小学校社会/6学年/歴史編/歴史の流れをつかもう

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歴史を学ぶときに大事なことは、「その時に何が起こったか」ということ(「点」のイメージ)よりも「何が、どうして、どのように変わって、それが、どのようになったか」(「点」と「点」をつないだ「線」のイメージ)ということです。これから、歴史上の事柄を学ぶにあたって、最初に、おおまかな全体の流れを頭に入れておくと、それぞれの時代を理解する時のたすけになります。以下に、日本の歴史の大きな流れをしめします。ただし、以下のものは大きな流れをしめすため、細かくは不正確なものがありますので注意してください。

それでは、日本の歴史の流れをながめてみましょう。

歴史の始まり[編集]

★時代区分:原始(げんし)時代、石器(せっき)時代、縄文(じょうもん)時代、弥生(やよい)時代、古墳(こふん)時代
★取り扱う年代:おおむね5世紀以前

狩猟・採集から農耕へ[編集]

大昔、日本に人々が住みはじめたころ、人々は、木の実をひろったり(採集)、動物や魚を()りなどでつかまえて(狩猟(しゅりょう))、食料や衣服としていました。このころ、ものを切ったりするのに使った道具は石でできていました。このような道具を、石器といい、この時代を「石器時代」と言います。時代がだんだん進むと、人々は、土を火で焼き固めると固くなってうつわ(土器)などを作ることができるのを発見します。最初は低い温度で厚くもろいうつわや人形(土偶(どぐう))を作っていましたが(このような土器を「縄文(じょうもん)土器」といい、この時代を「縄文時代」と言います)、さらに時代が進んでうすくかたい土器が作られるようになりました(このような土器を「弥生(やよい)式土器」といい、この時代を「弥生時代」と言います)。
縄文時代から弥生時代に変わるころ、人々は狩猟・採集のくらしから田んぼや畑をたがやして米などを作る生活(農耕)をするようになりました。狩猟・採取の生活から農耕生活になると、人々は定住し「むら」ができます。人々がたがいに行き来するようになると、「むら」はだんだん大きくなり、また、いくつかの「むら」が集まって「くに」となります。

「くに」の統一[編集]

「くに」を統治する王や女王は、海を()えて中国(ちゅうごく)朝鮮(ちょうせん)半島など大陸に使者を送りました。その結果、大陸から青銅を作る技術や文字(「漢字」)などの文化が流入しました。鉄器が普及(ふきゅう)したことで石器は使われることがなくなり「石器時代」は終わります。この時代、「くに」の王など有力者は、墓として「古墳(こふん)」を作りましたが、そこには埴輪(はにわ)などのほか、青銅製の鏡(銅鏡)などが副葬されています(この時代を「古墳時代」とも言います)。
そして、これらの「くに」をまとめて今の日本の元を作ったのが、天皇(てんのう)を長とした大和(やまと)朝廷(大和政権)です。統一前に「くに」をひきいていた有力者などは豪族(ごうぞく)()ばれます。

天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代[編集]

★時代区分:飛鳥(あすか)時代、奈良(なら)時代
★取り扱う年代:おおむね6世紀以前から794年(都が平安にうつる)まで

飛鳥時代[編集]

大和朝廷(やまとちょうてい)によって日本が統一されると、ますます、大陸との行き来が増えました。朝鮮(ちょうせん)半島から技術や文化を持った人々が定住し、これらを伝えました(渡来人)。また、仏教が日本に伝えられたのもこのころです。
当時、中国では「(ずい)」が国を統一し強力なものとなっていました。推古天皇(すいこてんのう)の皇太子である聖徳太子は、隋にならって天皇中心の強力な政治を進めるため、役人の心得をしるした「十七条(じゅうしちじょう)憲法(けんぽう)」を定め、役人の序列を明らかにする「冠位十二階」を定めました。また、小野妹子などを隋に派遣(はけん)し(遣隋使)、隋と親交を結ぶとともに、隋の制度などを学ばせました。なお、まもなく隋は「(とう)」にほろぼされますが、中国への派遣はつづきました(遣唐使)。また、仏教がさかんになり、法隆寺(ほうりゅうじ)などの寺院が建てられました。この時代は、都が飛鳥(あすか)(奈良県中部)を中心に置かれたので、「飛鳥時代」といいます。

