高等学校日本史B/律令国家への道
大化の改新
[編集]厩戸王の死後
[編集]622年に厩戸王(聖徳太子)が、次いで626年に
当時の倭国は唐の外圧に対処するため中央集権を進める必要に迫られていたが、643年に蘇我入鹿が厩戸王の子である
中央集権国家を目指す
大化の改新
[編集]乙巳の変ののち、皇極天皇は退位し、弟の
大王は現在の大阪府にあった
645年、中大兄皇子は有力な大王候補であった
乙巳の変の翌年の646年に
公地公民(こうちこうみん)、班田収授(はんでんしゅうじゅ)、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)などの税制の整備、戸籍・計帳の創設、国司(こくし)の設置等が主な内容であった。
- 公地公民
これまで豪族や王族たちが持っていた土地や人民は、すべて朝廷のものであるとした。また、朝廷が管理できない土地、人民の存在を禁止した。
- 班田収授
租を徴収するため、人民に田を与えて稲作をさせること。ただし実際に班田収授が行われるのはまだ先のことである。
国際情勢
[編集]7世紀半ばになると、朝鮮半島で戦乱が起こる。新羅(しんら、しらぎ、シルラ)が唐(とう)と連合して、百済(ひゃくさい、くだら、ペクチェ)を侵攻し、660年に百済は滅亡した。 倭国(わこく)は百済と親交があり、百済滅亡により倭国は朝鮮半島での影響力を失った。倭国のヤマト政権は百済の復活を名目として朝鮮半島での影響力を取り戻すため、663年に中大兄皇子の指導により朝鮮半島に軍を送り、倭国軍と新羅軍が軍事衝突して白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそうこうのたたかい) が勃発した。この戦いで倭国軍は新羅と唐の連合軍に敗れた。
白村江の敗戦を受けて中大兄皇子は、唐と新羅の倭国への直接攻撃に備えるため、九州の防備を強化する。九州北部に九州防衛のための兵士である防人(さきもり)を置き、水城(みずき)という水の満たされた濠(ほり)を持った土塁が築かれた防御地点を各地に築かせた。
(※ 発展的な話題: )九州で国防の拠点になった太宰府(だざいふ)の背後の山の頂に大野城(おおのじょう)がある。このような山にある城のことを一般に山城(やましろ、やまじろ)という。(※ 中学歴史の日本文教出版、教育出版の教科書で紹介の話題。)
天智天皇の即位
[編集]孝徳天皇が死去すると大王を退位していた宝皇女(たからのひめみこ、皇極天皇)が重祚(ちょうそ、天皇が再び即位すること)し、斉明天皇となった。引き続き中大兄が政権を率いたが、白村江の戦いのさなかに斉明天皇が死去した。中大兄は大王に即位せずにそのまま政務をみた(称制)。667年に、中大兄は都を今の滋賀県近江付近の大津宮(おおつのみや)に移した。この遷都は唐と新羅の連合軍の攻撃に備えてのことだと考えられる。
668年に中大兄皇子は大津宮で大王に即位し、のちの天智天皇(てんじてんのう)となる。同年、法典である近江令(おうみりょう)が成立したとされる。近江令は天智天皇が中臣鎌足に命じて編纂(へんさん)させたものであった。また天智天皇は、670年に日本最初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく) を作成する。
壬申の乱
[編集]671年に天智天皇が死去すると、672年に大王位をめぐって天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と、 近江朝廷を率いていた天智天皇の子の大友皇子(おおとものおうじ)が争った。この壬申の乱(じんしんのらん)は、大海人皇子が勝利し、敗れた大友皇子は自害した。大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)に移り、天武天皇(てんむてんのう)として即位した。天武天皇は684年に天皇を中心とした新しい身分制度である八色の姓(やくさのかばね)を制定し、豪族の身分を再編した。この時代に、日本初の貨幣である富本銭(ふほんせん)が発行されたとされる。
