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小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』
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この章の概要

★時代区分:飛鳥時代、奈良時代
★取り扱う年代:おおむね6世紀以前から794年(平安遷都)まで

飛鳥時代
大和朝廷によって日本が統一されると、ますます、大陸との行き来が増えました。朝鮮半島から技術や文化を持った人々が定住し、これらを伝えました(渡来人)。また、仏教が日本に伝えられたのもこのころです。
聖徳太子の改革
当時、中国では「(ずい)」が国を統一し強力なものとなっていました。推古天皇の皇太子である聖徳太子は、隋にならって天皇中心の強力な政治を進めるため、役人の心得をしるした「十七条の憲法」をあらわし、序列を明らかにする「冠位十二階」を定めました。また、小野妹子などを隋に派遣し(遣隋使)、隋と親交を結ぶとともに、隋の制度などを学ばせました。なお、まもなく隋は「(とう)」に滅ぼされますが、中国への派遣はつづき、これを遣唐使と言います。また、仏教がさかんになり、法隆寺などの寺院が建てられました。これは、都が飛鳥(あすか)(奈良県中部)を中心にくりひろげられたので、この時代を「飛鳥時代」と言います。
大化の改新
聖徳太子が亡くなったのち、最も勢力を持っていた蘇我氏を中大兄皇子(後の天智天皇)は中臣鎌足(藤原鎌足、「藤原氏」の始祖)らとともに討ち、天皇中心の政治を一層強力なものにしました。例えば、土地は天皇のものとして人々に均等に分け与え、()(よう)調(ちょう)といった税を徴収する制度(公地公民制)などがすすめられました。また、この時、中国にならって、初めて元号「大化」を定めました。これらの事件や改革を大化の改新と言います。このころ、朝鮮半島では新羅(しらぎ)が統一を進めていて、唐と連合して百済(くだら)を攻めました。百済は日本に助けを求め、日本は百済とともに新羅・唐と戦いましたがやぶれ、ほろびてしまった百済の多くの人々が日本へ移り住みました。
奈良時代
朝廷は、国づくりをすすめるのに、律令(りつりょう)という法律を作り、それにもとづく政治が行われるようになりました(律令制)。また、それまでは、天皇が変わるたびに都を移していたのですが、現在の奈良市に大規模な都「平城京(奈良の都)」を作り、そこで天皇が代わっても引き続いて政治を行うようになりました。また、このころ、初めて貨幣が作られました(和同開珎)。
平城京には、遣唐使で留学した僧や来日した僧によって多くの寺院が作られました。聖武天皇は即位した頃、地震や疫病などの災いが起こったのを受け、仏教に救いを求めて、全国に国分寺国分尼寺を建立しました。これ話の総本山として奈良に東大寺をつくり、そこに大仏(奈良の大仏)を作りました。
平城京に都のあった時代を「奈良時代」と言います。

飛鳥時代

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大和政権の政治

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5世紀末ころの、朝鮮半島の様子。
大和政権は5世紀後半から6世紀前半にかけて、日本の「くに」を統一しました。しかし、統一前は各地の「くに」の王であったものが、大和政権にしたがって国造(くにのみやつこ)県主(あがたぬし)などといわれる称号[1]のついた豪族となっただけで、大和朝廷との関係はうすいものでした。他方で、大王(おおきみ)のまわりの朝廷も、(おみ)(むらじ)伴造(とものみやつこ)などの様々な称号のついた豪族によってなりたっており、なかでも大臣(おおおみ)である蘇我(そが)氏、大連(おおむらじ)である物部(もののべ)氏や大伴(おおとも)氏といった豪族が有力となっており、それらが、きそっていました。
また、このころ、日本は朝鮮半島との間に深い関係がありました。朝鮮半島は、中国に隣接しており高い技術や文化が伝わっていたので、それらを持った人々が多く日本にやってきて、日本に住み着きます。この人々を渡来人(とらいじん)といいます。日本に、仏教が伝わったのもこのころです。はじめは、渡来人たちの宗教として広まり、やがて6世紀のなかば、朝鮮半島南西部にあって親密な関係にある百済(くだら)の国王から、大王(おおきみ)あてに正式に伝わりました。
前の章で書かれたとおり、倭が朝鮮半島の高句麗(こうくり)にせめいったことの記録があります。日本は、当時、朝鮮半島の南に任那(みまな)(「伽耶(かや)」とも言います)と呼ばれた領土を持っていたのではないかと考えられてもいますが、朝鮮半島南東部の新羅(しらぎ)がだんだん勢力を伸ばしてきて、任那を攻めとってしまいます。
大和政権は、これに兵を送りましたが、任那はとりもどせませんでした。また、地方の豪族たちもしばしば反乱を起こしました。大和政権は、統一にともなって、支配する地域が広がり、そこに住む人々の数も大きくふえたため、たとえば、戦争を行うとか反乱をおさめるために兵士を集めるなど、それまでのような、豪族の連合では問題の解決が難しくなっていました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】大和政権の国の仕組みと苗字(姓)
大和政権は、日本を統一したといっても、それは、豪族の連合であって、国としてのまとまりは弱いものでした。
このころは、「税」か土地を有する主人と人民の間のやりとりなのかはあいまいで、大和政権が征服した土地の一部を、大王(おおきみ)の土地として、各地の豪族(国造や県主など)にまかせて、そこからの収穫を都におくるというものでした。このような土地を「屯倉(みやけ)」と言います。「三宅(みやけ)」さんという苗字(姓)はこれに由来します。なお、各地の豪族が支配した土地を、「田荘(たどころ)」と言います。「田所(たどころ)」という苗字の方もいますね。
また、大王(おおきみ)は、職業別の人民のグループをしたがえていて、屯倉(農地)で働かせたり、ニワトリを飼わせたり、工芸品を作らせたりしました。そこから得られるものも大和朝廷のものとなりました。この人民のグループを「部民(べのたみ)」と言います。田をたがやす田部(たべ)、ニワトリを飼う鳥飼部(とりかいべ)、土器を作る土師部(はじべ)などさまざまな部民がいました。また、豪族のもとにも同じような、人民のグループがいて、それらの人々は「部曲(かきべ)」と言われてました[2]。その部民の中に、川の渡し船を職業としたグループがいます。河川を使った水運や大きな橋のない時代に、陸上交通を助けたりもしたでしょう。この部民を「渡部」と書いて「わたべ」「わたなべ」と読みます。きっと、皆さんのだれかの苗字か、知り合いの苗字ですよね。もどっていえば、「田部・多部・田辺」さん、「鳥飼」さんとか「土師」さんとかもいませんか。
服を作る部民を「服部」といいます。「はっとり」さんですよね。これは、もとは「はとりべ」と呼ばれていて、「はたおり」からきています。
以上の話を、簡単に表にすると以下のようになります。
支配する土地 支配する人民
大王(おおきみ)(天皇) 屯倉(みやけ) 部民(べのたみ)
豪族 田荘(たどころ) 部曲(かきべ)
聖徳太子