大化の改新[編集]

聖徳太子が()くなったのち、最も勢力を持っていた蘇我(そが)氏を中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇(てんじてんのう))は中臣鎌足(なかとみのかまたり)藤原鎌足、「藤原氏」の始祖)らとともにたおし、天皇中心の政治を一層(いっそう)強力なものにしました。例えば、土地は天皇のものとして人々に均等に分け(あた)え、()(よう)調(ちょう)といった税を徴収(ちょうしゅう)する制度(公地公民制)などがすすめられました。また、この時、中国にならって、初めて元号「大化」を定めました。これらの事件や改革(かいかく)大化の改新と言います。このころ、朝鮮(ちょうせん)半島では新羅(しらぎ)が統一を進めていて、新羅は(とう)と連合して百済(くだら)と戦っていました。百済は日本に助けを求め、日本は百済とともに新羅・唐と戦いましたがやぶれ、多くの百済の人々が日本へ移り住みました。

奈良時代[編集]

朝廷は、国づくりをすすめるのに、律令(りつりょう)という法律(ほうりつ)を作り、それにもとづく政治が行われるようになりました(律令制)。また、それまでは、天皇(てんのう)が変わるたびに都を移していましたが、現在の奈良市に大規模(だいきぼ)な都「平城京(奈良の都)」を作り、そこで天皇が代わっても引き続き政治を行うようになりました。また、このころ、初めて{{ruby|貨幣が作られました(和同開珎(わどうかいちん))。
平城京には、遣唐使で留学した僧や来日した僧によって多くの寺院が作られました。聖武天皇即位(そくい)した頃、地震や病気などの災いが起こったことを受け、仏教に救いを求めて、全国に国分寺(こくぶんじ)国分尼寺(こくぶんにじ)を建立しました。国分寺の本部として奈良に東大寺(とうだいじ)をつくり、そこに大仏(奈良の大仏)を作りました。
平城京に都のあった時代を「奈良時代」と言います。

貴族の文化-平安時代[編集]

★時代区分:平安時代
★取り扱う年代:794年(平安に都が移る)から1192年(鎌倉幕府(かまくらばくふ)の成立)まで

貴族の政治[編集]

794年、桓武(かんむ)天皇は、現在の京都市に都「平安京」を造営して都を移します。これから、約400年を「平安時代」と言います。
このころになると、公地公民(こうちこうみん)がくずれ出し、自分で開こんした農地は子孫に伝えてもよくなり、さらに、その農地を寺院や朝廷(ちょうてい)の有力者に寄付をし自らはそれを管理する領主となって税をのがれることができるようになりました。寺院や朝廷の有力者は、こうして、大きな土地を支配するようになり、朝廷と独立した経済(けいざい)力を持つようななりました。この土地を荘園(しょうえん)と言います。このような荘園を持つ、朝廷の有力者を貴族(きぞく)公家(くげ))と言っています。貴族を代表するのは、藤原鎌足を祖先にもつ藤原氏です。藤原氏は、娘を天皇の(きさき)にすることで、天皇家との関係を深め、摂政(せっしょう)関白(かんぱく)といった天皇の仕事を代行する役職についたほか、重要な役職を一族で独占(どくせん)し朝廷を主導しました(摂関政治)。

平安時代の文化と生活[編集]

大陸からの文化をうけいれた日本は、遣唐使(けんとうし)派遣(はけん)が減り、ついには中止されたこともあり、だんだん日本の風土や慣習に合わせた独自の文化をかたちづくっていきました。漢字を元にした「かな文字(ひらがな、かたかな)」を使用することで、日本語を自由に書き表せるようになり、和歌を中心とした日本文学がさかんになります。やがて、和歌の由来から物語が発達し、日記や随筆(ずいひつ)など、さまざまな分野の文学が花開きました。このような文学は、特に、藤原(ふじわら)氏出身の(きさき)の周囲の女官(女房(にょうぼう))が多くの作品を残しました。藤原氏が最も栄えた藤原道長(ふじわらのみちなが)の時代には、『源氏(げんじ)物語』を書いた紫式部(むらさきしきぶ)や『枕草子(まくらのそうし)』を書いた清少納言(せいしょうなほん)がいました。
奈良時代の仏教は、災いをしずめ国を守ることを目的としたり、深く経典(きょうてん)を研究するなど学問的なものでしたが、平安時代の初期に空海最澄が現れ、それぞれ、「真言宗」と「天台宗」を開きました。真言宗は日本中に布教され、庶民(しょみん)までに普及(ふきゅう)しました。一方、天台宗(てんだいしゅう)の総本山比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)は、僧の修行(しゅぎょう)の場として現代の大学のような役割(やくわり)を果たし、多くの仏教指導者を生み出します。平安時代の中期ごろから、末法思想(まっぽうしそう)が流行し、極楽往生(ごくらくおうじょう)を願う浄土信仰が盛んとなります。道長の子である藤原頼道(ふじわらよりみち)が作った平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)浄土信仰(じょうどしんこう)による寺院の代表です。

