高等学校世界史B/秦漢帝国

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秦の統一[編集]

戦国時代を統一した国は、(しん)である。秦は法家(ほうか)の思想を採用し、法家の李斯(りし)を登用した。


※ 法家とは、
高等学校古典B/漢文/侵官之害 (しんかんのがい)  : 韓非子(かんびし)
高等学校古典B/漢文/人之性悪 (ひとのせいはあくなり)  :荀子(じゅんし)
↑かれらのような思想。 いわゆる「性悪説」の世界観にもとづき、その悪の世の中を支配するために、きびしい法律や、きびしい外交・軍事などが必要であろう、・・・というような感じの思想である。
重要な点として、孔子は、法家ではない。 孔子や、その教えをよく受け継いでいるとされる孟子(もうし)の思想を、法家は否定しているのである。
つまり、秦の始皇帝は、孔子の思想を否定している。

秦は東方の6国を征服し、前221年に統一。 秦の王は、「王」に代わる呼称として、みずから(秦王自身)を「皇帝」(こうてい)を名乗った。「皇帝」の意味は「光り輝く神」という意味である。

この、秦の最初の皇帝のことを「始皇帝」(しこうてい)という。

以降、「皇帝」が中国王朝の君主の称号になった。

秦は、法家的な思想にもとづき、官僚制や法治を徹底させるため、中央から各地に官僚を派遣する群県政(ぐんけんせい)を全土に施行した。 また秦の始皇帝は、度量衡(どりょうこう)や貨幣や車軌(しゃき、意味:車幅)を統一した。貨幣は半両銭(はんりょうせん)に統一した。

標準計量器として、おもさの標準として青銅製のおもりの銅権や、体積の標準として陶量・銅量がつくられた。

いっぽう、法家以外の思想は弾圧・統制し、秦は、医薬・占い・農業などの実用書を除いて民間の書物を焼いて、儒者などを穴埋めにして処刑にするなどの焚書・坑儒(ふんしょ こうじゅ)を行った。

本を焼くことを「焚書」といい、儒者を穴埋めにすることを「坑儒」という。

また秦は、北方での戦国時代以来の長城(ちょうじょう)を修復させた。これが、いわゆる「万里の長城」である。

しかし、統制や土木事業の負担への、民衆の不満は大きく、始皇帝が没すると、全土各地で反乱が続発し、秦は統一後わずか15年で滅ぶことになり、秦は前206年に滅んだ。

秦を滅亡に導いた最初の反乱は、陳勝(ちんしょう)と呉広(ごこう)による農民反乱であった。 は「王侯将相(おうこうしょうしょう)、いずくんぞ種(しゅ)あらんや」という言葉を残しており、戦国時代以来の実力主義の風潮が表現されている。

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秦の滅亡後、各地で諸侯が争った。その中でも、二大勢力として、農民出身の劉邦(りゅうほう)と、楚の名門貴族出身の項羽(こうう)とが、争った。最終的に、劉邦が中国を統一する。項羽は死亡する。


※ この時代をあつかった漢文の史伝(しでん)
高等学校古典B/漢文/鴻門之会 (こうもん の かい) 進捗状況: 75% (2015-08-04) (2015-08-04)
高等学校古典B/漢文/四面楚歌 (しめん そか) 進捗状況: 75% (2015-08-05) (2015-08-05)

リンク先漢文の「沛公」(はいこう)」(はいこう)が劉邦である。「項王」(こうおう)とは、もちろん項羽である。


そして、中国統一した劉邦は皇帝になり、劉邦は漢の王朝を建て、劉邦は高祖(こうそ)となった。(前漢、ぜんかん)

そして劉邦は、新しい首都として、長安(ちょうあん)を都とした。(なお、それ以前の秦の時代の都は咸陽(かんよう)であった。)

咸陽→長安

漢は、当初は、諸王に領地などを認める封建制を、中央官僚派遣をとおして皇帝が間接的に支配する群県制とともに併用した。この封建制と群県制との併用を群国制(ぐんこくせい)という。(おそらく、秦の中央集権化の失敗を参考にして、漢は当初は中央集権をあきらめたのだろう。)

しかし漢は、だんだんと諸王の権力を剥奪して削減させていき、最終的に群県制とほぼ同じ制度になっていった。このような権力剥奪に抵抗する呉楚七国の乱が起きたが、漢によって鎮圧され、漢は中央集権体制へとなっていった。

銅奔馬(どうはんば)。匈奴との戦いのため、大量の馬が必要とされたのだろう。後漢の墓から、このような馬の像が、大量に出土している。武帝は、名馬とれた汗血馬(かんけつば)を欲しがった。汗血馬は、西域の大宛(だいえん)に産する。

漢による外征[編集]

前2世紀後半の武帝(ぶてい)の時代に、漢は、北方の匈奴(きょうど)を撃退した。漢は、匈奴を撃退するための同名を外国と結ぶため、中央アジアのタリム盆地の大月氏(だいげつし)に外交の使者を派遣した。張騫(ちょうけん)が、大月氏への使者となった。この中央アジアの地域のことを、中国から見て西になるので、西域(さいいき、せいいき)という。