聖徳太子

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大和の有力な豪族どうしの争いは、まず、大伴氏は政治を失敗して勢力が弱くなります。のこった蘇我氏の蘇我馬子(そが の うまこ)と物部氏の物部守屋(もののべ の もりや)は、用明(ようめい)天皇[3]の死後、誰を天皇とするかで争います。これは、大和朝廷で仏教を信仰するかという争いでもありました。馬子[4]は、仏教をとりいれる立場で守屋はそれに反対する立場でした。馬子は、この争いに勝ち、大きな権力をにぎります。馬子は、次の天皇を自分の思いのままにならないからという理由で殺してしまい、593年、初めて女性の天皇である推古(すいこ)天皇を即位させます。馬子は女性の天皇だと戦争などの時に不安があるため、おいの厩戸王(うまやどのおう)摂政(せっしょう)とし、政治を補佐させます。これが、聖徳太子(しょうとくたいし)です[5]。聖徳太子は摂政の立場で、豪族の集団の政治から、天皇中心の政治を目指します。また、お寺をつくるなどして、仏教文化をさかんにします。これは、都が飛鳥(あすか)(奈良県中部)を中心にくりひろげられたので、この時代を「飛鳥時代」と言います。
太子[5]は、仏教の信仰が厚く、また、深く研究していたと伝えられます。摂政となる前、馬子と守屋の戦いでは、仏教方である馬子がわにあって、四天王(してんのう)の像をほって、勝ったならば寺を作ってまつると祈りました。戦いに勝った結果建てられたのが、現在大阪市にある、四天王寺というお寺です。
太子が摂政になった当時、中国では「(ずい)」が南北に分かれた中国を統一し強力なものとなっていました。大和朝廷は南の王朝には何度も使者を送っていたのですが、北の王朝へは送っておらず様子があまりわかりませんでした。600年太子は隋に使者を送って様子をみさせます(遣隋使(けんずいし))。使者は、隋からもどって、太子に隋の進んだ政治、特に皇帝に権力がまとまった様子(中央集権(ちゅうおうしゅうけん))を報告します。太子は、深く納得して、豪族たちの争う大和政権の仕組みをかえようととりくみ、以下のようなことをおこないました。
聖徳太子の改革
  • 冠位十二階(かんいじゅうにかい)の制
    603年、太子は朝廷に使えるものを役割の重さにしたがって、12の段階に分け、それを冠の色で見分けられるようにしました。それまでは、臣・連・国造などの称号が多数あってその関係は明確ではなく、また、それは豪族一族に認められたものでしたが、この制度によって、一族ではなく、能力のある個人に役職があたえられることになりました。この、冠位の制度は、「位階(いかい)[6]」の形となって後世まで引き継がれます。
  • 十七条(じゅうしちじょう)憲法(けんぽう)
    役人としてのこころがまえをしるしました。一人で決めないで、みんなで相談して決めることなどが説かれ、また、仏教を信じることなどが決められています。
十七条の憲法(要約)
1条 争いをやめ、なかよくしなさい。
2条 仏教を厚く保護しなさい。
3条 天皇の命令にはしたがいなさい。
5条 裁判は、公正に行いなさい。
12条 農民などの(たみ)から、勝手に税やみつぎ物をとってはいけません。
17条 重要なことを決めるときには、話し合いで決めなさい。
法隆寺。金堂(こんどう)五重塔(ごじゅうのとう)
法隆寺の釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)(金堂)
  • 遣隋使(けんずいし)
    607年、小野妹子(おののいもこ)に太子の手紙を持たせて、ふたたび隋に使者を送りました。609年、やはり、小野妹子が使者となり派遣されました。この遣隋使には、国の制度を学ぶための留学生や仏教を学ぶための留学僧を多数ともなっていました。遣隋使は、610年、614年にも送られます。
  • 仏教の普及
  • 仏教を深く研究し、お経の解説書をあらわしました。
  • 四天王寺ほか多くの寺を建立(こんりゅう)[7]しました。
    607年に、斑鳩(いかるが)に建てた法隆寺(ほうりゅうじ)は特に有名です。
    • 法隆寺は、現存する木造建築としては世界最古といわれています[8]。また、法隆寺金堂の釈迦三尊像[9]など国宝に指定されているものが数多くあります。法隆寺は、1993年に世界文化遺産に登録されました。
  • その他
    初めて、日本の歴史書『天皇記』『国記』をまとめさせましたが、現在は残っていません。
聖徳太子の改革の結果
622年、聖徳太子は亡くなりました。推古天皇(628年没)よりも先に亡くなったため天皇になることはありませんでした。
聖徳太子の改革によって大和政権はどうかわったでしょうか。冠位十二階や十七条の憲法によって、大和政権は天皇を中心とした政権であることが理解されたのではないかと思います。しかしながら、法律などを決めて政治のルールにするまでは達しませんでしたし、多くの豪族の勢力は弱まったものの、太子の政策は、馬子[10](626年没)の協力があってなされたため最大の豪族である蘇我氏は強い勢力をもちつづけました。聖徳太子の改革は、天皇中心の政治に向けて「さきがけ」となったと言えるでしょう。太子のやりのこしたことを、これからのべる「大化の改新」や「律令制」で完成させるのです。
隋との外交はうまくいった方でしょう。隋に留学した人々は、あらたな知識を持って日本に帰ってきました。ただ、隋は、618年、太子が生きている間に、(とう)にほろぼされます。太子は、新たな王朝と外交を始めなければならないと心配していたのではないでしょうか。
聖徳太子の功績で最も大きいものは、仏教の普及だとおもわれます。聖徳太子が、摂政である時期、多くの寺が建立され、朝廷内にも定着しました。