武士の誕生(たんじょう)[編集]

全国の農地の多くが貴族や寺社がもつ荘園(しょうえん)となり、朝廷(ちょうてい)への税収(ぜいしゅう)が減ったために朝廷(ちょうてい)による治安の取りしまりは十分ではなくなりました。荘園領主らは、自ら武装(ぶそう)したり、武装した者をやとうなどして、自衛しました。これが、武士の始まりです。平安時代の中期ごろから朝廷と対立し各地で反乱が起きたりします。この反乱(はんらん)をしずめるのも、やはり武士でした。

武家社会の始まり-鎌倉時代[編集]

★時代区分:鎌倉(かまくら)時代
★取り扱う年代:1192年(鎌倉幕府(かまくらばくふ)の成立)から1333年(鎌倉幕府の滅亡)まで

源平の戦い[編集]

平安時代末期には、武士がいなければ治安は保たれなくなっていました。武士は、日本各地で強力なリーダーの下で集団となって武士団となりました。武士団の中でも強力なものが平氏(平家)と源氏です。平氏は主に瀬戸内海の海賊の取り締まりで、源氏は関東(かんとう)地方や東北(とうほく)地方の反乱(はんらん)をおさえて勢力を()ばしました。藤原道長の頃、全盛期をむかえた摂関政治は、だんだん天皇との関係が離れ藤原氏が昔ほどの力を持たなくなり、代わって、天皇を退位した上皇・法皇(院)による政治が行われ(院政)、平氏や源氏は、院政の兵力となりました。1156年天皇家や藤原氏のあとつぎについて、双方が武士団を味方につけて争いました。この争いで、武士が中央の政治にかかわるようになり、1160年に平清盛が政権をとって、それ以降、天皇や貴族から政治の実権は武士が握るようになりました。
平氏は一族のみで政権を独占し、他の武士団の利益を顧みなかったことなどから、他の武士団の反発をまねき各地で反乱が起きました。清盛が死去すると、源義仲(木曾義仲)が平氏を都から追い出し、鎌倉に勢力を有する源頼朝が弟源義経などに命じて、義仲と平氏を滅ぼしました(源平の戦い)。頼朝は1192年征夷大将軍(将軍)というすべての武士の長に任ぜられ、鎌倉に将軍の役所である幕府を開きます。これを、「鎌倉幕府」といい、鎌倉に幕府がある時代を「鎌倉時代」と言います。

鎌倉幕府[編集]

頼朝は、自分の家来である武士(御家人(ごけにん))を各国の軍事や治安を取りまとめる守護や各荘園を管理する地頭に任じて全国を支配しました。頼朝の死後、頼家・実朝の三代で源氏の将軍家は終わりますが、それ以降は将軍を補佐する執権(しっけん)の職にあった北条氏が武士を取りまとめ政治を行いました。各地の治安が安定すると、産品を遠距離輸送する商業などが見られるようになり、人々の生活が多様で豊かなものになってきました。こうした生活の変化は、仏教にも及び、浄土教(浄土宗浄土真宗時宗)、禅宗臨済宗曹洞宗)、法華宗(日蓮宗)などがおこり、武士や庶民といった民衆に受け入れられました。

元寇[編集]

そのころ、モンゴルがはげしい勢いでユーラシア大陸全土にわたって勢力範囲を広げており、中国には「」という国を打ち立てていました。元は朝鮮半島も領土とし、さらに日本に攻め入りました(元寇(げんこう))。執権北条時宗は、全国の御家人や武士を集め、これを撃退しました。しかし、幕府は得るものがなかったので恩賞を十分に与えることができず、各地の武士に不満が残りました。