「倭国」に代わる「日本国」という国号や、「大王」に代わる「天皇」という称号は、このころ使われ始めたという説が有力である。
(※ 註脚 )八色の姓には、真人(まひと)・朝臣(あそみ・あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の8つの姓がある。
689年には飛鳥清御原令(あすかきよみはらりょう)を施行し(※ 飛鳥清御原令は史料が現存しておらず内容が不明)、翌年には戸籍である庚寅年籍(こういんねんじゃく)を作成した。
藤原京
[編集]天武天皇の死後、皇后が天皇として即位した(持統天皇(じとうてんのう))。 天武天皇が藤原京の建設を始めたが、完成前に死去したため、完成は持統天皇の時代となる。694年に都を飛鳥から現在の奈良の藤原京に遷都させた。藤原京は、道路が碁盤(ごばん)の目のように、格子(こうし)状に区画されており、この都の碁盤目のような区画は、唐の都長安を参考にしている。
白鳳文化
[編集]天武・持統朝のころの文化は、宮廷を中心とした仏教調の文化であった。これを白鳳文化(はくほうぶんか)という。 天武天皇の時代には大官大寺(だいかんだいじ)、薬師寺(やくしじ)が建設された。 絵画では、法隆寺金堂壁画や、高松塚古墳(たかまつづかこふん) 壁画がある。
彫刻では、薬師寺の三尊像(さんぞんぞう)や、興福寺(こうふくじ)の仏頭(ぶっとう)がある。
文学では、漢詩文が流行し、大津皇子(おおつみこ)がすぐれた作品を残した。 また、和歌もこの時代に五七調(ごしちちょう)の型式を整えた。歌人でもある額田王(ぬかたのおおきみ)や柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は、この時代の人物である。
大宝律令
[編集]- (たいほう りつりょう)
701年の文武天皇(もんむてんのう)のときに、 大宝律令(たいほうりつりょう) という法典が完成する。大宝律令は、唐の律令(りつりょう)という法律を参考にしています。
- ※ 大宝律令は原文が現存しておらず、内容は不明であるが、718年の養老律令と似た内容だろうと推測されている。なお、この養老律令も原文は現存していないものの、後年に著された注釈書から内容が復元されている。
「律」は罪人をさばくための刑法で、「令」(りょう)は役所や役人などに対する法律です。
この大宝律令は、 藤原不比等(ふじわらの ふひと) らが中心となって編纂(へんさん)された。藤原不比等は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子である。
政府の中央組織には 二官八省(にかんはっしょう) が置かれた。二官には、神々をまつる祭祀を行なう 神祇官(じんぎかん)と、一般の政務をおこなう 太政官(だじょうかん)がおかれた。
太政官には、 太政大臣 を始めとして、 左大臣 、 右大臣 など、様々な官職が置かれた。
太政官の下に、大蔵省などの八省が置かれた。 八省は、宮内省(くないしょう)、大蔵省(おおくらしょう)、刑部省(ぎょうぶしょう)、兵部省(ひょうぶしょう)、民部省(みんぶしょう)、治部省(じぶしょう)、式部省(しきぶしょう)、中務省(なかつかさしょう)である。
┏━━中務省 ┏━ 左大臣 ━┓ ┏━ 左弁官 ━━╋━━式部省 ┏━ 太政官 ━╋━ 太政大臣 ━╋━ 大納言 ━╋━ 少納言 ┣━━治部省 ┃ ┗━ 右大臣 ━┛ ┃ ┗━━民部省 天皇━┫ ┃ ┃ ┗━ 右弁官 ━━┳━━兵部省 ┃ ┣━━刑部省 ┗━ 神祇官 ┣━━大蔵省 ┗━━宮内省
- 中務省(なかつかさしょう)の仕事は、詔(みことのり)や勅(ちょく)の作成。
- 式部省(しきぶしょう)の仕事は、役人の人事や教育。
- 民部省(みんぶしょう)の仕事は、戸籍や租税。
- 兵部省(ひょうぶしょう)の仕事は、軍事や警備。
- 刑部省(ぎょうぶしょう)の仕事は、刑罰や裁判。
- 大蔵省(おおくらしょう)の仕事は、物資の管理や財政。
- 宮内省(くないしょう)の仕事は、宮中の事務や庶務。
- 治部省(じぶしょう)の仕事は、儀式や外交。
また、重要な地域には、専門の統治機構をもうけた。