大化の改新と律令制の成立

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聖徳太子の改革の後も、蘇我氏だけは強い勢力をもちつづけました。626年馬子が亡くなると、その子である蘇我蝦夷(えみし)[11]大臣(おおおみ)の地位をつぎました。蝦夷は、推古天皇の死後の舒明(じょめい)天皇の即位、その次の皇極(こうぎょく)天皇の即位にあたって口を出すほどの権力をもちました。642年、蝦夷は生きている間に子の蘇我入鹿(いるか)大臣(おおおみ)を天皇のゆるしなくゆずりました。入鹿は聖徳太子の天皇中心の政治をめざす人々と対立し、643年には聖徳太子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)をせめほろぼします。
645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、中臣鎌足(なかとみのかまたり) たちとはかって、宮中で入鹿を殺し、そのまま、蝦夷の屋敷をせめて、自殺させます(乙巳(いっし)(へん))。
こうして、力を持った豪族はいなくなったので、中大兄皇子たちは、天皇中心の政治を行うために改革を行います。中大兄皇子は、聖徳太子と同じように皇太子として、この改革をおこないます。
  • 元号の制定
    はじめて、「元号(げんごう)」をさだめて「大化(たいか)」としました。元号は元々中国の習慣で、(こよみ)を皇帝(日本では天皇)が決めることができるというものです。
    ここから、これから行われる改革を「大化(たいか)改新(かいしん)」といいます。
  • 改新の(みことのり)
    翌646年、改革の内容を示した「改新の(みことのり)[12]」が出されます。以下の4か条です[13]。これにさらに明細にあたる副文がそえられています。
改新の(みことのり)(大意)
  1. 今までの、天皇の部民(べのたみ)と各地の屯倉(みやけ)、そして豪族の所有する部曲(かきべ)の民と各地の田荘(たどころ)を廃止する。
  2. (みやこ)を定め、畿内(きない)国司(こくし)郡司(ぐんじ)関所(せきしょ)斥候(せっこう)防人(さきもり)駅伝(えきでん)制などの制度を導入し、通行証を作成し、国郡の境界を設定することとする。
  3. 戸籍(こせき)土地台帳(とちだいちょう)を作成し、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)をおこなう。
  4. 今までの労役(ろうえき)を廃止して、新たな租税(そぜい)制度((でん)調(ちょう))をつくる。
おのおの、解説します。
  1. 天皇の部民(べのたみ)と各地の屯倉(みやけ)、そして豪族の所有する部曲(かきべ)の民と各地の田荘(たどころ)を廃止する。
    大化の改新までは、土地・人民とも、天皇(=大和朝廷=日本)に属するものと、豪族に属するものがあったけれども、すべて、天皇に属するものとするということです。これを、 公地公民(こうちこうみん) といいます。
    簡単にいえば、豪族から土地と人民[14]をとりあげたということです。かわって、これらの豪族は朝廷の役人となり、役人の官位(官職(かんしょく)位階(いかい)[6])にあわせた報酬があたえられるようになりました。このことで、豪族は、朝廷にしたがうものとなりました。役人には、だれでもなれることになっていましたが、実際になるのは、このようなもともと豪族だった役人の子孫ばかりでした。こののちの時代にかけて、このようにもともと豪族であった中央の役人やその一族を「貴族(きぞく)」と呼ぶことにしましょう。
  2. (みやこ)を定め、畿内(きない)国司(こくし)郡司(ぐんじ)関所(せきしょ)斥候(せっこう)防人(さきもり)駅伝(えきでん)制などの制度を導入し、通行証を作成し、国郡の境界を設定することとする。
    都と地方の政治についてさだめます。
    • (みやこ)を定めます。改新前は、朝廷は天皇の住まい周辺に集まったもので、あまり大規模ではありませんでした。天皇中心の政治を行うにあたっては、役人の数もふえ、役所などの規模が大きくなっていきます。そこで、単に天皇の住まいではなく、国全体をおさめる都市として、(みやこ)を考えるようになります。大化の改新当初は小規模で、よく移転しましたが、やがて、平城京という大きな都ができ、安定します。
    • 畿内(きない)[15]は、都近辺の国です。都の政治の影響もあるため、国の中でも特別なあつかいをします。今の日本で「首都圏」のようなものです。現在の奈良県・大阪府・京都府の一部が畿内となります。
    • それまで、各地の豪族(国造や県主など)がおさめていた地域を、いくつかにまとめ「(くに)」として朝廷から役人を国司(こくし)として送り統治します。それまで、各地をおさめていた豪族は、朝廷の役人である郡司(ぐんじ)となって、おさめていた地域で国司を補佐します。
    • 関所は、国境におかれて都などを守る拠点となります。また、人は田をたがやしたりする労働力なので、移動は厳しく制限されます。通行証がなければ関所は通られません。
    • 各国の状況は斥候(せっこう)が調べて、朝廷に報告します。
    • 九州に大陸からの警備の兵として防人(さきもり)がおかれました。
    • 日本中の国と都で使者をやり取りするようになったので、街道沿いには、使者が使う馬を何頭も飼って馬を乗りかえたり、夜になったら宿泊したりする「(えき)」を作り、都との連絡が、うまくできるようにした駅伝(えきでん)制を整備しました[16]
    ただし、全国に国司などをおいたからといって、日本全国が朝廷に従ったわけではありません(なお、ここで「日本全国」といっている場合、北海道と沖縄は、別に考えます。北海道と沖縄が朝廷や幕府の支配などに従うのはもっともっと後の時代のことになります)。南九州、現在の鹿児島県にはテンプレート:ふりがなという部族が住んで朝廷に対して何度か反乱を起こしていますし、東北地方には、蝦夷(えぞ)[11]とよばれる部族が朝廷と対立していました。この地域が、完全に朝廷に従うようになるのは、百数十年後の平安時代になってからです。
  3. 戸籍(こせき)土地台帳(とちだいちょう)を作成し、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)をおこなう。
    • 「公地公民」になって、朝廷は人民に土地を分け与えて農業をすることとなりました。これを、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)といいます。
    • 人々の名前や年齢、住所を登録した 戸籍(こせき) を作成し、それにもとづいて、土地台帳(とちだいちょう)に書かれた土地をわりあてます。人々はそれをたがやし収穫をあげて、その中から税をおさめるという仕組みです。
  4. 今までの労役(ろうえき)を廃止して、新たな租税(そぜい)制度((でん)調(ちょう))をつくる。
    • 今までは部民は天皇に、部曲は豪族に、収穫や工芸品などをおさめていたのですが、そのおさめる割合などは決まっていなかったところ、改新ではその内容を決めるというものです。この(みことのり)では、田からの収穫によるものにしかふれていませんが、租庸調(そようちょう)という形にまとめられます。
      • ()とは、田の収穫量の、約3~10%を、国におさめる税です。
      • (よう)とは、都に出てきて年10日ほど働くか、布[17]を納める税です
      • 調(ちょう)とは、繊維製品または地方の特産物を、国に納める税です。
    • このほかに、兵士としてつとめる兵役(へいえき)の仕事がありました。兵役には、住まいの国の軍団に配属されるもののあれば、衛士(えじ)として都に上って宮中の護衛をしたり、最もつらかったものに九州に行って国防の任務にあたる防人(さきもり)となることもありました。
      この防人のつらさを歌った歌として、つぎのような歌が残っています。