室町文化の誕生-室町時代[編集]

★時代区分:建武の新政、南北朝時代、室町時代(前期)
★取り扱う年代:1333年(鎌倉幕府の滅亡)から1467年(応仁の乱の開始)まで

室町幕府の誕生[編集]

元寇の後、恩賞の不足などから武士が貧しくなるなどして、世の中が乱れました。後醍醐天皇は、執権北条氏を倒して政治の改革をしようと全国の武士に呼びかけ、北条氏を滅ぼし、新たな政治を始めます(建武の新政)。しかし、この新政は、公家が優先されるなどから、多くの武士の不満を生じさせ、この不満を受けた足利尊氏は、後醍醐天皇に反して別の天皇を立て、征夷大将軍に任ぜられ京都に幕府を開きます。これを、「室町幕府」といい、この時代を「室町時代」と言います。また、このころ、後醍醐天皇とその子孫が天皇の朝廷(南朝)と尊氏が立てた天皇の朝廷(北朝)がともにあった時期があり、これを「南北朝時代」と言います。
鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争いを通じて、守護・地頭と言った御家人や各土地の武士は、朝廷領や荘園の管理の立場から直接に支配するようになってきました。このようにして大きな領地を得ることになった守護を守護大名と言います。また、各地で領主となった武士を国人(こくじん)と言います。

室町時代の文化[編集]

南北朝の争いは、第三代将軍足利義満のときに、南朝が降伏しおさまります。義満は、その他有力な守護大名を押さえるなどして、戦乱の世をおさめ安定した世の中を実現します。また、中国の「(みん)」に使いを送り、貿易を開始します(勘合貿易)。この貿易から、日本に大量の貨幣(永楽通宝)が流入し、商業が盛んとなるきっかけになりました。
義満は、京都北山に別荘「金閣」を建てました、また、第八代将軍足利義政は東山に「銀閣」を建てました。これらのつくりには、ふすまや畳、違い棚と言った現在の和風建築に生かされているものを見ることができます。義満は、観阿弥世阿弥といった能楽の始祖を保護し、能楽とそれからわかれ出た狂言は日本の演劇のみなもととなります。この時代は、京都だけではなく、守護大名の治める地方都市でも文化が花開くようになります。水墨画雪舟はこの時期の代表的な芸術家ですが、守護大名大内氏のもと、現在の山口市などで活躍しました。

戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代[編集]

★時代区分:戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代
★取り扱う年代:1467年(応仁の乱の開始)から1600年(関ヶ原の戦い)まで

戦国時代[編集]

義政のころになると、守護大名は幕府にたよらず領地を強力におさめるようになり、そのため、各地では大名同士や国人同士での勢力争いも数多く見られるようになりました。特に、義政の後継者争いをきっかけにした応仁の乱以後は、幕府は各地の争いを止める力を失って大名間で競って領土を争うようになります。この時代を「戦国時代」と言います。
戦国時代にあっては、世襲の守護大名に対して、実力のある家臣などが大名の地位を乗っ取ることがしばしば見られました(下克上)。このように実力で大名となり、周囲の大名と争った大名を戦国大名と言います。また、長槍・投石など単純な兵器を軽装で扱う兵士(足軽)を大量に用いて集団でたたかうようになりました。特に、鉄砲伝来が、この戦い方に影響を与えました。
15世紀から、西ヨーロッパの国々、特にポルトガルスペインは世界中に船を出して貿易を始めたり、新たな土地を発見したりしていました(大航海時代)。その中で、1543年種子島にポルトガル人が漂着し、鉄砲が伝えられました。日本への航路を発見したポルトガルとスペインは、日本では南蛮人と呼ばれ、各地の戦国大名などと貿易を行います(南蛮貿易)。また、フランシスコ・ザビエルが来日し、キリスト教を伝えました。

安土桃山時代[編集]