漢は、西域のフェルガナ地方まで出兵した。

東北では、漢は、衛氏朝鮮(えいしちょうせん)を滅ぼし、朝鮮北部に楽浪郡(らくろうぐん)など4群を置いた。

南方では南越(なんえつ)を滅ぼし、ベトナム北部を支配した。


しかし、軍事費の増大などにより、漢の財政は悪化した。武帝は財政再建のため、塩・鉄・酒の専売や、物価統制である均輸法・平準法(きんゆほう、へいじゅんほう)を行うなどしたが、あまり財政再建の効果は無かった。

このころから、豪族が各地で影響力を持つように、なっていった。

なお、武帝のころから、官僚の登用制度として、各地の地方長官が、人物の評判をもとにした推薦によって官僚を選ぶ郷挙里選(きょうきょりせん)が実行された。だが実際には、豪族などの有力者やその子弟などが、推薦され、官僚として採用された。

新と後漢[編集]

武帝の死後、(皇后の親族である)外戚(がいせき)や、(後宮に仕える)宦官(かんがん)が権力をにぎるようになった。

1世紀のはじめ、外戚の王莽(おうもう)が皇帝に禅譲(ぜんじょう)をせまり、帝位をうばい、(しん)を建てた。

王莽(おうもう)は、儒教の思想にもとづいた政治を行おうとし、急激な改革を行ったが、反発をまねき、各地で反乱が起きた。 ( 赤眉の乱(せきびのらん) )

こうして、反乱が起き、新は倒れた。そして、最終的に漢が復興し( 後漢(ごかん) )、漢王族の劉秀(りゅうしゅう)( 光武帝(こうぶてい) )が皇帝になった。光武帝は、洛陽(らくよう)を都にした。

2世紀ごろ、宦官が、反対派の官僚や学者を弾圧する、党錮の禁(とうこのきん)が起き、政治は混乱した。

2世紀ごろに、飢饉が発生するなどして政治が混乱し、184年に華北(かほく)で黄巾の乱(こうきんのらん)が起きたが、反乱は鎮圧された。しかし、この鎮圧をきっかけに、鎮圧にあたった豪族らによる、国政の主導権争いのため、中国各地で群雄割拠の状態になり、諸侯による勢力争いの戦争が起き、220年に後漢は滅亡した。

黄巾の乱とは、張角(ちょうかく)が始めた宗教結社である太平道(たいへいどう)にもとづく反乱である。その太平道の反乱軍が、黄色の布を頭に巻いて目印にしていたので、そう言われる。


漢代の文化[編集]

漢のはじめごろは、法家が主流だった。しかし、武帝の時代に、儒学が官学とされた。武帝は、儒教の官僚に董仲舒(とう ちゅうじょ)を信任し、五経博士(ごきょうはかせ)を置かせた。

後漢時代に、儒家の経典を研究して注釈を行う訓詁学(くんこがく)がさかんになった。鄭玄(じょうげん)などの学者が、この時代の訓詁学の学者として有名である。

また、後漢の時代に、記録材料としての(かみ)が普及した。紙普及の以前の中国では、木簡(もっかん)や竹簡(ちっかん)、布などに書いていた。後漢の蔡倫(さいりん)が、製紙法を改良した人物だとして、有名である。


漢字の字体も、隷書(れいしょ)が造られた。

歴史学では、司馬遷(しばせん)が『史記』(しき)を、紀伝体(きでんたい)で著し、伝説の太古の時代から、武帝の時代までを『史記』にまとめられ、歴史書となった。紀伝体とは、重要人物ごとの伝記として、歴史書などを著述するスタイルである。(いっぽう、年表のように、年代ごとに区切って記述するスタイルは、編年体(へんねんたい)という。)

これを受け、後漢の班固(はんこ)が『漢書』(かんじょ)を編纂(へんさん)した。

外交[編集]

秦(しん)の発音が、英語のchina「チャイナ」などヨーロッパでの「中国」を表す語の発音のもとになったと考えられている。

  • ローマとの外交

後漢では、ローマ帝国の存在が知られており、大秦(だいしん)と呼んだ。使者を送った。班超(はんちょう)は、使者として甘英(かんえい)をローマに送った。 後漢に、「大秦王安敦」(だいしんおうあんとん)によって中国へ派遣された使者が、来ている。

大秦王安敦とは、ローマ皇帝 マルクス=アウレリウス=アントニウス のこととされる。

  • 日本との外交
金印(きんいん)。漢委奴国王印。 国宝。福岡市博物館蔵。1辺は2.3cm、重さは109g。材質は金。福岡県の志賀島(しかのしま)で1784年(江戸時代)に出土。
金印の印文。「漢委奴国王」と刻まれている。

歴史書『後漢書』(ごかんじょ)によると、1世紀半ばに、倭(わ)(=日本)の王が、漢に使いを送り、光武帝から金印(きんいん)などをあたえられたという。

金印の実物は、江戸時代に発見されている。江戸時代に、現在で言う福岡県の志賀島(しかのしま)で、1784年に発見され、金印には文字が刻まれており、「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)と、漢字が刻まれている。

金印は、形式上は、受け取った者が、皇帝に従うことになる。この金印のような中国による外交が、のちの唐代以降の冊封体制(さくほうたいせい)のきっかけだと考えられている。