 さきもりの歌  (『万葉集(まんようしゅう)』より )

  (から) (ころも) (すそ) に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや(おも)なしにして
(現代語(やく))唐衣のにすがって泣きつく子どもたちを、(防人に出るため)置いてきてしまったなあ。あの子たちには母もいないのに。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」の話
班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」によって、「みんな平等に田んぼがもらえるようになったんだ。」と思うかもしれませんが、そう言うものではありませんでした。
まず、人々は良民(りょうみん)賎民(せんみん)に分けられます。賎民は、朝廷や豊かな貴族や地方豪族などの召使いや奴隷です。
6年ごとに、6歳以上の良民に対して、男性なら2(たん)、女性なら、その2/3の田が割り当てられます。この田を、区分田(くぶんでん)といいます。
  • (たん)」は「反」とも書きますが、広さの単位です。現在の単位で言うと1段は約12アールです。2段だと24〜25アールになるので、50m四方の田んぼをイメージすればいいかと思います。
  • 元々は、1(こく)(=約180リットル)の米が取れる広さを1段としていました。1石は1000(ごう)で、当時は、1年を360日で計算していたので、1人1日3合(女性の場合は2合)が必要と考えていたのでしょう。「合」は、今でもお米を炊く時に使いますからみなさんイメージしやすいでしょう。ただ、「1石の米が取れる広さ」といっても決められません。ですから、1段は360()とされました。()は、1(けん)(約1.8m)四方の面積で、家などに使う「(つぼ)」と同じです(次のコラム参照)。
  • 割り当てられた田から、想定される収穫の3%を税として納めなければなりませんでした。2段なら2石ですから、6(しょう)となります。
つまり、朝廷は、「1年分食べるのに困らない米を作れる」面積の田と同じ広さの田をわりあて、その分から税を払い残りで生活するようにと言っていることになります。
これですべてかと言うと、当然そうではありません。役人などは、区分田の他に、役人の位による位田(いでん)(8〜80(ちょう):1町=10段)、職務による職田(しょくでん)(2〜40町)が割り当てられ、功績のある物には功田(こうでん)賜田(しでん)が割り当てられました。また、寺や神社には、そこを維持するための寺田(じでん)神田(しんでん)がわりあてられていました。
これらの土地は広大で、また、日頃の職務を持つ役人や僧侶がたがやすことはできません。そこをたがやしたのは、土地に応じて割り当てられた良民らのほか、その役人や寺に属する家人(けにん)奴婢(ぬひ)といった人たちでした。家人や奴婢にも区分田はわりあてられましたが、良民の1/3で足りることはなかったでしょうから、主人から独立はできませんでした。
※なお、この単位については、約800年後に大きく見直されます

【脱線 - 覚えなくてもいい話】昔の単位(尺貫法(しゃっかんほう))の話
皆さんは、算数で、長さを測る単位としてメートルを習いました。そこから、面積を測る単位として平方メートルを、体積を測る単位として立方メートルを学んで、それを元に、生活で使いやすいようにアールやヘクタール、リットルという単位があることも学習しました。
これらは、ヨーロッパのフランスで18世紀に決められた単位で、この単位を使うルールをメートル法といいます。その他、重さの標準としてグラムやキログラム、時間の標準として秒を用いています。
日本は、明治になって欧米各国にならって国際的にものを測るのに同じ基準を用いることを目的としてメートル法を採用しましたが、それまでは、違う単位を用いていました。これを尺貫法(しゃっかんほう)といい、中国から伝わったものでした。
今では、尺貫法は公式には使われなくなりましたが、習慣に根づいた影響は、身の回りにいろいろ残っています。そのようなものをちょっと見ていきましょう。
長さ
長さの単位は(しゃく)から始めましょう。「尺」という漢字は親指と人差し指を広げた形から作られています。指を伸ばしてすぼめ、また伸ばして次を測るということを繰り返して長さを測ったなごりです。このような動きをするガの幼虫がいて、「しゃく(尺)とりむし」といいますが聞いたことはありませんか。1尺は、元々、親指と人差し指を広げた長さ約15cmでしたが、日本に伝わって約30cmのことを1尺というようになりました。
尺を細かくした単位は、1/10となる(すん)です。10寸が1尺ですから約3cmになります。「一寸法師」の1寸はこのイメージです。ことわざに「一寸の虫にも五分の魂」というのがあります。
逆に、尺を長い方に伸ばしたものに(けん)があります。1間は約6尺で、だいたい180cmです。これは、建物ので使う長さによく用いられます。代表的なものはたたみで、長い方の辺は1間、短い方の辺は、その1/2です。古い建物の戸や障子(しょうじ)などの高さも1間が標準でした。昔の日本人の平均身長は今よりかなり低いので、あまり不便ではなかったようです。
長い距離を表すのには()を用いました。1里は約4kmです。江戸時代に、街道の道しるべとして1里ごとに「一里塚」が置かれました。長い距離を表すのには「里」をよく用います。ことわざに「千里の道も一歩から」というのがありますし、地名では、千葉県に長い砂浜を持った九十九里浜(くじゅうくりはま)というものもあります。
面積
面積は、家や農地の大きさを測るのに重要でした。最も身近な単位は(つぼ)でしょう。1坪は1辺が1間(約1.8m)の正方形の面積になります。約3.3㎡です。たたみの長い方の辺は1間なので、2畳で1坪になります。
農地に関しては、前のコラムを参照してください。
体積
体積については、次の関係にある、(ごう)(しょう)()(こく)についてお話しします。
1000(ごう)=100(しょう)=10()=1(こく)
今でも身近なものは、(しょう)(ごう)でしょう。1升は、約1.8Lですが、お酒やしょうゆの瓶で1升のもの「一升瓶」は身近によく見かけます。1升の1/10が1合になり、これは、ご飯をたくときの目安になっています。
10升を1()といいます。ホームセンターなどで業務用の塗料などの入った縦横約25cm・高さ35cm位の金属でできた缶を見ることができます。これは、一斗缶(いっとかん)といって、約18Lの液体を入れるのに用います。
10斗を1(こく)といって、前のコラムでお話ししたように収穫した米のように大きな体積を表すのに用いました。江戸時代の話になりますが、「百万石の大名」や「千石船」のように、その時代を伝える言葉に残ります。