実力のある戦国大名が、周囲の戦国大名などを討ち取って、各地での統一が進んでいましたが、戦乱の世の中を治め日本全体を統一に向かわせたのは織田信長です。信長は、領地の商業を盛んにし財力を拡大し、身分に関わりのない人材の登用、鉄砲など新たな武器の使用などで、領国の現在の愛知県から京都周辺の近畿地方一帯を統一し、将軍を追放し室町幕府を滅ぼしました。しかし、家臣の明智光秀により殺され、光秀を討った豊臣秀吉が信長の天下統一を引き継ぎます。信長は滋賀県の安土に城をきずき政治を行い、それをついだ秀吉は京都の桃山城(現在の京都市伏見区)で政治を行なったので、この時代を「安土桃山時代」と言います。政治の中心は桃山(伏見)でしたが、秀吉は、豊臣家の城として大坂城(大阪城)をきずき、城下に大名屋敷や堺などの周辺の町々の町人を集めて、大坂(大阪)の町を築いて政治・経済の中心都市としました。
秀吉は、中国地方の毛利氏、四国地方の長宗我部氏、九州地方の島津氏などを攻めしたがえ、関東を支配する北条氏を攻めほろぼして、天下を統一します。天下を統一した秀吉は、全国の農地の測量を行い(検地)、どれくらい米が収穫できるかを明らかにし(太閤検地)、大名の財力の基準としました(石高(こくだか))。この機会に、長さ・広さ・体積の単位が統一されました。また、天下が統一され、平和になったのだから武器は必要ないであろうということで、刀などを取り上げる「刀狩(かたながり)」を行いました。刀狩で、武士とそうでない民衆は明確に区別されました。
秀吉が、天下を統一したころには、キリスト教の信者(キリシタン)はかなり増えており、大名の中にも信者がいました(キリシタン大名)。しかし、各地で寺社との対立があったり、スペインなどの侵略のうわさなどもあり、宣教師(バテレン)を国外に追放し、キリスト教の布教を禁止しました。
晩年、秀吉は、大陸進出を望んで、全国の大名に命じて朝鮮に兵を進めました(朝鮮出兵: 文禄・慶長の役)。しかし、朝鮮の強い抵抗と、明の援軍にあい、侵攻が進まないなか、秀吉が死去し朝鮮出兵は撤退しました。

江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ[編集]

★時代区分:江戸時代初期
★取り扱う年代:1600年(関ヶ原の戦い)から1638年(島原の乱終結)まで

江戸幕府の始まり[編集]

秀吉死後、最も強力な大名徳川家康は、敵対する豊臣家家臣石田三成らと、東軍(家康側)と西軍(三成側)に分かれ関ヶ原で戦い(関ヶ原の戦い)、これに勝利します。政権は豊臣氏から徳川氏に移ります。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開きます。これを「江戸幕府(または、徳川幕府)」といい、江戸に幕府があった時代を「江戸時代」と言います。家康は、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、これ以降、大名同士の合戦はなくなります。
関ヶ原の戦いの後、家康は西軍の大名の領地と豊臣氏の領土を取り上げ、東軍の大名に分け与えました。この時、大名を家康の子孫による親藩、関ヶ原の戦い前から家来である譜代(ふだい)大名、関ヶ原の戦い後に従った外様(とざま)大名にわけてとりあつかいました。①親藩は、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った御三家御三卿を含み、家格・官位などでは優遇されましたが、幕政に参加することはまれでした、②譜代大名は、比較的小さな石高の領土を認められ領地替えもよくありましたが、江戸や京大阪からは近くに位置したものでした。大老老中若年寄といった幕閣には譜代大名がつきました。③外様大名は、比較的大きな石高の領土を認められ、幕末まで領地替えはほとんどありませんでしたが、江戸や京大阪からは遠いところにありました。また、幕政に参加することはほとんどありませんでした。なお、江戸時代の大名とその家来を合わせた集団を、「(はん)」と言っています。幕府は強力な力を持っていましたが、藩の中の政治に口を出すことはありませんでした。

武士の政治の安定[編集]

