高等学校日本史B/奈良時代

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権力闘争[編集]

奈良時代の初期には、藤原不比等が権力をにぎった。(なお、大宝律令を制定したのも、彼が中心。また、中臣鎌足の子。)

藤原不比等は娘の宮子(みやこ)を文武天皇と結婚させた。さらに、文武天皇と宮子の間に生まれた皇太子(のちの聖武天皇)に、娘の光明子(こうみょうし)を嫁がせた。

(724年、三世一身(さんぜい いっしん)の法(ほう)。)

(724年、聖武天皇が即位。)

不比等が死去すると、後続の長屋王(ながやおう)が権力をにぎって、長屋王は左大臣まで登りつめたが、不比等の子の4兄弟の策謀により、729年に長屋王は謀反の疑いをかぶさられ、729年に長屋王は自殺に追い込まれた(長屋王の変)。

なお、不比等の子の4兄弟はそれぞれ、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合((うまかい)・麻呂(まろ)。

ところが、長屋王の事件後、この4兄弟は全員、病死してしまう。

その後、皇族の橘諸兄(たちばなの もろえ)が政権をにぎり、唐から戻ってきた僧 玄昉(げんぼう) や吉備真備(きびのまきび)を登用した。

太宰府に派遣されていた藤原広嗣(ふじわらの ひろつぐ)は、これに不満をつのらせ、740年に九州で反乱を起こしたが、鎮圧された。


こうした政情不安や、疫病の影響もあってか、この乱が起きてからしばらく、聖武天皇は遷都をして、都を転々とした。遷都先は、恭仁(くに)、難波(なにわ) 、紫香楽(しがらき)である。(745年に平城京に戻る。)


そして、聖武天皇は仏教によって国を安定させようと思い、741年に国分寺建立の詔 (こくぶんじ こんりゅう の みことのり)を出した。(国ごとに国分寺の建立しようとした。) つづいて743年に大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅう の みことのり)を出した。


聖武天皇は749年に孝謙天皇(こうけん てんのう)(←女)に譲位してしまう。その後、藤原仲麻呂(ふじわらの なかまろ)が権力をにぎる。そして、橘諸兄(たちばなの もろえ)の子の奈良麻呂(ならまろ)が反乱をくわだてたが、発覚して鎮圧される。

なお、つぎの淳仁天皇のとき、藤原仲麻呂は「恵美押勝」(えみの おしかつ)と改名する。

孝謙天皇はまだ生きてるが、758年に淳仁天皇が即位した。そして、この淳仁天皇の時代に、藤原仲麻呂は道鏡(どうきょう)と対立する。(※ 「道鏡」は人名。僧侶。)

そして、追い詰められた藤原仲麻呂は反乱を起こすが、藤原仲麻呂は敗死する(恵美押勝の乱 (えみのおしかつ の らん) )

そして、孝謙天皇がふたたび天皇になり、称徳天皇(しょうとく てんのう)として即位する。(つまり、孝謙天皇と称徳天皇は同一人物。)

(なお、こういう、引退した天皇が再び即位することを重祚(ちょうそ)という。)

道教は法王の地位まで登りつめたが、孝謙天皇の死後は道鏡は勢力を失い、道教は下野(しもつけ)の薬師寺(やくしじ)に追放された。

そして、次の天皇には、天智天皇の孫である光仁天皇(こうにん てんのう)がたてられた。(なお、光仁までの天皇は、天武天皇の系統だった。)


経済など[編集]

人口が増えたので口分田は不足した。国の仕組みが整うにつれて、税の仕組みも整い、税の負担は重く、口分田を捨てて逃げ出す農民が増えた。なお、この時代に鉄製の農具が普及してきて、農業の生産力が上がった。

722年、政府は「百万町歩の開墾計画」 (ひゃくまんちょうぶ の かいこんけいかく)を出した。(しかし、実際に百万町歩が開墾されたのではないようだ。現代では、単なるスローガンにすぎないと思われている。)

朝廷は税を増やすため、田を増やす必要があり、そのため、法律を変え、開墾した3代にわたり、田を所有できるように法を制定した。これが 三世一身の法(さんぜい いっしん の ほう) であり723年の出来事である。

さらに743年(天平15年)には、期限が無く所有し続けられる 墾田永年私財法(こんでん えいねん しざい の ほう) が制定された。


  • 税について。墾田永年私財法(こんでん えいねん しざい の ほう)

この時代に農民は貧しくて、税の負担は重く生活が苦しく、多くの農民は竪穴住居に住んでいた。山上憶良(やまのうえの おくら)のよんだ貧窮問答歌(ひんきゅう もんどうか)には、このころの農民の苦しい生活のさまが歌われている。

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貧窮問答歌(要約)
人並みに田畑の仕事で働いているのに、服はボロボロなのを着ていて、家はつぶれて曲がっているようで、地面にはワラを直接に敷いている。父母は私のマクラのほうで嘆き悲しみ、妻子は私の足のほうで嘆き悲しんでいる。かまどには煙も立てられず、こしき(米の蒸し器)にはクモが巣を張り、飯をたくことも忘れてしまったというのに、それでもムチを持った里長(さとおさ)が税を取り立てようとする声が、寝屋まで聞こえる。こんなにも、つらい事なのか、世の中に生きることは。
世の中を 憂しとやさしと 思えども 飛び立ちかねつ とりにしあらねば
(世の中を、つらくて身もやせるほどだと思っても、鳥では無いから、飛び立つこともできない。)


また、人口が増えたので口分田は不足した。国の仕組みが整うにつれて、税の仕組みも整い、税の負担は重く、口分田を捨てて逃げ出す農民が増えた。なお、この時代に鉄製の農具が普及してきて、農業の生産力が上がった。

朝廷は税を増やすため、田を増やす必要があり、そのため、法律を変え、開墾した3代にわたり、田を所有できるように法を制定した。これが 三世一身の法(さんぜい いっしん の ほう) であり723年の出来事である。

さらに743年(天平15年)には、期限が無く所有し続けられる 墾田永年私財法(こんでん えいねん しざい の ほう) が制定された。

これは、つまり公地公民の原則を廃止したことになる。

また、貴族や豪族は、これを利用し、私有地を広げた。この貴族の私有地は、のちに 荘園(しょうえん) と呼ばれることになる。


  • 貨幣(かへい)、和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)
和同開珎

経済では、この奈良時代の都では、和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)という貨幣が708年(和同元年)に発行され、流通していました。 これより古い貨幣には、7世紀後半の天武天皇の頃に富本銭(ふほんせん)という貨幣がつくられています。