 
  • 中大兄皇子の外交
    隋が618年に(とう)に滅ぼされた後、蘇我蝦夷がまだ大臣の時代、遣隋使につづいて遣唐使(けんとうし)が派遣され、皇帝に遠方から来たことで歓迎されました。大化の改新以後も数度にわたって派遣し、唐との親交を深めていました。
    このころ、朝鮮半島の情勢が大きく変わります。唐は、勢力を伸ばしている新羅を配下に加え、隋の時代から敵対していた高句麗に対して攻撃しようとしていました。日本は、任那を失ったのちも百済とは親交を深めていたところですが、新羅はさらに勢力を伸ばそうと隣国の百済を唐とともにせめ、660年に百済をほろぼしてしまいます。百済の遺臣(いしん)[18]たちは、日本にいた百済王の王子を立てて、百済の復興を望み、日本に支援を願います。朝廷はこれに応じ、約4万人[19]の兵を朝鮮半島に送ります。
    663年日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍と戦い(白村江(はくすきのえ)の戦い)、約1万人の戦死者をだすほどの惨敗をし、百済から多くの亡命者をひきつれ帰国します。
    中大兄皇子は、唐・新羅連合軍が日本に攻めてくることにそなえ[20]、防人をおいて九州を守らせ[13]、667年都を現在の大阪市にあった難波宮(なにわのみや)から滋賀県の近江京(おうみきょう)に移しました。翌年、天皇に即位し天智天皇となります。
    国内での防衛を固めると同時に、唐に何度も使いを送って友好関係を回復させようと努力しました。
  • 律令制の成立
    白村江の戦いの敗北は、国の仕組みが遅れていることを自覚させました。唐が強大な理由の一つは、国づくりの基本がしっかりとした法律もとづいているからだと考えた天智天皇は、唐と同じような国づくりを目指して、668年に近江令(おうみりょう)という法律を決めます。
    天智天皇は671年に亡くなり、翌672年、天智天皇の子大友皇子(おおとものおうじ)と弟大海人皇子(おおあまのおうじ)がはげしく争い(壬申(じんしん)の乱)、大海人皇子が即位し、天武天皇となります。
    天武天皇は、681年、よりよい法律を定めるように命じ、686年天武天皇が亡くなったあとの689年に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が完成しました。しかし、飛鳥浄御原令は、役所の仕組みや税の仕組みなどを決めた「(りょう)」の部分しかなく、まだ、犯罪の処罰について決めた「(りつ)」の部分はありませんでした。
    法律の研究はさらに進み、701年に、「律」の部分もそろった 大宝律令(たいほうりつりょう)が完成して、しっかりとした法律にもとづく天皇を中心とした国づくりが完成することになります[21]。この律令によって、政治を行うことを「律令制(りつりょうせい)」 と言います。
     
    「令」に決められた朝廷の仕組み(点線で囲まれたものは、律令ができたころはなかったのですが、のちに増やされた役職です)
    この図は参考ですので、細かい役所の名前は小学校の学習の範囲外ですから覚える必要はありません。
    律令制の役所
「令」によって、朝廷の仕組みが明確になりました[22]
  • 政治を行う「太政官(だじょうかん)」と、宮中の祭祀(さいし)を行う「神祇官(じんぎかん)」に分けられます。
  • 「太政官」には太政大臣(だじょうだいじん)左大臣(さだいじん)右大臣(うだいじん)などがいて重要なことをとりあつかいます。
  • 「太政官」の下に、租税を扱う民部省(みんぶしょう)、軍事を扱う兵部省(ひょうぶしょう)、朝廷の財産を扱う大蔵省(おおくらしょう)など専門をあつかう、8個の役所(省)が作られました。
  • 国司も「太政官」の下にありました。九州は、畿内から遠く各々の国との行き来に時間がかかり通常のことは現地で取り扱うようにすることと、大陸と近く国防の最前線や外交の窓口の役割を果たすことを目的として、太宰府(だざいふ)と言う特別の役所がおかれました。
【脱線 - 覚えなくてもいい話】「令制国(りょうせいこく)」の話
「改新の(みことのり)」に、「各地の豪族(国造や県主など)がおさめていた地域を、いくつかにまとめ「(くに)」として朝廷から役人を国司(こくし)として送り統治します。」とありましたが、大宝律令の(りょう)によって、これがほぼ確定しました。「(くに)」はいろいろな意味を持っていますので、歴史の学習では、これを、「(りょう)で決めた国」という意味で「令制国(りょうせいこく)」と呼んでいます。また、令制国の名を「旧国名(きゅうこくめい)」ということがよくあります。
令制国は、今の都府県(北海道と沖縄県はそのころは朝廷の支配はおよんでいませんでした)と同じくらいの広さを持つ地域です。今の県の中には、元々令制国の領域をそのまま県の領域にしたものもあります。たとえば、県の歌が『信濃(しなの)の国』である長野県は「信濃(しなの)」という令制国でした。同じような例は甲斐(かい)(山梨県)、美濃(みの)(岐阜県)、讃岐(さぬき)(香川県)、日向(ひゅうが)(宮崎県)など多数あります。また、陸奥(むつ)(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県の一部)、武蔵(むさし)(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)のように令制国が複数の都府県に分割されたり、伊豆(いず)駿河(するが)遠江(とおとうみ)で静岡県となった複数の令制国が一つの県になった例もあります。兵庫県は摂津(せっつ)の西部、播磨(はりま)但馬(たじま)丹波(たんば)の西部、淡路(あわじ)など多数の令制国からできています。令制国は古くからありますから、同じ県でも住んでいる人々の気質が違うとはよく言われるところです。皆さんも今住んでいるところが、令制国ではなんと呼ばれていたか調べてみましょう。
令制国の名前は、昔からの地名に漢字2文字をあてて名づけられました。3文字のものから1文字けずったり[23]、1文字のものに1文字くわえたり[24]しました。また、元々大きな国をいくつかに分けて、都に近い方から「前・中・後[25]」「上・下[26]」をつけるやり方もありました。
また、「旧国名」の一部、たとえば、長門(ながと)(山口県北部)の「長」をとって、「(しゅう)」の字をつけ、別名を「長州(ちょうしゅう)」とする呼び方もよくされています。
「旧国名」は、今でも日常的生活でよく使います。地名では、大隅(おおすみ)半島、信濃(しなの)川、武蔵村山(むさしむらやま)市などがあり、(あき)(広島県西部)と(いよ)(愛媛県)の間の海峡は芸予(げいよ)海峡といいます。また、サツマイモは薩摩(さつま)(鹿児島県)から全国に普及した芋ですし、香川県の名物は讃岐(さぬき)うどんです。(きい)(和歌山県・三重県南部)と(いせ)(三重県北中部)を結ぶ鉄道の路線は紀勢(きせい)本線と言います。身の回りに「旧国名」に関係するものがないか探してみてください。
また、役人の国司がいた地域を国府(こくふ)といいますが、これにちなむ地名も全国に見られます。「国府」のついた地名(国府台(こうのだい)とかありますね)や府中(ふちゅう)などがそうです。さらに、国府の近くには、下に述べる国分寺や国分尼寺が建てられましたが、これにちなんだ「国分寺」や「国分」という地名もよくみることができます。