第3代将軍徳川家光は、大名は、妻子(正妻と後継となる子)を江戸に置き、領土との間を1年おきに行き来すること(参勤交代)を定めました。また、将軍の命令で、徳川氏が有する城や河川の改修などを務めなければならないこともありました。こうして、徳川将軍は大名が、戦国時代のように勝手に争うことができないようにし、安定した世の中を作り上げました。
徳川幕府には、重要なことを決める大老、老中、若年寄の他、大名の監視を行う大目付、寺社を管理する寺社奉行、幕府の出納を管理する勘定奉行、江戸の行政や裁判を行う江戸町奉行などの役職があり、大名の他、将軍の直接の家臣である旗本がその任務につきました。
秀吉の刀狩によって、武士の身分(士分)と民衆が明確に分けられましたが、江戸幕府はそれを引き継ぎ、「士農工商」という身分制を確立しました。また、人の移動は厳しく制限され、各地に関所がもうけられ、ここを通るのに通行手形が必要でした。
キリスト教は秀吉の時代に禁じられましたが、江戸幕府においても禁じられました。一方で、ポルトガルなどとの貿易は港を限定しながらも続いており、そこで宣教師との行き来があったとされます。そんな中、九州の天草・島原で大規模なキリスト教徒による反乱(島原の乱)が起きました。これがきっかけとなって、幕府は、島原の乱の翌年に、貿易の相手を、キリスト教の布教には熱心でないオランダだけに限って、さらに、長崎の出島だけでこれを認めることになりました。これを、鎖国(さこく)と言います。

江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ[編集]

★時代区分:江戸時代中期
★取り扱う年代:1638年(島原の乱終結)から1853年(ペリー来航)前まで

江戸時代の文化[編集]

江戸幕府の様々な政策によって世の中は安定し、人々は安心して経済活動を行えるようになって、様々な文化が武士だけでなく町人にも栄えるようになりました。
元禄(げんろく)」は、江戸幕府ができてだいたい100年くらいの元号ですが、このころ、最初の町人文化の開花が見られました。元禄の頃の文化を「元禄文化」と言います。仮名草子・浮世草子といった出版物が市中に出回るようになり、人形浄瑠璃歌舞伎が人々に人気を得て、井原西鶴近松門左衛門といった小説家・劇作家がでました。
連歌から発達した俳句(俳諧)が流行し、松尾芭蕉は、それを芸術のレベルまで高めたと言われています。
絵画も大衆化し、このころ菱川師宣浮世絵を創始しました。浮世絵は、版画の一種で何枚も同じ絵をすることができるので、庶民でもこれを買い求めることができました。ただし、浮世絵については、元禄から、さらに100年ほど後の「文化」「文政」といった元号の時期に最も盛んになります(化政文化)。喜多川歌麿東洲斎写楽は歌舞伎役者の肖像画を、歌川広重は『東海道五十三次絵』などの風景画を、葛飾北斎は『冨嶽三十六景』など風景画のほか様々な構図の絵をあらわし、国内のみならず、オランダ貿易で持ち出されたものがフランスなどの絵画にも影響を与えました。

江戸時代の学問[編集]

戦国時代までの学問は主に寺院で、僧侶などにより、仏教や中国の古典が研究されていましたが、江戸時代になると、様々な階層の人々の研究が見られるようになります。
幕府が公認していた学問は儒学のうち朱子学と言われるもので、幕府のほか各藩で教えられました。その他、中国の古典が研究されました。
一方で、日本の古典についても研究が進み、国学が成立しました。国学の成立に大きく貢献したのが本居宣長です。国学は、のちの「尊王攘夷」の考えに影響します。
鎖国をしているので、ヨーロッパの文化には直接触れることはできなかったのですが、オランダ語の書物を出島をとおして、手に入れることができ、これを訳して読むことで、当時急速に進みつつあったヨーロッパの科学に触れることができました。このような学問を蘭学と言います。杉田玄白らはオランダ語の医学書を翻訳して『解体新書』をあらわしました。
伊能忠敬は、天文学や測量術を学んだ他、独自に測量方法を工夫し、日本全国を訪れ、正確な日本地図を作りました。

明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代[編集]

★時代区分:幕末、明治維新、明治時代前期
★取り扱う年代:1853年(ペリー来航)から1889年(大日本帝国憲法の発布)まで

黒船来航と江戸幕府の終わり[編集]

