上内親王が光仁天皇を呪い殺そうとしたという疑いで皇后をやめさせられ、皇太子も山部親王(後の桓武天皇)に代えられた。さらに翌年別の罪に問われ、他戸親王とともに、閉じ込められたのち、775年母娘ともに亡くなります。翌年から天災地変がしきりに起こり、井上内親王・他戸親王の怨霊(おんりょう)と恐れられ、また井上内親王は竜になったという噂が立ちました。光仁天皇は二人の名誉を回復し、墓を立派にして、鎮魂のための寺や神社をつくりました。
  3. ^ 781年桓武天皇が即位すると、すぐに遷都を命じ、784年に建設途中の長岡京(ながおかきょう)(現在の京都府長岡京市)に遷都しました。新たな都でも事故が続き、桓武天皇の近臣藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が殺されると、皇太弟の早良親王が疑われ、皇太弟を廃された上、流罪(るざい)となり、直後に流罪地でなくなりました。その後、桓武天皇の母親や妃、近臣が相次いで病死し、疫病が流行るなどして早良親王の怨霊のしわざと噂され、桓武天皇は長岡京遷都を中止しました。
  4. ^ 京都市には、現在全国的に有名で大きなお寺がいくつもありますが、このほとんどは、これから500年後の室町時代以降に建てられたものです。
  5. ^ 律令には、家柄(いえがら)にかかわらず、能力に応じて役人として採用し役職につけることが決められていましたが、実際は、文字(漢字)の読み書きができるような教育をうけさせられる家はごくわずかでしたし、親が役人であれば子が役人になりやすい仕組みもあって、役人を出せる一族はほぼきまっていました。
  6. ^ その他、良い口分田(くぶんでん)が割り当てられなかった農民なども、口分田を捨てて、家人などになることもありました。
  7. ^ 荘園は、農地(田)だけではなく、それをたがやす農民の住まいや、周辺の山林もふくみました。
  8. ^ 貴族は、もともと朝廷からの報酬があるうえに、開墾した荘園は税を納めなければならなかったので、最初のうちは開墾に熱心ではありませんでした。
  9. ^ 地方から、京都へ税である米などを運ぶつとめも民衆にはありました。
  10. ^ 税を納めないことを、「不輸(ふゆ)」といい、そうすることができることを「不輸の(けん)」と言います。「輸」は「はこびだす」と言う意味ですから「(税を)はこびださない」と言うことです。
  11. ^ 「荘園」に対してこれを「公領(こうりょう)」といいます。
  12. ^ これを「不入(ふにゅう)(=はいらない)」といい、そうすることができることを「不入の権」と言います。「不輸」とあわせて、「不輸不入(ふゆふにゅう)の権」といい、荘園の特徴とされます。
  13. ^ それでも、昔は一家族の人数は多かったので、2町(約2ヘクタール)程度の広さはあったでしょう。なお、現代日本の農家の平均農地面積は約1ヘクタール、専業農家で約2ヘクタールです。
  14. ^ 藤原氏も、時代がくだってくると多くの家に分かれます。その中で、ずっと、天皇のそばにいて摂政や関白を出した家を、摂関家(せっかんけ)といいます。
  15. ^ 15.0 15.1 天皇の(きさき)の中でもっとも位の高い者。元は、「中宮」と「皇后」は同じ意味でしたが、一条天皇の中宮は定子であったところ、道長が彰子を皇后とし、定子と同じ立場にしました。
  16. ^ 16.0 16.1 当時は「彰子(あきこ)」「定子(さだこ)」と呼ばれていたのではないかと言われていますが、慣習としてこう読みます。
  17. ^ 律令制では、もともと警察や裁判は「刑部省(ぎょうぶしょう)」「弾正台(だんじょうだい)」という役所の役割でしたが、平安時代初期(9世紀)に「検非違使(けびいし)」という役所ができて、その役所の役割となっていました。
  18. ^ 18.0 18.1 源氏・平氏など天皇の子孫もいました。例えば、桓武天皇の孫高望王(たかもちおう)が、平氏の姓をうけ平高望(たいらのたかもち)となって、国司として関東に下ります。そこで、武士団を作って子孫が定住します。その、平高望の孫が平将門です。藤原純友は藤原氏の出身で祖父の弟に最初に関白となった藤原基経(もとつね)がいますが、京都での出世をあきらめ、早くから伊予(いよ)(現在の愛媛県)の国司となり、海賊(海を舞台にした武士団と言っていいでしょう)の取り締まりをしていました。そして、逆に海賊の頭領となって反乱を起こしました。

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天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代
小学校社会/6学年/歴史編
日本の歴史の流れ
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