奈良時代

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平城京遷都

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平城京のイメージ図
平城京のイメージ図
律令制も完成し世の中が落ち着いてきました。一方で、律令が完成したことで多くの役所が、王宮には必要となり、これまでの(みやこ)では、手ぜまになってきました。また、唐や新羅とも国交が回復し、その国の使者などが(みやこ)におとずれるようになり、威信を保つため、立派な街並みや建物などを備えることが求められました。そこで、710年、元明天皇は、現在の奈良(なら)市に、「平城京(へいじょうきょう)」 を建設し遷都(せんと)[27]。平城京は、それまでの都に比べ巨大で、唐の都である長安(ちょうあん)にならって碁盤(ごばん)の目のように、区画が整理されています。この都が平城京にあった時代を 奈良(なら)時代 といいます。
奈良時代の初期は、律令制が確立していく時期で、いろいろな唐の文化や制度を学んで取り入れていきました。
薬師寺東塔
  • 遣唐使の派遣と唐風文化
    白村江の戦いにまけてからのちの数回の使者の派遣もあって、また、遣唐使を派遣するようになりました。遣唐使の中には、長い間留学し、その経験を朝廷で発揮するものもいました。たとえば、吉備真備(きびのまきび)は、十数年唐に留学し、多くの書物と楽器や日時計といったものを日本に持ち込み、政治の世界ではその経験をいかして右大臣にまでなりました。また、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、真備とともに唐に渡って、学問をおさめますが、大変優秀であったため、唐の役人になり出世しました[28][29]
    また、唐の建築様式が伝えられ、宮殿や役所、寺院などが唐風に作られました。唐風建築は、現在でも『薬師寺東塔』などに残っており、日本の寺院建築に大きな影響を残しました。


  • 歴史書の編纂(へんさん)
    中国の王朝には、前の王朝までの歴史を編纂(へんさん)[30]する習慣があります。朝廷は中国をまねて、712年に『古事記(こじき)』、720年に『日本書紀(にほんしょき)』を完成させました。『古事記』には、神話の時代から推古天皇にいたるまでのできごとが物語を語るように書かれていて、『日本書紀』には神話の時代から持統天皇までの歴史が、神話時代は元となる資料を比較し、天皇の代になってからは、できごとの起こった順に沿って書かれています。古事記と日本書紀は、あわせて『記紀(きき)』と言っています。
  • 万葉集
    このころになると、日本でも、漢字を使える人たちが相当に増え、そういう人の中から、漢字一文字の音を日本語の音に当てるという工夫が生まれ一般的になってきました。この工夫から、日本語の詩歌(しいか)である和歌(わか)が文字で記録できるようになりました。こうして記録した和歌をまとめた万葉集(まんようしゅう)が759年ごろに編纂(へんさん)されました。貴族だけでなく、農民など様々な身分の者が作ったと思われる和歌も収録(しゅうろく)されており、合計で4500首の歌が収録されています。このため、当時の庶民の生活の様子がよくわかったりします。
    また、このような、漢字で日本語の音を表す工夫を万葉仮名(まんようがな)といい、後世の仮名(かな)(ひらがな、カタカナ)の源流となります。
万葉仮名の例
万葉集に収録された和歌を使って、万葉仮名の例を示します。
しろかねも くがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも
これは、奈良時代の歌人山上憶良(やまのうえのおくら)の和歌です。意味は、
「白銀(しろかね)も、黄金(くがね = こがね)も、宝石(たま)も、何ということがあろうか(なにせむに)。それに(まさ)る宝で、子に及ぶものはない」
(金銀・宝石といった宝より、自分にとって子供が何よりの宝である)
これは、万葉集では以下のように書かれています。
母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母
  • ここで、下線を引いた「銀」「金」「玉」は、その漢字の意味から「しろかね」「くがね」「たま」と読みます。漢字の訓読みと同じですね。
  • では、「母」の「母」はどうでしょう。ここでは、「はは」の意味はなく、音読みの「モ」の音で読んで、「(しろかね)() (くがね)()(たま)()」と読みます。
  • 以下同様に、漢字の意味にかかわらず、漢字1文字について、日本語の音1音を当てています。
    奈尓世武尓(なにせむに) 麻佐礼留多可良(まされるたから) 古尓斯迦米夜母(こにしかめやも)
この、漢字1文字に日本語の音1音を当てる工夫から、のちにひらがな、カタカナが生まれます。

 
  • 和同開珎(わどうかいちん)鋳造(ちゅうぞう)
    和同開珎(東京国立博物館所蔵)
    平城京完成前の708年、日本で初めて[31]貨幣(かへい)(お金)「和同開珎(わどうかいちん)[32]」が鋳造(ちゅうぞう)[33]されました。
    貨幣(お金)ができるまでは、(いち)などで、欲しいものがあって、それを手に入れるには、米などを代わりに渡さなければなりませんでした(物々交換(ぶつぶつこうかん))。物々交換は、相手が欲しいものを持っていないと成立しません。また、野菜や果物、魚などは大量に手に入れても傷んだり腐ったりするので、長期間保管できませんし、工芸品はそれを保管する場所が必要になります[34]。貨幣(お金)の場合、農作物などを大量に手に入れた時に売って貨幣(お金)の形で残しておけば、別の機会に、物を買うのに使えますから保管などを心配することはありません。
    しかし、当時の日本では、貨幣(お金)は一般的なものにならず、物々交換が主で、貨幣(お金)による売買が一般的になったのは、これから、600年から700年後の話になります。
  • 東西の交流ー正倉院御物
    東大寺(とうだいじ)にある 正倉院(しょうそういん) には、奈良時代の美術品や、聖武(しょうむ)天皇が愛用した道具などがおさめられています。これらは、正倉院御物(しょうそういんぎょぶつ)[35]と呼ばれますが、遣唐使が唐から持ち帰ったものなども多く、しかも、唐は国際的な国であったので、遠く西のペルシア(現在のイラン)あたりから伝えられたものもあり、世界的に大変貴重なものとなっています。
※その他、有名な所蔵品に「螺鈿紫檀五絃琵(らでんしたんごげんのびわ)」や「瑠璃杯(るりのつき)」などがあります。