日本が鎖国をしている間、ヨーロッパやそれを受けたアメリカ大陸では大きな社会変革が起こっていました。「産業革命」です。産業革命によって、石炭を使って大量の製鉄ができ、蒸気機関によって大きな力を得て、蒸気機関車や蒸気船といった、大量かつ高速輸送が可能となりました。欧米各国は、産業革命で巨大になった経済力を背景に世界中に船を出すなどして、製品の市場(しじょう)を求めるようになりました。
1853年アメリカ合衆国(米国)の提督ペリーが4隻の蒸気船(黒船)を引き連れ、浦賀に来航し日本に開国を要求しました。幕府は大混乱の中、翌年の再来日をうけ、米国の船舶が港湾を利用することなどを認める日米和親条約を結び、その後、米国以外のヨーロッパ各国とも同様の条約を結び、1639年以来の鎖国は解かれました。欧米各国はさらに日本との貿易の条件などに関する通商条約の締結を求めます。日本国内では天皇が治める国であって(尊皇)外国人を入れるべきではない(攘夷)という考え(尊王攘夷)が全国的に起こり、幕府の動きがこれに反するものとして対立し、大老井伊直弼はこれを弾圧しました。井伊直弼は通商条約締結を強行しますが、尊王攘夷派に暗殺されます。日本は長い間他の国と外交をすることがなかったので、国際法の知識に乏しく、この時に結ばれた通商条約は、「治外法権」があって、「関税自主権」を認められない日本にとって不平等な条約でした。長州藩薩摩藩は尊皇攘夷の代表でしたが、欧米諸国に日本は大きく遅れており、それに追いつくには、「攘夷」ではなく積極的に外国に学ぶことであり、幕府の仕組みではうまくいかないと考えて、同盟して(薩長同盟)、幕府をうちたおすこと(倒幕)に方針を変えました。1867年第15代将軍徳川慶喜は、征夷大将軍を辞任し(大政奉還(たいせいほうかん))、江戸城は、薩摩の西郷隆盛らの率いる新政府に明け渡されました。こうして、江戸幕府は終わり、武士の世の中が終わります。

明治維新と文明開化[編集]

幕府が倒れた後、薩摩藩の西郷隆盛大久保利通、長州藩の木戸孝允らの働きによって明治天皇を中心とした新政府がつくられました(王政復古)。明治天皇の名による五箇条の御誓文が発布され新政府の方針がしめされ、様々な改革に取り組みます。元号が「明治」に改められたことをうけて、この改革を「明治維新(めいじいしん)」といいます。新政府は幕府だけでなく、藩も廃止し、政府が全国を直接治める形に変えました(廃藩置県)。また、四民平等をうたって、武士の特権を否定しました。新政府は、法律・裁判・軍隊・警察・経済・金融・税制・機械工業・鉄道・郵便・電信・学校・暦など数多い分野で、欧米を模範にした改革を行いました。
これらの改革によって、たとえば、布地が安く手に入るようになったり、蒸気機関車で短時間で遠くまで移動できるようになるなど人々の生活は大きく便利に変わりました(文明開化)。また、身分制をなくしたので、生まれた家に関わらず、個人の努力によって政治をはじめとする社会のあらゆる分野にかかわることができるようになりました。このような社会にあった「自由」や「平等」など「権利」「人権」といった欧米の考え方が福沢諭吉などにより紹介されました。

国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代[編集]

★時代区分:明治時代後期、大正時代
★取り扱う年代:1889年(大日本帝国憲法の発布)から1925年(昭和改元)まで

大日本帝国憲法の制定[編集]

明治維新の改革は、五箇条の御誓文の方針によりなされましたが、改革が進み近代文明国としての形がひととおり整ってきたところ、さらに政治の形を確かなものとし、人々の権利を明らかにするため、憲法の制定と選挙によって選ばれた議員による議会を開くことが求められました。板垣退助大隈重信は国会の開設を求めて、政党をつくりました。伊藤博文を中心とした明治政府は欧米諸国の憲法を研究し、1885年に内閣制度が創設され、1889年に大日本帝国憲法が発布されました。翌年憲法の精神に基づいて、初めて総選挙が行われ帝国議会(国会)が召集されました。

日清戦争と日露戦争[編集]