太宰府(だざいふ)も、そのひとつである。筑紫が国防上の重要地点だったので、筑紫に太宰府を設けたのである。太宰府は、九州全域を統轄した。
京都には京識(きょうしき)を設け、左京職と右京職の2つの京職があった。
さらに、摂津(せっつ)は外交上重要なので、摂津に摂津職(せっつしき)を置き、難波(なにわ)を管轄させた。(摂津はいまでいう兵庫県あたりの場所。海(大阪湾など)に面するので、外交上重要だったのだろう。難波(なにわ)は、大坂の地名。)
- 官吏の取り締まり
官吏を対象とする取り締まりのため、弾正台(だんじょうだい)が置かれた。
- 警察・軍事
京都の宮殿の警備のため、5つの衛府(えふ)が置かれ、あわせて五衛府(ごえふ)といわれた。また、京都の警備をする者たちは衛士(えじ)と呼ばれた。
また、一般の国々の軍事・警察のため諸国には軍団(ぐんだん)を置き、九州の防衛には防人(さきもり)を置いた。
- 人事制度
各官庁の官職は、原則として4等級て構成されており、こうした制度を 四等官(しとうかん)制という。四等官は、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)である。
官人の階級は、全部で30の階級に分けられた。
官人の仕事は、原則として、位階に相当する官職に任命された(官位相当制(かんい そうとうせい) )。
五位以上の官人は貴族(きぞく)と呼ばれた。(一位に近いほうが、階級が高い。)
また、五位以上の官人の子には、(役所への就職時に)父や祖父の位階に応じた位階を与えられた(蔭位の制(おんいのせい))。(※ 親が一位なら子は五位からスタート、のようなシステム。)
官人の給与では、位階に応じて、「食封」(じきふ)や「禄」(ろく)が与えられた。食封とは、定められた数の戸から、そこからの租税をもらえる制度。
また、位階に応じて「位田」(いでん)や「位封」(いふ、いふう)などの給与が与えられ、官職に応じて「官田」などの給与が与えられた。
また、下級官人の子が官人になるためには、「大学寮」や「国学」などに入学して官人になるための教育を受ける必要があった。
- 刑罰
司法制度では、刑罰に、笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)の5つの刑があった。また、国家・天皇・尊属に対する罪は八虐(はちぎゃく)と言われ、とくに重罰とされた。
- 地方の人事
国 (国司) ┃ 郡 (郡司) ┃ 里 (里長)
政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。 まず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。
国には、中央の朝廷から、国司(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。
郡を管理する役職は、郡司(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいてい、その地方の豪族が郡司です。
また、地方の役所を図にまとめると、次のようになる。
(地方) 国司━━郡司━━里長
中央貴族を国司に任命し、地方豪族を郡司に任命することが多かった。
また、地方と都との連絡のために、駅(えき)がつくられた。駅には、馬とその乗り手が配置され、伝令の仕事をした。
- まめ知識
貴族の人数は、全国あわせて200人ほどだと考えられている。(※ 中学の東京書院の教科書で紹介の話題。) なお、朝廷の役人は1万人ほど。平城京の人口は10万人ほど。(※ 中学の自由社の教科書より。)唐の長安の人口は100万人ほど。(※ 中学の自由社の教科書より。)
日本において、国ごとに置かれた役所のことを国府(こくふ)という。
この頃の時代の日本では、役所では、印鑑(いんかん)を文書に押して証明書とする制度が整った。
農民などの暮らし
[編集]大宝律令のころに、班田収授や租庸調(そようちょう)も定められた。
人々の身分は良(りょう)と賤(せん)に分かれていました。「賤」は奴隷などのことで、いわゆる「奴婢」(ぬひ)です。男の奴隷が奴(ぬ)で、女の奴隷が婢(ひ)です。奴婢は、売買もされたという。 「良」の人々の多くは、いわゆる農民などのことです。奴婢は全人口の1割ほどで、奴婢以外との結婚を禁じられるなどの差別を受けていました。