東大寺の大仏

仏教の興盛

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聖武天皇
8世紀のなかごろ、都では病気が流行し、多くの死者が出たり、さらに、貴族の反乱が起きたりしたため、世の中に不安が広がりました。仏教を深く信じた聖武天皇(しょうむてんのう)は、仏教の力を借りて人々の不安をしずめ、社会を安定させようとしました[36]
まず741年に国ごとに国分寺(こくぶんじ)国分尼寺(こくぶんにじ)[37]を建てさせました。そして、都には国分寺の総本山として東大寺(とうだいじ)を建てさせ、そのなかに銅製の大仏を作らせました(大仏建立(こんりゅう))。そのころには、昔に比べて多くな銅の板を加工するなどの技術はすすんでいましたが、これほど大きな仏像(高さ約15m、周囲約70m)を作った経験はなかったため、建立には苦労をきわめ、752年の完成まで7年かかりました。


行基
仏教はもともと、渡来人が伝え、一族の宗教とし、やがて、天皇をはじめとする皇室や豪族といった支配階級に広がっていったものでした。遣唐使にともなって留学し、帰国して寺を開く僧もふえ、平城京には多くの寺とそこで学ぶ僧が見られるようになりましたが、彼らの多くは仏教を学問としてとらえ、民衆のことを考えることはあまりありませんでした。
このころ、行基(ぎょうき)という僧がいました。かれは、渡来人の子孫で、諸国をまわって用水の池や橋を造りながら[38]、身分を問わず教えを説いていたので、多くの人々にしたわれていました[39]。はじめのうちは、当時、民衆への仏教の直接の布教は禁止されており危険な人物と思われ、朝廷は行基の行動をとりしまりました。しかし、民衆や地方豪族の支持を集め、朝廷も危険な行動ではないと理解し、とりしまりをゆるめました。
こうしたなか、大仏建立には、とても多くの人々の支持と労働力を必要とするので、朝廷は、人々にしたわれていた行基を、日本の仏教の最高峰である大僧正(だいそうじょう)に任じて、大仏建立を主導させました。
国宝『鑑真和上坐像』
遣唐使で唐に向かった多くの日本の僧が学ぶにつれ、唐の僧の中にも日本に興味をいだく者が出てきました。鑑真(がんじん)がそのひとりです。鑑真は、その当時の唐にあって、僧となるものに戒律を与える教えの第一人者で[40]、日本の留学僧の招きに応じ、日本に渡ろうとしましたが、最初は皇帝からの許可が降りず、許可を得てから渡ろうとして、5回も失敗し、6回目にようやく日本に着きました。6回目に日本についたころには、失明していました。鑑真は、奈良に 唐招提寺(とうしょうだいじ) を開き,そして多くの日本人の僧を育てました。
一方で、平城京には多くの寺院ができて、おのおのが広い農場を持ったり、遣唐使の留学から戻った優秀な僧が天皇に近づいたりして、政治などにも関係するようになり、それが原因で政治が乱れたりしました。遣唐使留学僧であった玄昉(げんぼう)は、聖武天皇の時代に力を持っていた橘諸兄(たちばなのもろえ)吉備真備とともにつかえ、唐の知識を政治に生かしていましたが、それに不満を持った者が反乱の兵をあげたりしました。また、称徳(しょうとく)天皇に仕えた道鏡(どうきょう)は、称徳天皇が天皇の位を譲ろうとするという騒動をおこすなど、僧が政治に近づきすぎることのあぶなさを感じるようになってきました。


律令制のいきづまり

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こうして、聖徳太子がはじめ、大化の改新をへて、「天皇中心の国づくり」と言う考えは、律令制で完成するのですが、奈良時代の半ばにはすでにいきづまりを見せていました。
国は、人々から「税」を集めることで政治を行うことができます。律令制では、「」が最も重要な税で、それは、「班田収授法」でわりあてられた田から得られるものでした。「班田収授法」は、戸籍や土地台帳の整備など実施には大変難しい点があり、畿内以外の全国で実施できたのかはうたがわしいものがあります。地方では、できたとしても国府近辺のごく一部ではなかったかと言われています。
また、班田収授法が実施できた地域でも問題がありました。
人口が増えると、新たな口分田をわりあてるために新たに土地を開墾(かいこん)[41]しなければならないのですが、開墾しても朝廷の土地(公地)となるのでは誰も開墾しないと言うことです。
朝廷は723年に開墾した土地は三世代(自分-子-孫 又は 子-孫-曾孫(ソウソン/ひまご))にわたって私有を認める三世一身法(さんぜいっしんのほう)を出して開墾を勧めますが、それでも十分ではなく[42]743年墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が出され、新たに開墾した土地は、税は納めますが自分の土地として売ったり相続したりできることとなりました。
墾田永年私財法で、積極的に開墾を行なったのは、家人(けにん)奴婢(ぬひ)を多くもっている貴族や大きな寺で、これらが勢力を持って「天皇中心」がゆらいでいくことになります。

脚注

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以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。