急激な近代化に成功した日本は、国内で拡大した産業の新たな市場を求め大陸に進出しようとします。朝鮮は中国の帝国(しん)の属国でしたが、その影響で近代化が進んでおらず、朝鮮国内の近代化を求める人々は日本と協力して清の影響から逃れようとしました。朝鮮国内の清に従う保守派と改革派の争いに日本と清はそれぞれ兵を出すなどして緊張が高まり、1894年朝鮮半島西岸における両国海軍の接触をきっかけに日清戦争が始まりました。日本は清の北洋海軍を壊滅させ、遼東半島を占領するなど戦いを有利に進め、翌年、陸奥宗光外務大臣と清の提督である李鴻章が交渉し、清の日本への賠償や台湾・遼東半島の割譲などを定めた下関条約が締結され講和が結ばれました(日本の勝利)。
遼東半島はロシア、ドイツ、フランスが反対したので割譲は取りやめとなりましたが(三国干渉)、そこにロシアが進出し、それを警戒する日本と対立しました。1904年日本とロシアは開戦し(日露戦争)、日本とロシアは、ロシアが植民地としていた遼東半島や中国東北部(満州)で戦いました。日本は多くの犠牲者を出しましたが、東郷平八郎がロシアのバルチク艦隊をやぶるなどして有利な位置となり、翌年、小村寿太郎外務大臣とロシアのウィッテが交渉し、ロシアの中国からの撤退、南満州鉄道の譲渡、南樺太の割譲などを定めたポーツマス条約が締結され講和が結ばれました(日本の勝利)。

条約改正と国際社会での地位の向上[編集]

幕末に欧米各国と結ばれた通商条約(不平等条約)の改正は日本政府の悲願でした。まず、政府は、国内の法整備を進め、公正な裁判が行われることを示し、日清戦争終結後の1899年治外法権を撤廃しました。そして、日露戦争の勝利は、世界に驚きをもってむかえられ、国際的地位も上がったことをうけて、1911年関税自主権も回復しました。
1912年大正天皇が即位し、元号が「大正」となりました。
1914年にヨーロッパの国々を二分した第一次世界大戦が始まりました。日本は、イギリスやフランスの属する連合国に参加し、敵対する同盟国の一つであるドイツが租借する中国の青島(チンタオ)や南太平洋の島々を占領しました。1919年戦争は連合国の勝利に終わり、翌年、平和を維持するための国際連盟が設立、日本は英仏などとともに常任理事国の一つとなりました。
このころになると、日本の科学技術の水準も世界的なものになり、野口英世のように国際的な研究者がでてくるようになりました。

戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで[編集]

★時代区分:昭和時代、平成時代、令和
★取り扱う年代:1926年(昭和改元)以降

戦争への道[編集]

1926年昭和天皇が即位し、元号が「昭和」となりました。
日本経済は、第一次世界大戦終結後、長く低迷を続けていましたが、1929年に世界恐慌が起きるとさらに景気が悪くなりました。人々の一部は、中国東北部(満州)の開発で、これを解決しようとしました。こうして、中華民国との間に対立が生まれ、1931年から戦争状態となります。全世界を見ても、世界恐慌から回復しようと自国を優先した政策をとるようになります。こうして、世界は第一次世界大戦前のような状態になってきました。特に1919年ロシア革命で生まれたソビエト連邦(ソ連)に対しては、日本はドイツ・イタリアと同盟するなど各国から警戒されました。こうした中、1939年ドイツはポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まりました。1940年、ドイツはフランスに侵攻、1941年にはソ連に侵攻するなど戦争が拡大しました。日本は、中国との戦争を非難するアメリカ合衆国との交渉がうまくいかず、1941年ドイツ側に参戦し、アメリカやイギリスと戦うことになりました。この戦争は、戦車や飛行機といった最新の強力な兵器が使われ、大量の犠牲者が出ました。日本も、中国をはじめとしたアジア各地で住民に損害を与えた一方で、戦争の後期には、日本各地で空襲を受け、沖縄は全土が戦場となり、そして、広島・長崎に原子爆弾が落とされるなど、歴史上見なかった被害を出して、戦争に敗れました。

民主国家日本の誕生と発展[編集]

日本は、戦勝国であるアメリカ合衆国の占領下に入り、その下で、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を三大原則とした日本国憲法が制定されるなどさまざまな民主化政策が行われます。そうして世の中が安定すると、日本は品質の高い工業製品を世界中に輸出することで、経済力を回復し(高度経済成長)、国民生活が向上すると同時に、国際社会の一員として復帰しました。その象徴が、1964年に開催された東京オリンピックパラリンピックです。その後も、万国博覧会、2回の冬季オリンピックやサッカーワールドカップなど世界的な催し物を開催できるようになりました。2021年世界中がコロナ禍で沈む中、2回目の東京オリンピック・パラリンピックを開催したことは記憶に新しいところです。

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