政府は人民を管理するために戸籍(こせき)を作り、人民に耕作をさせるための口分田(くぶんでん)という田を与え耕作させます。
この当時の戸籍とは、人民をひとりずつ、公文書に登録することで、住所や家族の名や年齢、家の世帯主、などを把握することです。
この奈良時代に、すでに「戸籍」という言葉がありました。
このような情報の管理は、税をとることが目的です。税の台帳である計帳(けいちょう)をつくるため、戸籍が必要なのです。
現在の日本での戸籍とは、「戸籍」の意味が少しちがうので、注意してください。「計帳」という言葉は、この飛鳥時代の言葉です。詔の本文に書かれています。
詔の本文に、「初造戸籍計帳班田収授之法。」とあります。現代風に読みやすく区切りを入れれば、「初 造 戸籍 計帳 班田収授之法。」とでも、なりましょう。
目的は、収穫から税収をとるためです。前提として、公地公民が必要です。
6年ごとに人口を調査します。
税を取るにも、まずは人口を正しく把握しないと、いけないわけです。女にも口分田(くぶんでん)が与えられます。
原則として、6才以上の男女に田を与えます。男(6才以上)には2反(720歩=約24アール)の田を与え、女(6才以上)には男の3分の2(480歩=約16アール)の田を与えています。5才以下には与えられません。
死んだ人の分の田は、国に返します。
これらの制度を班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)と言い、唐の均田制(きんでんせい)に習った制度である。
- 租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)
種類 | 内容 | |
---|---|---|
税 | 租 | 収穫の約3%の稲 |
調 | 地方の特産物(糸、絹、真綿、塩、 魚、海藻、鉄、・・・)などを納める。 | |
庸 | 麻の布を納める。(労役の代わり。) | |
出挙 | 強制的に稲を農民に貸し付け。 5割の利息を農民が払う。 | |
労 役 |
雑徭 | 土木工事など。年間60日以内。 |
運脚 | 税(租庸調)などを都へ運ぶ。 | |
兵 役 |
衛士 | 都で兵士を1年。 |
防人 | 九州北部で兵士を3年。 |
税(ぜい)の種類です。
租(そ)とは、田の収穫量の、およそ 3%の稲 を国に納めよ(おさめよ)、という税です。 調とは、絹や地方の特産物を国に納めよ、という税です。
庸(よう)とは、都に出てきて年10日以内の労働をせよという労役(ろうえき)か、または布を納めよ、という税です。
前提として、公地公民(こうちこうみん)や班田収授(はんでんしゅうじゅ)などが必要です。
これとは別に、出挙(すいこ)という、国司が強制的に農民に春に稲を貸し付けて、秋に5割の利息を農民から取る制度があり、税のように考えられていました。
この他、一般の人々の負担には兵役(へいえき)や労役(ろうえき)などがあり、兵役では防人(さきもり)として3年間ほど九州に送られたり、衛士(えじ)として都の警備を1年間 させられました。
労役では、雑徭(ぞうよう)として土木工事などの労働を60日以内(1年あたり)させられたり、運脚(うんきゃく)として庸・調を都まで運ばされました。
農民の負担が重い一方で、貴族は税などを免除されました。
- 国・郡・里
国 (国司) ┃ 郡 (郡司) ┃ 里 (里長)
政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。 まず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。
国には、中央の朝廷から、国司(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。
郡を管理する役職は、郡司(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいてい、その地方の豪族が郡司です。