  1. ^ このような称号を(かばね)といいます。「かばね」は、個人に与えられたものではなく、一族全体で称したものです。
  2. ^ 部民・部曲の他、主人が売り買いすることもある召使いや奴隷(どれい)のような身分(みぶん)である、家人(けにん)奴婢(ぬひ)と呼ばれる人々もいました。
  3. ^ 聖徳太子の父になります。
  4. ^ 歴史では、個人を指すのに、しばしば下の名前だけでさししめすことがあります。姓名ともに記述すると長くなってしまいますし、代名詞「彼・彼女」では、複数の人物が登場したときに誰を指すのかがわかりにくくなります。上の名前(氏姓・苗字)では、後から出てくる藤原氏・源氏・徳川氏など同じ一族の区別がつきません。日本人の本名である(いみな)は、重なることが少ないため、そのような取り扱いになります。ただし、明治以降は、特定の一族ばかりが活躍することも少なくなり、また、姓の種類が増えたこともあって、上の名前(姓)で個人を指すことが増えます。
  5. ^ 5.0 5.1 「聖徳太子」は、死後につけられた名前です。歴史の学習では、「太子」だけで「聖徳太子」をさすことがよくあります。なお、本文中「-天皇」と書いていますが、この時代「天皇」という言葉は、まだありません。この前の節までは、大和政権の長をあらわすのに、その時代に使われていた大王(おおきみ)という表現をしていましたが、聖徳太子の時代以降は、個々の天皇を個人名として表す必要があるため、「-天皇」という表現とします。
  6. ^ 6.0 6.1 役人の順番を表したもの。後世には、「正一位、従一位、・・・」と言うように表すようになりました。
  7. ^ 寺などを建てること。
  8. ^ ただし、太子の死後、まもなく火災にあい、現在のものは670年に立て直されたものと言われています。それでも、世界最古の木造建築物です。
  9. ^ 渡来人系の鞍作止利(くらつくりのとり)が聖徳太子の病気回復を祈って制作し、太子の死後完成したものとされます。また、真ん中の釈迦は聖徳太子をモデルにしたとも伝えられています。
  10. ^ 太子の(きさき)は馬子の娘です。
  11. ^ 11.0 11.1 「蝦夷」と言う漢字は「蘇我蝦夷」に用いる場合は「えみし」と読みますが、「えぞ」とも読み、古代、朝廷になかなか従わなかった北関東から東北地方、北海道に住んだ人々のことをいいます。こちらも参照してください。
  12. ^ 天皇の命令
  13. ^ 13.0 13.1 ただし、これは『日本書紀』に書かれたことであって、現在の研究では646年に、このようなまとまったもので出されたわけではなく、何年もかけて整備されていったものだとされています。たとえば、「防人」が、この(みことのり)に出てきますが、実際、九州に配置されたのは663年以降とされています。
  14. ^ 家人(けにん)奴婢(ぬひ)といった人々は、そのまま、豪族などのものとされました。
  15. ^ 「きだい」とも読みます。
  16. ^ 鉄道の駅ということばや、長距離走のリレーである「駅伝(えきでん)」は、これらに由来します。
  17. ^ 近代になるまで、糸をつむぎ、(ぬの)を織るのは大変な作業で、布・繊維製品は大変高価なものでした。
  18. ^ ほろびた国の家臣。
  19. ^ 日本の全人口が約600万人のころです。
  20. ^ 実際に、北に向かった唐・新羅連合軍は、668年高句麗を滅ぼしています。
  21. ^ 日本」という国の名前は、大宝律令の完成にともない、「倭」に代わって、決められたとも言われています。
  22. ^ 役所は、省や国府といった形態に関わらず、どれも、長官である「かみ」、それを補佐する「すけ」、文書を審査する「じょう」、文書を作成する「さかん」という4種の役人で組織されていました。役職は、役所の名前と官名で、薩摩守(さつまのかみ)兵衛佐(ひょうえのすけ)左衛門尉(さえもんのじょう)などと呼ばれました。昔の日本では、本名((いみな))で呼びかけることはいけないことだとされていたので、貴族の間では役職名で呼びかけていました。これが、時代がくだると役職に関係なく通称となります。今でも落語家の名前などに残る、「-のすけ」はこれの名残です。
  23. ^ (例)上毛野(かみつけの)上野(こうずけ)(群馬県)・下毛野(しもつけの)下野(しもつけ)(栃木県)。現在の、群馬県と栃木県はあわせて「毛野(けの)の国」と呼ばれていました。それが、西の都に近い方から「上毛野」「下毛野」と名付けられ、さらに、2文字にしたものです。
  24. ^ (例)和→大和(やまと)(奈良県)・泉→和泉(いずみ)(大阪府南部)
  25. ^ (例)(こし)の国→越前(えちぜん)(福井県 さらに越前国からは、加賀(かが)能登(のと)(石川県)が分けられます)・越中(えっちゅう)(富山県)・越後(えちご)(新潟県)、吉備(きび)の国→備前(びぜん)(岡山県東部)・備中(びっちゅう)(岡山県西部)・備後(びんご)(広島県東部)
  26. ^ (例)(ふさ)の国→上総(かずさ)(千葉県中部)・下総(しもうさ)(千葉県北部・茨城県南部):当時は東京湾を渡って房総半島を北上する道が通常の道でした。
  27. ^ 都を移すこと。
  28. ^ 唐は、国際的な国で、中国人でなくても高位の役人になれました。
  29. ^ 仲麻呂は、30年以上唐に滞在し、老齢になって日本に帰国しようと、遣唐使の帰りの船に乗りましたが、難船し船は唐に戻り、結局帰国できず唐の地で亡くなりました。
  30. ^ いろいろな資料を集めて、一つの書物を作ること。
  31. ^ それ以前に「富本銭(ふほんせん)」という貨幣があったという説がありますが、反対意見も強く決着していません。
  32. ^ (ちん)を「(ほう)(「宝」の旧字体)」の略字とみて「わどうかいほう」と読む説もあります
  33. ^ 金属をとかして、型に流しこんで、製品を作ること。
  34. ^ 税「租庸調」が米や布で払われた理由の一つが長く保管できることがああります。米は乾燥したところに保存しておけば1年以上食料としての役割を失いませんし、布は、長く保管ができるとともに、作製するのに大変手間がかかるため、量の割に高価なものとして取り扱えました。
  35. ^ 御物(ぎょぶつ)」とは、天皇の物について、天皇を尊敬していうことばです。
  36. ^ 仏教に対する、このような考えを鎮護国家(ちんごこっか)といいます。
  37. ^ 国分寺は男性のお坊さん(僧侶)の寺、国分尼寺は女性のお坊さん((あま)さん、尼僧(にそう))の寺です。この当時、僧になるには(出家(しゅっけ))、朝廷の許可が必要で、僧侶や尼僧は一種の役人でした。
  38. ^ このような土木技術は、中国の書物に書かれたものを学んだものです。当時、文字(漢字)を読める人は、役人か僧侶に限られていて、民衆が行う土木建築の多くは僧侶が指導しました。平安時代の空海も、各地でため池などを作ったことで有名です。
  39. ^ この民衆の生活に深くかかわろうとする教えは、道昭(どうしょう)に学びました。道昭は遣唐使で留学し、玄奘(げんじょう)に学んでいます。玄奘は、『西遊記』の三蔵法師のモデルになった人です。
  40. ^ 戒律とは仏教の修行者が守るべき生活上のルールを言います。正式に僧や尼僧として認められるには、修行を積んだ僧から、この戒律を伝えられなければなりませんでした。特に、中国(唐)で修行する場合には、その資格を持った僧(律師)から与えられていなければ、正式な僧として修行ができませんでした。日本には唐でも認められる律師がいなかったため、遣唐使の留学僧は留学の時困っていました。
  41. ^ 森や林を切り開いて、岩や石、雑草などをとりのぞいて、土をたがやし、水路を引いて、田んぼや畑にすること。
  42. ^ 三世代目で、朝廷におさめることになるので、耕作をやめて荒地にもどすようになりました。ただし、墾田永年私財法までの20年で三世代目になった例は少なかったのではないかといわれ、墾田永年私財法を求めた勢力がひろめた話とも言われています。

前章:
歴史の始まり
小学校社会/6学年/歴史編
日本の歴史の流れ
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