日本史/中世/鎌倉時代

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日本史/中世/鎌倉時代では、鎌倉時代について解説する。

範囲[編集]

源頼朝が、鎌倉に初の幕府を置いてから、後醍醐天皇らに滅ぼされるまでの150年ほどを、幕府があった鎌倉から名を冠し、「鎌倉時代」と言う。

政治[編集]

概略[編集]

平氏政権の興亡[編集]

院政期に力を持ちつつあった平家は、保元(ほうげん)の乱平治(へいじ)の乱により、棟梁の平清盛(たいらのきよもり)を中心に権力を握るようになった。平治(へいじ)の乱のあと、平清盛(たいらのきよもり)白河法皇(しらかわほうおう)に認められ、武士で初めて太政大臣(だじょうだいじん)に就任した。その後、摂津の大和田泊(おおわだのとまり)を改修して日宋貿易(にっそうぼうえき)を行ったほか、平清盛(たいらのきよもり)の娘徳子(とくこ)高倉天皇(たかくらてんのう)に嫁がせ外戚とし、権力を振るうなど栄華を極めた。 しかし、この動きに対し、東国の武士などには不満を持つ者もいた。平清盛(たいらのきよもり)後白河法皇(ごしらかわほうおう)を幽閉したことを契機とし、後白河法皇(ごしらかわほうおう)の息子である以仁王(もちひとおう)が令旨を出すと、源氏を中心とした武士が蜂起し、いわゆる源平合戦(げんぺいがっせん)がおこった。源平合戦(げんぺいがっせん)は初めは平氏優位に進んでいたが福原京(ふくはらきょう)への遷都の失敗や、養和(ようわ)の飢饉の発生、平清盛(たいらのきよもり)の死亡などの複数の要因や、源義経(みなもとのよしつね)の活躍などにより次第に不利になり、1185年、 壇ノ浦(だんのうら)の戦いで平家は滅亡した。

鎌倉幕府の成立[編集]

源平合戦で源氏が有利になるにつれて、源頼朝(みなもとのよりとも)は、鎌倉幕府の統治機構の基礎を築いていった。1180年に侍所(さむらいどころ)を設置し、1183年に後白河法皇(ごしらかわほうおう)に東国支配を認めさせ、ついで、1184年に公文所(くもんじょ)問注所(もんちゅうじょ)を設置した。またその翌年1185年には守護(しゅご)地頭(じとう)を認めさせ、鎌倉幕府の統治体制の基礎を作り、1192年に源頼朝(みなもとのよりとも)征夷大将軍(せいいいたいしょうぐん)に就任した。頼朝の死後、御家人の中で力を握ったのが、頼朝の妻でもあった北条政子(ほうじょうまさこ)をはじめとした、北条氏(ほうじょうし)だった。その後、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は朝廷の権威を高めようとし、西面の武士(さいめんのぶし)を配置するなどした。そんな中、三代将軍源実朝(みなもとのさねとも)公暁(くぎょう)に暗殺される事件が起こると、朝廷と幕府の対立は決定的なものとなり、1221年承久の変(じょうきゅうのへん)が起こった。結果は、武士の信任を得ていた北条氏の勝利となり、変に関与した3上皇は流布され、京都には朝廷の監視を行う六波羅探題(ろくはらたんだい)がおかれた。

得宗政治への推移[編集]

元寇と鎌倉幕府の衰退[編集]

社会・経済[編集]

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ご恩と奉公」で有名な主従関係は「いざ鎌倉」、すなわち有事の際に武士が駆けつけやすいよう、鎌倉から全国に街道が整備される要因である。

文化[編集]

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関連項目[編集]

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